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七章
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居間の吹き抜けから、紅茶の芳香がふわりと漂っている。飛鳥はロートアイアンのひやりとした手摺を掴んで、身を乗りだす。
「ヘンリー、お帰り!」
にこやかに見あげるセレストブルーの瞳を、飛鳥も満面の笑みで迎えた。
「ラスベガスはどうだった?」
「まぁまぁかな。看板は、屋外向けよりも店内装飾に欲しいって意見が多かったな」
「室内かぁ。絵画やポスター替わりに使いたいのかな? 立体映像の方は?」
半月以上も留守にしていたことが嘘のような、しっくりと落ち着いたヘンリーにほっとしながら、飛鳥は矢継ぎばやに質問を繰りだしている。
「お茶が冷めてしまうよ」
ヘンリーに言われてやっと気がついて、飛鳥はローテーブルに目を向ける。ティーカップの横には、ほんのりと桃色が透けて見える、ふっくらと膨らんだ白い二つ折りの餅が、優雅に小花の散った皿に載っていた。
「花びら餅――。また日本にも寄っていたの?」
「トヅキ社長にお会いしてきたよ」
訝しげに眉根を寄せた飛鳥に、ヘンリーは安心させるように人差し指を立てた。
「スミスがなかなか掴まらなくてね。日本でやっと時間が取れたんだ」
本来はヘンリーの父親の秘書だったスミス氏は、コズモス社の取締役へ、そして最近ではアーカシャーHDの取締役も兼ねている。文字通り世界を駆け回っていて、ヘンリーですら、なかなか顔を合わせることがないのだ。もっともネット会議が普及し、時差さえ考慮すれば、本人がその場にいなくても問題なく会話は成立するのだ。
それなのにわざわざ会いに――、というヘンリーの行動に、飛鳥はまたもや不安げに頭を傾げていた。
「何か、難しい問題が起きたの?」
「これはまだ未確定なんだけれどね」
眉間に皺を寄せた厳しい面持ちのヘンリーに、飛鳥は唾をゴクリと呑み込んで顔を寄せる。
すっとこめかみにキスを落とされ、アールグレイがふわりと香った。
「ニューイヤーのお祝いをまだしていなかった」
「ヘンリー!」
クスクス笑うヘンリーに、飛鳥は精一杯の膨れっ面を向ける。
「酷いお返しだな、その顔は。せっかく良いニュースを持って帰ったのに」
信じられないよ、とばかりに唇を尖らせている飛鳥を、悪戯な瞳で見つめ返しヘンリーは声を潜めた。
「実はね、」
「うん」
真剣な目つきに戻って飛鳥が身を乗りだしたところ、今度はくしゃりと頭を撫でられた。
「…………!」
じっとりと睨みつける飛鳥を見て、ヘンリーは声をたてて笑っている。
「いや、ごめん。久しぶりだからさ、つい、ね」
「アーニーは?」
もう、ヘンリーから聴くのは諦めた、とでもいうように飛鳥はぷいっと横を向いて誰にでもなく尋ねた。
「まだニューヨークだよ」
こくり、とヘンリーが紅茶を飲みくだす音が、そっぽを向いている飛鳥の耳に届く。ひと息ついたヘンリーは、へそを曲げてしまった飛鳥の機嫌を取るように、甘やかな声で話し始めた。
「内々の情報なんだけどね。ガン・エデン社が特許侵害で訴えられただろう? 近々、その特許を使った通信機器の減産に踏み切るらしいんだ。当然だろ? イメージダウンの上に、販売中止の可能性も視野にいれなきゃいけない。売上は間違いなく落ちるからね。敗訴判決がでてからでは、在庫を捌ききれなくなる。三ヶ月後には、まず10%から15%は生産量を落とすはずだ。だからね、それに先んじて彼らの下請けをしている日本の部品会社の空いた枠を、買取に行っていたんだ。トヅキ社長のつてでね。僕らはこの機に乗じてTSの生産量を拡大するんだよ」
目を瞠って振り返った飛鳥に、いつもの優雅な笑みを湛えたヘンリーが映る。
「きみのお父さんの横の繋がりには驚かされたよ」
「……夏に会ったきりだ」
「お元気にされてらしたよ」
飛鳥は俯いて、冷めかけた紅茶に手を伸ばすとこくりと飲んだ。
「花びら餅、デイヴが好きなんだ」
「うん。彼に、日本に来てるって言ったら、買ってきてくれって頼まれたんだ」
「吉野も好きなんだ」
「まだ沢山あるよ」
飛鳥はやっと緊張が解けたように、ローテーブルに置かれた菓子皿を手にとった。
「ヨシノがいたら、日本茶を淹れてくれたのにね」
「Aレベル試験の真っ只中だよ――。これ、学校に届けてやってもいいかな?」
丸く平らに伸ばした白い餅に紅餅を重ね、白味噌のあんをゴボウとともにのせてくるりと包んである上品な花びら餅は、いかにも懐かしく日本の正月を思いださせてくれる、縁起ものでもあるのだ。元来は茶道の初釜に使われるお菓子で、甘いものが嫌いな吉野も、可愛がってくれていたお年寄りたちのお茶席でだされる和菓子だけは、喜んで食べていたのだ。
「かまわないよ。一緒に行こうか、激励を兼ねて」
にこやかな笑みで応えたヘンリーに、飛鳥はぎこちなく微笑み返して、花びら餅にかぷりと大きくかぶりつく。
「ありがとう、ヘンリー」
今度は頬を甘い菓子で膨らませている飛鳥が、声にならないほどの小さな声で呟いた。喉元に込み上げてきている嗚咽を、弾力あるこの花びら餅で塞いで――。
ありがとう。また、助けてくれて。
ガン・エデン社の減産で潰れたかもしれない下請け会社を、助けてくれてありがとう、と。
「ヘンリー、お帰り!」
にこやかに見あげるセレストブルーの瞳を、飛鳥も満面の笑みで迎えた。
「ラスベガスはどうだった?」
「まぁまぁかな。看板は、屋外向けよりも店内装飾に欲しいって意見が多かったな」
「室内かぁ。絵画やポスター替わりに使いたいのかな? 立体映像の方は?」
半月以上も留守にしていたことが嘘のような、しっくりと落ち着いたヘンリーにほっとしながら、飛鳥は矢継ぎばやに質問を繰りだしている。
「お茶が冷めてしまうよ」
ヘンリーに言われてやっと気がついて、飛鳥はローテーブルに目を向ける。ティーカップの横には、ほんのりと桃色が透けて見える、ふっくらと膨らんだ白い二つ折りの餅が、優雅に小花の散った皿に載っていた。
「花びら餅――。また日本にも寄っていたの?」
「トヅキ社長にお会いしてきたよ」
訝しげに眉根を寄せた飛鳥に、ヘンリーは安心させるように人差し指を立てた。
「スミスがなかなか掴まらなくてね。日本でやっと時間が取れたんだ」
本来はヘンリーの父親の秘書だったスミス氏は、コズモス社の取締役へ、そして最近ではアーカシャーHDの取締役も兼ねている。文字通り世界を駆け回っていて、ヘンリーですら、なかなか顔を合わせることがないのだ。もっともネット会議が普及し、時差さえ考慮すれば、本人がその場にいなくても問題なく会話は成立するのだ。
それなのにわざわざ会いに――、というヘンリーの行動に、飛鳥はまたもや不安げに頭を傾げていた。
「何か、難しい問題が起きたの?」
「これはまだ未確定なんだけれどね」
眉間に皺を寄せた厳しい面持ちのヘンリーに、飛鳥は唾をゴクリと呑み込んで顔を寄せる。
すっとこめかみにキスを落とされ、アールグレイがふわりと香った。
「ニューイヤーのお祝いをまだしていなかった」
「ヘンリー!」
クスクス笑うヘンリーに、飛鳥は精一杯の膨れっ面を向ける。
「酷いお返しだな、その顔は。せっかく良いニュースを持って帰ったのに」
信じられないよ、とばかりに唇を尖らせている飛鳥を、悪戯な瞳で見つめ返しヘンリーは声を潜めた。
「実はね、」
「うん」
真剣な目つきに戻って飛鳥が身を乗りだしたところ、今度はくしゃりと頭を撫でられた。
「…………!」
じっとりと睨みつける飛鳥を見て、ヘンリーは声をたてて笑っている。
「いや、ごめん。久しぶりだからさ、つい、ね」
「アーニーは?」
もう、ヘンリーから聴くのは諦めた、とでもいうように飛鳥はぷいっと横を向いて誰にでもなく尋ねた。
「まだニューヨークだよ」
こくり、とヘンリーが紅茶を飲みくだす音が、そっぽを向いている飛鳥の耳に届く。ひと息ついたヘンリーは、へそを曲げてしまった飛鳥の機嫌を取るように、甘やかな声で話し始めた。
「内々の情報なんだけどね。ガン・エデン社が特許侵害で訴えられただろう? 近々、その特許を使った通信機器の減産に踏み切るらしいんだ。当然だろ? イメージダウンの上に、販売中止の可能性も視野にいれなきゃいけない。売上は間違いなく落ちるからね。敗訴判決がでてからでは、在庫を捌ききれなくなる。三ヶ月後には、まず10%から15%は生産量を落とすはずだ。だからね、それに先んじて彼らの下請けをしている日本の部品会社の空いた枠を、買取に行っていたんだ。トヅキ社長のつてでね。僕らはこの機に乗じてTSの生産量を拡大するんだよ」
目を瞠って振り返った飛鳥に、いつもの優雅な笑みを湛えたヘンリーが映る。
「きみのお父さんの横の繋がりには驚かされたよ」
「……夏に会ったきりだ」
「お元気にされてらしたよ」
飛鳥は俯いて、冷めかけた紅茶に手を伸ばすとこくりと飲んだ。
「花びら餅、デイヴが好きなんだ」
「うん。彼に、日本に来てるって言ったら、買ってきてくれって頼まれたんだ」
「吉野も好きなんだ」
「まだ沢山あるよ」
飛鳥はやっと緊張が解けたように、ローテーブルに置かれた菓子皿を手にとった。
「ヨシノがいたら、日本茶を淹れてくれたのにね」
「Aレベル試験の真っ只中だよ――。これ、学校に届けてやってもいいかな?」
丸く平らに伸ばした白い餅に紅餅を重ね、白味噌のあんをゴボウとともにのせてくるりと包んである上品な花びら餅は、いかにも懐かしく日本の正月を思いださせてくれる、縁起ものでもあるのだ。元来は茶道の初釜に使われるお菓子で、甘いものが嫌いな吉野も、可愛がってくれていたお年寄りたちのお茶席でだされる和菓子だけは、喜んで食べていたのだ。
「かまわないよ。一緒に行こうか、激励を兼ねて」
にこやかな笑みで応えたヘンリーに、飛鳥はぎこちなく微笑み返して、花びら餅にかぷりと大きくかぶりつく。
「ありがとう、ヘンリー」
今度は頬を甘い菓子で膨らませている飛鳥が、声にならないほどの小さな声で呟いた。喉元に込み上げてきている嗚咽を、弾力あるこの花びら餅で塞いで――。
ありがとう。また、助けてくれて。
ガン・エデン社の減産で潰れたかもしれない下請け会社を、助けてくれてありがとう、と。
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