胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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 重くのしかかる曇天を見上げて、白く凍りついていく息を、吉野はわざと大きく空に向けて吐きだした。
「なぁ、この窓、もう閉めていいだろ? 腹減っていると寒さが骨身に染みるんだよ」
 この広い美術室でキャンバスに向かうアレンの背中に声をかける。驚いた顔で振り向いた彼は、今気づいたように開け放たれたフランス窓に視線を流し、慌てて駆け寄り閉めきる。

「ごめん」
「換気するとか言って、そのまま忘れてたのかよ」
 呆れ声の吉野をアレンは眉を八の字にして上目遣いに見上げ、小首を傾げてにこっと微笑む。
「お茶、飲みに行く? もう少ししたら」
「いいよ、お前のもう少しは長いから。期待すると絶望する」

 白い蛇腹のセントラルヒーティングの前まで椅子を引きずり、吉野は座面をまたいでどっかと腰かける。
 ほどよく温まってきた背中を丸め、背もたれに腕をかけて、その上に頭をのせて絵筆を握るアレンを眺める。形の良い眉を怒っているようにきゅっと寄せたかと思うと、いきなりにやにやと口許を緩めたり、唇を尖らせたり引き結んだり――。百面相しながらアレンはキャンバスを睨んでいるのだ。

 糸を張ったような静寂の満ちた教室内に、時折、カシャカシャと細かな音が散る。

 身動きすることすら罪悪のような、自分のわずかな息遣いすら煩わしく感じるこの空間に溶けてしまったかのように吉野はその場に座っている。



 どれくらい経っただろうか、夢中で絵筆を走らせていたアレンは、ほうっと息を漏らし、はっと思いだしたように周囲を見回した。窓の外はもう真っ暗だ。壁際のセントラルヒーティングの前に、背もたれに頬をついている吉野を見つける。

「終わり?」
 吉野の方が先に口を開いた。
「うん。起きてたの? 眠っていると思っていた」
「見てたんだ」
「どう?」
「綺麗だよ」
 目を細めた吉野に、アレンは嬉しそうに微笑み返す。



「アレン」
 ガラリと戸が開き、フレデリックが顔を覗かせる。
「遅いから迎えにきたよ」
「フレッド」
 ガタッと椅子から立ちあがった吉野は、すたすたと戸口に向かう。肩の高さに掌を挙げてフレデリックと手と手を打ち合す。
「俺、飯食いに行くからさ、後は頼んだぞ」

 え? と、アレンが慌てて道具を片づけにかかった時には、吉野の姿はもうなかった。

「あ、怒らせちゃったかなぁ。ずいぶん待たせてしまったから……」
 一瞬にして落ち込んだアレンを慰めるように、フレデリックはその肩を叩いた。
「いつものことだよ。絵はこれで完成? 綺麗だね」
「ううん。まだ下絵なんだ。もうすぐASレベル試験だから、とりあえずここまで」

 森閑とした雪景色の中に埋もれる東屋から、遠くを見つめる青年の姿が描かれているその絵は、ほとんど色がない。青みがかった白一色の濃淡だけで表現され、身体をひねってベンチに腰かける黒いローブの青年だけが、色彩を持って浮きあがり存在感を示している。

「これ、彼だね?」
「うん」
「ヨシノ、何も言わなかった?」
「綺麗だって」

 嬉しそうに笑ったアレンを、フレデリックは意外そうに見つめ返した。あの吉野が自分の絵を描かれて文句も言わず、なおかつ綺麗だなんて! 信じられない面持ちで、吉野の座っていた椅子を眺める。

「ヨシノ、ずっとそこで付き合ってくれていたんだ。眠らずに」
 アレンは肩をすくめてクスクスと笑った。吉野が居眠りせずに自分の絵を見ていてくれたことがよほど嬉しかったのだろう。
 フレデリックは頷いて、吉野の使っていた椅子に腰をおろした。
「彼、近くできみの絵を見た?」

 のんびりと筆を洗い、丁寧にパレットの絵の具を拭き取っているアレンを、フレデリックは座ったまま見上げる。

「ずっとそこに座っていたよ。寒いからって。彼、冬でも平気で木に登るくせに、今日は猫みたいに暖房の前で丸くなっていた」
 クスリと笑ったフレデリックに、アレンも手を動かしながら可笑しそうに応えた。
「腹減ったー、って言っていたんだろ? いつものエネルギー切れだね」
 クスクス笑いながら、同時にフレデリックはやるせなく息を漏らした。

 この位置からはあの絵は見えない。彼はアレンの絵を見ていないのだ。

 ウイングカラーシャツに灰色のウエストコート、その上に生成りの丈の長いエプロンをしたアレンを、フレデリックはじっと見つめた。
 波打つ黄金の髪。伏し目がちな青紫の瞳にかかる金の睫毛、整った鼻梁。花弁のような唇。抜けるように白い肌――。その表情には、入学したての頃のような幼さはもうない。それなのに、彼は今でも天使さながらに無垢で透明だ。彼の描くこの絵のように――。


「綺麗だ」
 呟いたフレデリックに、アレンは面をあげて花が開くように微笑んだ。
「冬試験が終わるまで続きはお預けだなんてね。もう、頭の中ではできあがっているのに! なんだかもどかしいよ」
「うん、僕もだ。今は試験優先だからね。さぁ、僕も手伝うよ。早く片づけて僕らも夕食に行かないと」

 フレデリックは立ちあがり軽く伸びをすると、にっこりとアレンに微笑みかけた。




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