胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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 吹き抜けの居間から笑い声が響き渡っている。いつもの静かな朝の始まりとは明らかに違う賑やぎに、ああ、デヴィッド卿が帰っていらしたのか……、とアレンは廊下を急ぎ、回廊の手摺から階下を覗いた。

「よう! お前にしちゃ早起きだな!」
 聴き馴染んだ声に、鬱々としていたアレンから花がほころぶような笑みが溢れる。そのまま壁づたいに回廊を周り、螺旋階段を駆けおりる。

「ヨシノ、どうしたの? サウードの方はもういいの?」
 わずかな距離にもう息をあげ肩で呼吸しているアレンに、吉野はいつものように、不満げに目を細める。

「謹慎中だよー。悪い子だからね、ヨシノは」
「おい!」

 わざとらしくため息をつく吉野に代わって、デヴィッドが揶揄うように答える。そして、しかめっ面をする当人のことな知らぬふりで、つーんと澄ましてお茶を飲んでいる。
 首を傾げてこの二人を眺めていたアレンだったが、吉野が戻っていることがやはり嬉しくて、けれど深く事情を尋ねてへそを曲げてしまわないように慎重に、ぎこちない笑みを浮かべて尋ねた。

「えっと、じゃあ、しばらくここにいるの?」
 今度は飛鳥が笑って答えた。
「学校が始まるまでいるって」
「新年のパーティーには出なきゃ」
「駄目」
「もう出席の返事出したんだぞ」
「だーめ」

 取り付く島のないデヴィッドから不服そうに顔を逸らし、吉野はソファー越しに立ち止まったままのアレンを振り返る。

「なぁ、朝飯食ったらさぁ、雪だるまを作ろう」
 その誘いにアレンは両頬を両手で抑えて、こくこくと何度も頷きながら
締まりなくにまにまと微笑む。
「俺も、もう一回食ってくる。なぁ、聴いてくれよ、デヴィの奴ひどいんだぞ! 俺、何も悪くないのにさぁ……」


 アレンに愚痴をこぼしながらダイニングに向かう吉野を微笑ましく見送って、飛鳥はデヴィッドに顔を寄せて小声で訊ねる。

「それで本当のところ、あいつ、何をしでかしたの?」
 その瞳に滲む不安を取り除くように、デヴィッドはにっこりと笑って首を振る。
「そうじゃなくて、悪い友達ができたっていうか、」
「でも、サウード殿下のお宅にお世話になっていたんだろ? それも嘘なの?」
「そうじゃないよぉ。殿下の親戚とか友人って、いわゆる超お金持ちだからさ、遊び方がぶっ飛んでいるっていうか、まぁ、ヨシノくらいの年齢の子には相応しくないっていうか、そういうことだよ! 巻き込まれる前に逃げてきたってわけ。だから大丈夫。心配しないで、アスカちゃん」

 そういうことがどういうことなのか、飛鳥にはまるで解らない。けれど、デヴィッドの自信満々の「大丈夫」には、なぜだか有無を言わせない何かがあった。それ以上言い返せないまま曖昧に微笑んだ飛鳥に、デヴィッドもにっこりと微笑み返した。

「僕らも雪だるま、作ろっか? こんなに積もるなんて、滅多にないもんねぇ」




 ライトブラウンのチェスターコートを全開し、手の甲で額の汗を拭いながら、アレンは瞳を輝かせて背後で眺めている吉野を振り返る。満足げな笑みを浮かべて身体をずらし、完成したばかりの大作を気取った仕草で刺指し示す。

 ゴールドクレストの木立の間に、透き通るように白い少年の像が誕生している。今にも歩きださんばかりの軽やかさで、軽く手を添えた小さなラッパを天に向かって吹いている。

「すごいな、お前!」
 息を呑んで目を細める吉野に、「どう? デヴィッド卿とアスカさんに勝てるかな?」とアレンもまんざらではない面持ちで訊ねている。
「勝てるよ」
 吉野に革手袋を嵌めた手でぽんぽんと頭を撫でられ、アレンは嬉しそうに首をすくめる。


「おーい! 時間だよ、できた?」
 デヴィッドの声が木立をぬって二人のもとに届く。
「OK!」
 吉野の返答からしばらくすると、サク、サクと雪を踏みしめる二人の足音が近づいてきた。

「へぇー! ピ-ターパンだね、ケンジントン公園の!」
「うん。可愛い。昔の吉野そっくり」

 ん? と首を捻り、デヴィッドと吉野がアレンを見ると、彼は飛鳥と顔を見合わせて、意味有りげににこにこと笑っている。

「似てるか?」
 吉野は眉を寄せてピーターパン像を覗き込む。


「ほら、僕たちのも見てよ」
 飛鳥に急かされ、今度は小径を挟んだ向こう側の木立に踏み入る。少し奥まった場所にある小さな空き地のベンチに、雪でできた彫刻が座っていた。

「考える人!」
「ヘンリーだろ、これ」

 見るなり笑いだした吉野を横目に、アレンもしげしげと像を眺めた。思わず笑みが零れていた。ロダンの考える人が、兄の顔をしているなんて――。

「本当だ、似ているね」
「こういうところな」

 吉野は思い切り眉間に皺を寄せてみせる。

「でも、やっぱりかなわないな、お二人には……」

 アレンは残念そうにため息を漏らした。既存の彫像対決は、デヴィッド卿とアスカさんチームの勝ちだ。どう見たって、この兄の迫力には勝てない……。

「そんなことないよ、君たちのピーターパンもいいできじゃないか! よくあんな細い脚を作れたね! 僕たちは安定重視でこれを選んだのに」

 飛鳥に賛同するように、デヴィッドもうんうんと頷いている。

「判定はサラに頼もうか」

 デヴィッドがにっこりと宣言する。
 熱を出して寝込んでいるサラが元気になったら見てもらおう。その前に溶けたら嫌だから、写真に取っておこう。そんな主旨で始めたゲームだ。彼らはもう充分に楽しんで満足していた。

「お茶にしようか」
 飛鳥は、吉野とアレンに同意を求めるように呼びかけた。
「腹、減ったな」
「お昼抜きだもの」
 珍しく、アレンも真剣な顔で呟いている。

「ヘンリーに送ろうねぇ。きみの彫像が見張ってくれているから、心配いらないよ、て」

 デヴィッドは、呟きながら手にしたTSを彫像に向けてシャッターを切った。次いで、笑いながら大きく腕を振って像を指差す。

「ほら、記念写真だ! みんな並んで!」





 温かい居間に戻り、湯気の立つ淹れたての紅茶を飲んだ。パチパチと爆ぜる暖炉の柔らかな熱のおかげで、かじかんでいた指先も温まっている。
 ほっとひと息ついたころ、吉野が暖炉の上のTS画面を起動させた。インターネット接続で、テレビとして使っているものだ。

「パテント・トロール……。ガン・エデン社、また特許侵害で訴えられたんだ。それにしても、えらいのに目を付けられたんだね」

 ちょうど流れていたニュースを、飛鳥は複雑な表情で見あげて呟いた。

 パテント・トロールは、巷では特許マフィアとも呼ばれている。特許侵害裁判での多額の賠償金が狙いの彼らが仕掛ける裁判は、用意周到で訴えられた側が勝てる見込みは薄い。狙われた、食いつかれた、と表現する方が相応しい、大企業に取ってはハイエナのような相手だ。

「あの会社、どうなっているんだろうねぇ。汚い事ばかりやってきた報いだねぇ」

 デヴィッドは、呆れたように鼻で笑っている。

 黙ってティーカップを口に運ぶ吉野の目が笑っているように細められているのを、アレンだけが、ぼんやりと眺めていた。




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