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七章
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固く抱擁をかわして右頬を、次いで左頬をくっつけてチュッと音を立てる。そんな挨拶を数え切れないほどこなした後、吉野はさすがにげんなりしているような視線を彷徨わせてサウードを探した。
ジョージアン様式の外観とは裏腹に、一歩足を踏みいれると、ここは鈍い赤地に白を基調としたアラベスク模様の絨毯の敷かれたアラブ式の客間だ。白地に金の刺繍の入った低いソファーが、三方の壁に沿ってぐるりと取り囲む。壁紙も象牙色の地に白のアラベスク模様が繰り返されている。
そこでは、中央に置かれたいくつもの大皿から自由に取り分けた料理を傍らに置いて、サウードの親戚や友人たちが思い思いに寛いでいる。皆が皆というわけではないが、その多くが頭部に白いクーフィーヤを被っている。彼らは自国の民族衣装である白のサウブを着ているか、上に黒いベシュトを羽織っているかの違いしかないので、入れ替わり立ち替わり行き来する似たような人影に紛れて、サウードはなかなか見つからない。
部屋を移動したのか、と吉野は自分を囲む数人の男達に断りを入れて場を外した。
玄関広間に出て二階に上がる。サウードはキッチンに併設するカウンターバーに腰かけて、ガラス越しに階下を見渡せる床をぼんやりと眺めていた。
「サウード」
呼ばれておもむろに顔をあげ、彼は椅子から滑り降りた。
「やぁ、ヨシノ。遅かったじゃないか」
「とりあえず挨拶を先に済ませてきた。知っている奴らばかりだったしさ」
「一人? 彼は連れてこなかったの? 一緒に、て言ったのに」
鷹揚な笑みを浮かべて吉野の肩を叩くと、サウードは先にたって歩きだす。
「連れてくるはずないだろ。まず、あいつがアラブ式挨拶に我慢出できるわけがない。こんなところで、いざこざを起こされちゃかなわないよ。国際問題になる」
吉野はサウードの後に続いて壁に沿った階段を上っていく。サウードはその返答に声をたてて笑いながら、残念そうに眉根をあげる。
「彼、いまだに潔癖症なんだ? もう治ったかと思っていたよ」
「まったく知らない奴なら、思いきり我慢して、せいぜい握手だな。フィリップん家のパーティーで酷い目にあったもの、俺」
「きみ? 彼じゃなくて」
「俺がだよ。あいつ、俺がべたべた触られるところを、見るのも嫌だって」
「ああ、なるほど」
三階フロアに出たところでいったん立ち止まり、「どちらにする?」、とサウードはそれまでの物憂げな表情から、若干瞳に光を戻して吉野を見、コンピュータールームと、続いてその前を通りすぎた廊下の突き当たりを指差した。
怪訝そうな視線で問いかける吉野に、「室内プールがあるんだ」と、サウードは泳ぐように腕で空気をかく。
吉野は子どもの様に相好を崩す。
「今はもう、やることはないよ。夜中に下の奴らが騒ぎだすまで、泳ぎたい」
「決まりだな」
廊下のどんつきのガラス戸を開ける。空中庭園に出るのかと思ったら、外に繋がるドアとは別に、階下に下る階段があった。その先はまたガラス戸で仕切られている。
パイン材の柔らかな感触が心地よい階段を下る途中で、吉野はクスクスと笑いだし、前を行くサウードの肩をパン、と叩く。
「プールじゃなくて水槽の間違いじゃないのか!」
「がっかりした?」
サウードはちょっと申し訳なさそうに肩をすくめて見せる。
「いや、いいよ。今の俺は、お前に飼われている魚だものな」
吉野はさっそくボウタイを解きにかかっている。
ガラス戸を開け、むわりと暖かい室内に入るなり、タキシードを脱ぎすてて数段ある踏み台を軽々と越え、ガラスの壁の中で揺蕩う水の中に飛びこんだ。
「まるで銭湯だな」
冷たい水ではなく、人肌ほどの温もりがあった。
故郷の町にあった古ぼけた浴場を思いだし、吉野の口許に幼げな笑みが零れた。
なぜだか懐かしく、嬉しくなって水をかく。端から端へのわずかな距離を動き回る。
32フィートくらいか。まぁ、文句の言える筋合いでもなし――。
深さだけは吉野の肩までは十分にある。水中に潜ってみたり、漂ってみたり、好きに楽しんでいる彼の様子を、サウードは少し離れたデッキチェアに寝そべって、ぼんやりと眺めている。
「まだ雪が残っているんだな」
吉野の声に、サウードも顔をあげる。
確かに水槽――、もといプールの上に切りとられた漆黒の闇の広がるガラス天井の片隅に、ところどころ雪の塊が残っている。
「下の連中、放っておいていいのか?」
ガラス壁に腕をかけて、吉野が真面目な顔をして訊いている。
「勝手にやっているさ」
「ひどいホストだな」
はは、とサウードは乾いた笑いを漏らした。
「皆、きみに会いにきているんだ。挨拶は受けてくれたんだろ? 充分だよ」
「そのせいで俺、まだ飯食ってないんだ。そんな暇なかったよ」
「戻るかい?」
パシャリ、と水を叩いて吉野はもう水の中だ。
「適当に見繕って、持ってきてもらって」
次に顔を出したとき、吉野は甘えるように目を細めて言った。
「了解」
すぐにサウードは起きあがり、TSでイスハークに指示をだす。そして小さく息を吐いた。
「きみは、」
眉根を寄せ、押し黙ってしまったサウードに気づきもせず、吉野は水中を揺蕩っている。
パシャリ、水が跳ねる。
サウードはまた物憂げに吉野を眺めていたが、やがて唇を噛んで顔を伏せた。
リズミカルな足音を響かせ、白いサウブが階段を下りてくる。ガラス戸が、ガラリと勢いよく開かれる。
「サウード、なんだってこんなところに雲隠れしているんだ? 噂の客人は?」
威勢の良い声とともに現れたのは、イスハークではなかった。
サウードの天敵で従兄弟でもある、アブド・H・アル=マルズークの、急な訪れだった。
ジョージアン様式の外観とは裏腹に、一歩足を踏みいれると、ここは鈍い赤地に白を基調としたアラベスク模様の絨毯の敷かれたアラブ式の客間だ。白地に金の刺繍の入った低いソファーが、三方の壁に沿ってぐるりと取り囲む。壁紙も象牙色の地に白のアラベスク模様が繰り返されている。
そこでは、中央に置かれたいくつもの大皿から自由に取り分けた料理を傍らに置いて、サウードの親戚や友人たちが思い思いに寛いでいる。皆が皆というわけではないが、その多くが頭部に白いクーフィーヤを被っている。彼らは自国の民族衣装である白のサウブを着ているか、上に黒いベシュトを羽織っているかの違いしかないので、入れ替わり立ち替わり行き来する似たような人影に紛れて、サウードはなかなか見つからない。
部屋を移動したのか、と吉野は自分を囲む数人の男達に断りを入れて場を外した。
玄関広間に出て二階に上がる。サウードはキッチンに併設するカウンターバーに腰かけて、ガラス越しに階下を見渡せる床をぼんやりと眺めていた。
「サウード」
呼ばれておもむろに顔をあげ、彼は椅子から滑り降りた。
「やぁ、ヨシノ。遅かったじゃないか」
「とりあえず挨拶を先に済ませてきた。知っている奴らばかりだったしさ」
「一人? 彼は連れてこなかったの? 一緒に、て言ったのに」
鷹揚な笑みを浮かべて吉野の肩を叩くと、サウードは先にたって歩きだす。
「連れてくるはずないだろ。まず、あいつがアラブ式挨拶に我慢出できるわけがない。こんなところで、いざこざを起こされちゃかなわないよ。国際問題になる」
吉野はサウードの後に続いて壁に沿った階段を上っていく。サウードはその返答に声をたてて笑いながら、残念そうに眉根をあげる。
「彼、いまだに潔癖症なんだ? もう治ったかと思っていたよ」
「まったく知らない奴なら、思いきり我慢して、せいぜい握手だな。フィリップん家のパーティーで酷い目にあったもの、俺」
「きみ? 彼じゃなくて」
「俺がだよ。あいつ、俺がべたべた触られるところを、見るのも嫌だって」
「ああ、なるほど」
三階フロアに出たところでいったん立ち止まり、「どちらにする?」、とサウードはそれまでの物憂げな表情から、若干瞳に光を戻して吉野を見、コンピュータールームと、続いてその前を通りすぎた廊下の突き当たりを指差した。
怪訝そうな視線で問いかける吉野に、「室内プールがあるんだ」と、サウードは泳ぐように腕で空気をかく。
吉野は子どもの様に相好を崩す。
「今はもう、やることはないよ。夜中に下の奴らが騒ぎだすまで、泳ぎたい」
「決まりだな」
廊下のどんつきのガラス戸を開ける。空中庭園に出るのかと思ったら、外に繋がるドアとは別に、階下に下る階段があった。その先はまたガラス戸で仕切られている。
パイン材の柔らかな感触が心地よい階段を下る途中で、吉野はクスクスと笑いだし、前を行くサウードの肩をパン、と叩く。
「プールじゃなくて水槽の間違いじゃないのか!」
「がっかりした?」
サウードはちょっと申し訳なさそうに肩をすくめて見せる。
「いや、いいよ。今の俺は、お前に飼われている魚だものな」
吉野はさっそくボウタイを解きにかかっている。
ガラス戸を開け、むわりと暖かい室内に入るなり、タキシードを脱ぎすてて数段ある踏み台を軽々と越え、ガラスの壁の中で揺蕩う水の中に飛びこんだ。
「まるで銭湯だな」
冷たい水ではなく、人肌ほどの温もりがあった。
故郷の町にあった古ぼけた浴場を思いだし、吉野の口許に幼げな笑みが零れた。
なぜだか懐かしく、嬉しくなって水をかく。端から端へのわずかな距離を動き回る。
32フィートくらいか。まぁ、文句の言える筋合いでもなし――。
深さだけは吉野の肩までは十分にある。水中に潜ってみたり、漂ってみたり、好きに楽しんでいる彼の様子を、サウードは少し離れたデッキチェアに寝そべって、ぼんやりと眺めている。
「まだ雪が残っているんだな」
吉野の声に、サウードも顔をあげる。
確かに水槽――、もといプールの上に切りとられた漆黒の闇の広がるガラス天井の片隅に、ところどころ雪の塊が残っている。
「下の連中、放っておいていいのか?」
ガラス壁に腕をかけて、吉野が真面目な顔をして訊いている。
「勝手にやっているさ」
「ひどいホストだな」
はは、とサウードは乾いた笑いを漏らした。
「皆、きみに会いにきているんだ。挨拶は受けてくれたんだろ? 充分だよ」
「そのせいで俺、まだ飯食ってないんだ。そんな暇なかったよ」
「戻るかい?」
パシャリ、と水を叩いて吉野はもう水の中だ。
「適当に見繕って、持ってきてもらって」
次に顔を出したとき、吉野は甘えるように目を細めて言った。
「了解」
すぐにサウードは起きあがり、TSでイスハークに指示をだす。そして小さく息を吐いた。
「きみは、」
眉根を寄せ、押し黙ってしまったサウードに気づきもせず、吉野は水中を揺蕩っている。
パシャリ、水が跳ねる。
サウードはまた物憂げに吉野を眺めていたが、やがて唇を噛んで顔を伏せた。
リズミカルな足音を響かせ、白いサウブが階段を下りてくる。ガラス戸が、ガラリと勢いよく開かれる。
「サウード、なんだってこんなところに雲隠れしているんだ? 噂の客人は?」
威勢の良い声とともに現れたのは、イスハークではなかった。
サウードの天敵で従兄弟でもある、アブド・H・アル=マルズークの、急な訪れだった。
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