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七章
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ここで待つように、と指定されたヘンリーの書斎は、深紅に同系色の赤いラインの入った壁に囲まれ、マホガニーの本棚がどっしりと置かれている落ち着いた空間だ。ほどよく温まり、外界と遮断された静寂に包まれる室内では、じっとしていると眠気をもよおしてくる。吉野は大きく欠伸してソファーから立ちあがると、本棚に並ぶ重厚な装丁の背表紙に視線を流し、その中の一冊に手を伸ばした。
「お待たせ」
約束の時間にいくらか遅れてやってきたヘンリーに、吉野はくるりと身体を返した。
「この蔵書、あんたのなの?」
「意外かい?」
涼しげに微笑んでいるヘンリーに、ふん、と吉野は鼻で笑って返す。
「人は見かけに寄らないっていうしな」
「うちの蔵書は棚に並んでいるものだけではないよ。聖書の解説書を貸してあげようか? きみの解釈に誤解があるといけないからね」
ヘンリーは窓際のソファーに腰かけ、にこやかに吉野にも座るように促す。
「なんだ、もうバレたのか。飛鳥が気づく前に消しておこう、って飛んで帰ってきたのに」
くいっと片唇を跳ねあげながら、吉野はひょいと肩をすくめる。
「それは殊勝な心がけだね。どうせならサブリミナル・メッセージなんて物騒なもの、初めから謹んでほしかったけどね」
「サラが解析したの? 心配いらないよ。サブリミナルていったって、大した効果なんてないからさ。だいたい今の英国にどれだけクリスチャンがいるか、判ったもんじゃないだろ。ちょっとエリオットの奴らに牽制かけてみただけだよ」
嫌味を効かしたヘンリーの叱責にも、吉野はとりたてて悪びれた様子も見せない。普段と変わらず軽口を叩いて言い訳する。
「そう? エリオットの生徒には効果あるだろう、と僕は思うけれどね。強制ではないにしろ、生徒の多くが英国国教会の礼拝に参列するし、一通りの宗教教育も受けている」
「でも、あんたには効かなかっただろ? 信じてないもんな、神なんて」
揶揄うような吉野の目元に、ヘンリーはふわりと柔らかい笑みを返した。
「確かに。邪な想いを抱くと、天使を包む金の光が硫黄と金色の火炎となって燃えあがり自らを焼き尽くす。そんな映像の悪夢に苛まれることはなかったね」
「見えたところで、それがどうした、ってか!」
腹を抱えて笑う吉野を見つめて、ヘンリーは呆れたような息をついた。
「アスカには内緒にしておきたかったのだけど、彼から叱ってもらう方が良いのかな?」
口の中でなお含み笑いながら、吉野は目を細めて首を横に振る。
「言わない。あんたは言わないよ、飛鳥には」
そんな彼のふてぶてしい様子を鷹揚に眺めながら、ヘンリーは苦笑を湛えて続ける。
「そんなにアレンが心配?」
「してないよ、ちっとも」
吉野の瞳が、また意地悪く輝く。
「じゃあ、なぜ?」
「飛鳥が見本市で試した手法がさ、英国でどの程度使えるか、俺も試してみたかっただけだよ」
穏やかな微笑を口許に貼りつかせたまま、ヘンリーはその瞳の色調を変え、目の前に座る飛鳥の弟を睨めつける。
「そう――。そっちも解析済みってわけだね」
「な? あんたは飛鳥には言わない。サブリミナル刺激を用いた飛鳥の映像で自殺者が出たなんて、飛鳥に言えるはずがない」
口許の笑みすら消して、ヘンリーは吉野を睨めつける。
「飛鳥はさ、宗教の怖さを知らないんだよ。殺し屋が一般人以上に信心深いってこともね。人をいっぱい殺しながらさ、自分の罪だけは目溢しして下さい、って祈るスナイパーの心理なんて、飛鳥には判らない。だからさ、あんたと俺だけが口を噤んでいればいいんだよ」
暗にパリ見本市講演会場で自身の頭を撃ち抜いて死んでいたSPの謎の死因が、罪を問い、悔い改めを求める飛鳥の映像のせいだと指摘され、ヘンリーはぎりっと奥歯を噛みしめた。
その仮説は、ヘンリーとて立てていたのだ。それ以外に考えようがないのだから。だが認める訳にはいかなかったのだ。飛鳥のために――。
「それは、きみが映像にサブリミナル刺激を加えてもいい、という言い訳にはならないよ」
ヘンリーは冷ややかな口調で応えた。
「もうしないよ。あれはさ、エリオットにっていうよりも、エリオット内のボルージャ一派に枷をつけておきたかっただけだからさ」
「それが事実だと信じられるまで、きみに飛鳥の映像は触らせられないな」
「かまわないよ。今回みたいなアクシデントはそうあるもんじゃない。大抵はサラの作った自動管理システムで凌げるはずだもの」
吉野は少し寂しげに唇の片端を跳ねあげた。
「俺、もう映像の仕事は手伝わない。飛鳥はもう俺がいなくても十分やっていけるだろ? あんたと、サラがいるんだからさ」
「きみは――」
わざと僕を怒らせようとしているのか?
その言葉を口にすることで彼の術中に嵌るような気がして、ヘンリーは静かに開きかけた口を閉じ、吉野を哀れむように首を傾げた。
「アスカが寂しがる」
「あんたから上手く言っておいて」
吉野の方も、仕方がないさ、とばかりに肩をすくめてみせている。
「それでさ、昨日、ロニーに会ったんだろ? 南米の話、聞いてくれた?」
吉野は気持ちを切り替えるためにか、明るく弾むような口調で話題を変えた。
「お待たせ」
約束の時間にいくらか遅れてやってきたヘンリーに、吉野はくるりと身体を返した。
「この蔵書、あんたのなの?」
「意外かい?」
涼しげに微笑んでいるヘンリーに、ふん、と吉野は鼻で笑って返す。
「人は見かけに寄らないっていうしな」
「うちの蔵書は棚に並んでいるものだけではないよ。聖書の解説書を貸してあげようか? きみの解釈に誤解があるといけないからね」
ヘンリーは窓際のソファーに腰かけ、にこやかに吉野にも座るように促す。
「なんだ、もうバレたのか。飛鳥が気づく前に消しておこう、って飛んで帰ってきたのに」
くいっと片唇を跳ねあげながら、吉野はひょいと肩をすくめる。
「それは殊勝な心がけだね。どうせならサブリミナル・メッセージなんて物騒なもの、初めから謹んでほしかったけどね」
「サラが解析したの? 心配いらないよ。サブリミナルていったって、大した効果なんてないからさ。だいたい今の英国にどれだけクリスチャンがいるか、判ったもんじゃないだろ。ちょっとエリオットの奴らに牽制かけてみただけだよ」
嫌味を効かしたヘンリーの叱責にも、吉野はとりたてて悪びれた様子も見せない。普段と変わらず軽口を叩いて言い訳する。
「そう? エリオットの生徒には効果あるだろう、と僕は思うけれどね。強制ではないにしろ、生徒の多くが英国国教会の礼拝に参列するし、一通りの宗教教育も受けている」
「でも、あんたには効かなかっただろ? 信じてないもんな、神なんて」
揶揄うような吉野の目元に、ヘンリーはふわりと柔らかい笑みを返した。
「確かに。邪な想いを抱くと、天使を包む金の光が硫黄と金色の火炎となって燃えあがり自らを焼き尽くす。そんな映像の悪夢に苛まれることはなかったね」
「見えたところで、それがどうした、ってか!」
腹を抱えて笑う吉野を見つめて、ヘンリーは呆れたような息をついた。
「アスカには内緒にしておきたかったのだけど、彼から叱ってもらう方が良いのかな?」
口の中でなお含み笑いながら、吉野は目を細めて首を横に振る。
「言わない。あんたは言わないよ、飛鳥には」
そんな彼のふてぶてしい様子を鷹揚に眺めながら、ヘンリーは苦笑を湛えて続ける。
「そんなにアレンが心配?」
「してないよ、ちっとも」
吉野の瞳が、また意地悪く輝く。
「じゃあ、なぜ?」
「飛鳥が見本市で試した手法がさ、英国でどの程度使えるか、俺も試してみたかっただけだよ」
穏やかな微笑を口許に貼りつかせたまま、ヘンリーはその瞳の色調を変え、目の前に座る飛鳥の弟を睨めつける。
「そう――。そっちも解析済みってわけだね」
「な? あんたは飛鳥には言わない。サブリミナル刺激を用いた飛鳥の映像で自殺者が出たなんて、飛鳥に言えるはずがない」
口許の笑みすら消して、ヘンリーは吉野を睨めつける。
「飛鳥はさ、宗教の怖さを知らないんだよ。殺し屋が一般人以上に信心深いってこともね。人をいっぱい殺しながらさ、自分の罪だけは目溢しして下さい、って祈るスナイパーの心理なんて、飛鳥には判らない。だからさ、あんたと俺だけが口を噤んでいればいいんだよ」
暗にパリ見本市講演会場で自身の頭を撃ち抜いて死んでいたSPの謎の死因が、罪を問い、悔い改めを求める飛鳥の映像のせいだと指摘され、ヘンリーはぎりっと奥歯を噛みしめた。
その仮説は、ヘンリーとて立てていたのだ。それ以外に考えようがないのだから。だが認める訳にはいかなかったのだ。飛鳥のために――。
「それは、きみが映像にサブリミナル刺激を加えてもいい、という言い訳にはならないよ」
ヘンリーは冷ややかな口調で応えた。
「もうしないよ。あれはさ、エリオットにっていうよりも、エリオット内のボルージャ一派に枷をつけておきたかっただけだからさ」
「それが事実だと信じられるまで、きみに飛鳥の映像は触らせられないな」
「かまわないよ。今回みたいなアクシデントはそうあるもんじゃない。大抵はサラの作った自動管理システムで凌げるはずだもの」
吉野は少し寂しげに唇の片端を跳ねあげた。
「俺、もう映像の仕事は手伝わない。飛鳥はもう俺がいなくても十分やっていけるだろ? あんたと、サラがいるんだからさ」
「きみは――」
わざと僕を怒らせようとしているのか?
その言葉を口にすることで彼の術中に嵌るような気がして、ヘンリーは静かに開きかけた口を閉じ、吉野を哀れむように首を傾げた。
「アスカが寂しがる」
「あんたから上手く言っておいて」
吉野の方も、仕方がないさ、とばかりに肩をすくめてみせている。
「それでさ、昨日、ロニーに会ったんだろ? 南米の話、聞いてくれた?」
吉野は気持ちを切り替えるためにか、明るく弾むような口調で話題を変えた。
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