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七章
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ロンドン郊外で車から降りたさきにあるのは、薄らと雪を被る木立に囲まれた瀟洒な建物だった。焦げ茶色の外壁に清潔な白いアーチ型の窓枠が並ぶ。同じく白く塗装された扉へ向かうアプローチの両側には、やはりふわりと柔らかな白に覆われた芝生が広がる。ところどころに置かれた木製のベンチも――。
ヘンリーは花束を抱えたサラとアレンを背後に従え、呼び鈴を押す。やがて開かれた扉から現れた若い女性と、にこやかに挨拶を交わす。足を踏み入れた玄関ホールは暖かく、穏やかなざわめきに包まれている。
開け放たれた居間からは楽しげな笑い声が響き、のんびりと交わされている会話が漏れ聞こえる。だがヘンリーはそちらへは向かわず、正面の階段を上がっていく。サラも勝手知ったる様子で何も言わない。アレンだけが驚きを隠そうともせず、きょろきょろと辺りを見回しながらその後に続いた。
ここはリチャード最初の発作が起こったあと、彼の意思で設立されたリハビリ施設なのだという。脳卒中で身体に麻痺の残る身寄りのない患者が、細やかなケアサポートを受けながらリハビリに励むための施設なのだそうだ。
三階にいくつか並ぶドアの一つをノックし、大きく開くと、ヘンリーは背後の二人に部屋に入るようにと促した。
「父さん、今日は賑やかですよ。僕たちの家族が一緒です。僕の妹、それに弟も」
ヘンリーは窓を見上げる位置にあるベッドの右側に立ち、そっと父の手を握りしめる。背後の窓枠にも薄らと雪が積もっている。開け放たれたカーテンの間に見えるのは、結露したガラスの向こうに広がる雪景色と灰色の空だ。だがそんな寒々とした外界とは裏腹に、柔らかなクリーム色の壁紙と重厚なアンティーク家具が、とても病室とは思えない温かな空気でこの部屋を包んでいる。あまりにも機能的なベッドと、無機質な医療機器さえなければ、ここがどこだか忘れてしまいそうなほどに――。
「アレン、おいで。そこにいたのでは父からは見えない」
その言葉に促され、アレンは足音を忍ばせてヘンリーの傍らに立った。勧められるままスツールに腰かける。
眼前のベッドに横たわる父の剥きだしの腕に刺された管は点滴に繋がれ、シーツの下から伸びるいくつもの配線の先では、心電図の電子音が規則的なリズムを刻んでいる。そして、喉に繋がれた太いチューブが、彼がもう、言葉を発することができないことを如実に語っている。
ヘンリーはアレンの手を取り、父の手の上に重ねた。べッドに横たわる父のライムグリーンの瞳に、アレンの姿が確かに映っているのを認めたのだ。
「返事はできないけれど意識ははっきりしてるんだ。ちゃんと聞こえているからね」
場所を譲り、一歩下がった兄の優しい声がアレンの耳を掠める。
「ごめんなさい――」
アレンの両眼から、とめどなく涙が溢れだす。
祖父と父の確執がこうまで父を追いつめ、その心を酷使し、病み疲れさせていたことを、アレンは長い間知らなかった。何度も再発を繰り返して、今はもう、動くことも話すこともできなくなった父に、一目会いたいと願った自分の貪欲さに、切り裂かれるように胸が痛んだ。その痛みに押しだされるように、溜まりに溜まった想いが堰を切って溢れでる。
「それでも、僕はあなたにお会いしたかったのです。――あなたは僕の希望でした。あなたの存在があったからこそ、僕はあの家で生きてこられた。……違う、と、そうではないと知った後ですら、僕の父はあなた以外にいないのです」
これまで一度も会ったことのないフレームの中の父――。それでもビジネス誌や、ときにゴシップ誌のなかで語られる彼の言葉が、自分に向けられたメッセージなのかもしれない、とアレンは固く信じていた。父と、父の育てた一点のシミもない完璧な兄。この二人に恥じない人間になりたい、とその思いだけが、これまでの彼を支え育ててくれていたのだ。
「古い写真の中のあなたの凛としたお姿が、僕を守り、道を過つことなくずっと導いて下さっていたのです」
アレンは、父の力の入らない重たい掌を持ちあげ額に押し頂いた。
「ありがとうございます。――それに、ごめんなさい。どうか、どうか罪深い僕の存在を許して下さい」
リチャードの指先が微かに動いた。泣き濡れたアレンの涙を払うように、かすかに探るように揺れる。
驚いたアレンがびくりと顔を離した。アレンの掌に載せられた指は、弱々しいけれど確かに、彼の手を握り返しているのだ。
瞼を瞬かせて見つめた父は、優しく、慈悲深く、微笑んでいるかのように、アレンを見つめ返してくれている。
歯を食い縛り、声を殺して泣くアレンの両肩にヘンリーがしっかりと手を添えた。
「さぁ、ここまでにしよう。父が疲れてしまう」
頷き、立ちあがって退いたアレンの場所に、サラがするりと入って父の額にキスを落とした。
「またね、父様」
「サラ、ヘザーさんに言って、その薔薇を活けてもらってくれるかい? アレンも挨拶しておいで。父のお世話をして下さっている方だからね」
兄の言葉にアレンは慌てて涙を拭った。呼吸を整え、サラに続いて部屋を後にする。
急に静まり返った室内で、ヘンリーはほっと息を継いでスツールに腰かけた。
「ゴードンから預かってきた薔薇です。温室咲きなので花が小ぶりだと嘆いていましたが。けれど香りはあなたの薔薇、そのままでしょう?」
微動だにしない横たわる身体に沿って置かれた父の右手を握りしめ、その顔を覗き込む。
「僕を、許して下さいますか? 僕はもう、憎しみの連鎖を断ち切りたいのです。あなたが僕を慈しんで下さったように――。僕も、許すこと、信じることを選びたい。父さん、それが、あなたのお心に叶うことでもあると僕は信じています」
ヘンリーも、アレンがしていたのと同じように、父の手をその額に当てた。
「どうか、生きて下さい。生きて、あなたの子どもたちの未来を見届けて下さい」
祈りにも似たその呟きに、リチャードはその瞼を閉じ、一筋の涙でもって応えた。
ヘンリーは花束を抱えたサラとアレンを背後に従え、呼び鈴を押す。やがて開かれた扉から現れた若い女性と、にこやかに挨拶を交わす。足を踏み入れた玄関ホールは暖かく、穏やかなざわめきに包まれている。
開け放たれた居間からは楽しげな笑い声が響き、のんびりと交わされている会話が漏れ聞こえる。だがヘンリーはそちらへは向かわず、正面の階段を上がっていく。サラも勝手知ったる様子で何も言わない。アレンだけが驚きを隠そうともせず、きょろきょろと辺りを見回しながらその後に続いた。
ここはリチャード最初の発作が起こったあと、彼の意思で設立されたリハビリ施設なのだという。脳卒中で身体に麻痺の残る身寄りのない患者が、細やかなケアサポートを受けながらリハビリに励むための施設なのだそうだ。
三階にいくつか並ぶドアの一つをノックし、大きく開くと、ヘンリーは背後の二人に部屋に入るようにと促した。
「父さん、今日は賑やかですよ。僕たちの家族が一緒です。僕の妹、それに弟も」
ヘンリーは窓を見上げる位置にあるベッドの右側に立ち、そっと父の手を握りしめる。背後の窓枠にも薄らと雪が積もっている。開け放たれたカーテンの間に見えるのは、結露したガラスの向こうに広がる雪景色と灰色の空だ。だがそんな寒々とした外界とは裏腹に、柔らかなクリーム色の壁紙と重厚なアンティーク家具が、とても病室とは思えない温かな空気でこの部屋を包んでいる。あまりにも機能的なベッドと、無機質な医療機器さえなければ、ここがどこだか忘れてしまいそうなほどに――。
「アレン、おいで。そこにいたのでは父からは見えない」
その言葉に促され、アレンは足音を忍ばせてヘンリーの傍らに立った。勧められるままスツールに腰かける。
眼前のベッドに横たわる父の剥きだしの腕に刺された管は点滴に繋がれ、シーツの下から伸びるいくつもの配線の先では、心電図の電子音が規則的なリズムを刻んでいる。そして、喉に繋がれた太いチューブが、彼がもう、言葉を発することができないことを如実に語っている。
ヘンリーはアレンの手を取り、父の手の上に重ねた。べッドに横たわる父のライムグリーンの瞳に、アレンの姿が確かに映っているのを認めたのだ。
「返事はできないけれど意識ははっきりしてるんだ。ちゃんと聞こえているからね」
場所を譲り、一歩下がった兄の優しい声がアレンの耳を掠める。
「ごめんなさい――」
アレンの両眼から、とめどなく涙が溢れだす。
祖父と父の確執がこうまで父を追いつめ、その心を酷使し、病み疲れさせていたことを、アレンは長い間知らなかった。何度も再発を繰り返して、今はもう、動くことも話すこともできなくなった父に、一目会いたいと願った自分の貪欲さに、切り裂かれるように胸が痛んだ。その痛みに押しだされるように、溜まりに溜まった想いが堰を切って溢れでる。
「それでも、僕はあなたにお会いしたかったのです。――あなたは僕の希望でした。あなたの存在があったからこそ、僕はあの家で生きてこられた。……違う、と、そうではないと知った後ですら、僕の父はあなた以外にいないのです」
これまで一度も会ったことのないフレームの中の父――。それでもビジネス誌や、ときにゴシップ誌のなかで語られる彼の言葉が、自分に向けられたメッセージなのかもしれない、とアレンは固く信じていた。父と、父の育てた一点のシミもない完璧な兄。この二人に恥じない人間になりたい、とその思いだけが、これまでの彼を支え育ててくれていたのだ。
「古い写真の中のあなたの凛としたお姿が、僕を守り、道を過つことなくずっと導いて下さっていたのです」
アレンは、父の力の入らない重たい掌を持ちあげ額に押し頂いた。
「ありがとうございます。――それに、ごめんなさい。どうか、どうか罪深い僕の存在を許して下さい」
リチャードの指先が微かに動いた。泣き濡れたアレンの涙を払うように、かすかに探るように揺れる。
驚いたアレンがびくりと顔を離した。アレンの掌に載せられた指は、弱々しいけれど確かに、彼の手を握り返しているのだ。
瞼を瞬かせて見つめた父は、優しく、慈悲深く、微笑んでいるかのように、アレンを見つめ返してくれている。
歯を食い縛り、声を殺して泣くアレンの両肩にヘンリーがしっかりと手を添えた。
「さぁ、ここまでにしよう。父が疲れてしまう」
頷き、立ちあがって退いたアレンの場所に、サラがするりと入って父の額にキスを落とした。
「またね、父様」
「サラ、ヘザーさんに言って、その薔薇を活けてもらってくれるかい? アレンも挨拶しておいで。父のお世話をして下さっている方だからね」
兄の言葉にアレンは慌てて涙を拭った。呼吸を整え、サラに続いて部屋を後にする。
急に静まり返った室内で、ヘンリーはほっと息を継いでスツールに腰かけた。
「ゴードンから預かってきた薔薇です。温室咲きなので花が小ぶりだと嘆いていましたが。けれど香りはあなたの薔薇、そのままでしょう?」
微動だにしない横たわる身体に沿って置かれた父の右手を握りしめ、その顔を覗き込む。
「僕を、許して下さいますか? 僕はもう、憎しみの連鎖を断ち切りたいのです。あなたが僕を慈しんで下さったように――。僕も、許すこと、信じることを選びたい。父さん、それが、あなたのお心に叶うことでもあると僕は信じています」
ヘンリーも、アレンがしていたのと同じように、父の手をその額に当てた。
「どうか、生きて下さい。生きて、あなたの子どもたちの未来を見届けて下さい」
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