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七章
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新しく買ったばかりのサウードの別邸は、ロンドンの高級住宅街ハムステッドにある。その三階建ての最上階の一室を静かに開けて、吉野は壁一面に設置されたモニターの電源を入れた。低い起動音とともに現れた赤や青のグラフが表示されている画面をざっと見渡し、ドサリと回転式のワークチェアに腰をおろす。
「本当にケンブリッジに行かなくて良かったのかい? お兄さんが楽しみにされているだろうに」
サウードは吉野の邪魔にならないように距離を置いて腰かけ、いつもの穏やかな口調で話しかける。
「TSコンサートのせいで、肝心のプログラミングがまるで進んでないんだよ。せっかくのチャンスだっていうのに」
吉野は、もう青く光る画面に猛烈なスピードで文字を打ち込み始めている。
「チャンス? でも、今日、明日ともニューヨーク市場も休みじゃないのか?」
「26日に仕掛けたいんだ。クリスマス休暇が終わったら、一気にヘッジファンドや投資銀行の奴らが戻ってくるからな」
「今からプログラムを組んで?」
「そうだよ。原油先物と南米主要国の通貨、叩き落としてやる」
サウードはそれ以上何も聞かずに、モニター画面の発する青白い光彩を浴びた吉野の横顔を静かに見守り、やがて衣擦れの音だけを残してコンピュータールームを後にした。
「イスハーク、軽食の用意を。量は多めに。作業中の彼はものすごく食べるからね。それにコーヒーも。付き添いを一人つけて」
頷いて下がるイスハークを見送ったあと、サウードは廊下の突き当たりにある出窓に、ふと気づいたように歩みよった。窓を覗きこんだとたんに冬枯れた細い枝から飛びたった小さな鳥を目で追う。
そしてその鳥が視界の端に消えたあとも、窓枠に腕をついたまま、重く広がる灰色の寒空をぼんやりと眺めていた。
そのころ、ケンブリッジの館では、ヘンリーと連れだってコンサバトリーに入ってきたアレンを、飛鳥がきょとんとした瞳で見つめていた。
「お帰り、アレン。あれ? 吉野は一緒じゃないの?」
「ヨシノはロンドンのサウード宅です。連絡が入っていませんでしたか?」
アレンは、言い辛そうに首を傾げている。
「え?」
そういえば、朝からずっとメールチェックをしていない。飛鳥は慌ててポケットを探った。コンサート映像に集中するために、電源は切ったままなのだった。
「ああ、本当だ。メールが来てたよ。殿下、家を買ったんだね。殿下の家でのパーティーに参加するんだって」
「クリスマスの?」
不思議そうに訊ねたアレンに、飛鳥は顔をあげ、「趣旨は違うんじゃないの。新居祝いかな。文面はそんな感じ」と指先でTS画面をくるりと回して、アレンとヘンリーに見えるようにさし示す。
「去年の夏、あいつ、サウード殿下の国でお世話になってるだろ? 殿下の親戚や友人がたくさん遊びにきているみたいだよ」
「残念だけれど仕方がないね」
ヘンリーはひょいっと肩をすくめて嘆息する。申し訳なさそうに飛鳥がアレンの方を見ると、彼はふわりと微笑んで小さく首を振った。
「あ、昨日のコンサートの映像ですね」
吉野の不在から流れだしたどこかぎくしゃくとした空気がいたたまれなくて、先ほどから何度も再生され、サラがいまだに食い入るように眺めていた窓辺に広がる映像に、アレンは心を逸らせようと視線を留めた。
「こんなに綺麗だったんだ――」
演奏している側からは何が起こっているのかなど、まるで判らなかったのだ。自分たちを取り巻いていた映像を今さらながら目にして、アレンは感嘆の吐息を漏らしていた。彼もまた、サラの横にすとんと脱力したように腰を下ろして、食い入るように眺め始める。
「最初から観る?」
鈴を振ったような澄んだ声に訊ねられても、どこから聞こえてきたのかアレンは気がつきもしなかった。もう一度同じことを尋ねられ、アレンははっと我に返って辺りを見回す。
至近距離で、ライムグリーンの宝石がじっと自分を見つめていた。
思わず同じように目を見開いて見つめ返した。
サラはふいっと視線を逸らすとパソコンを操作して、ガラスに映る映像を最初から流し始めて立ちあがった。
「ヘンリー、来て」と、サラはヘンリーのスーツの袖を引っ張る。
「何?」
黙ったままじっとヘンリーを見つめて、サラはもう一度袖を引いて、外へ出るようにと促した。ヘンリーもその場ではそれ以上理由を尋ねるのはやめにして、コンサバトリーから隣のティールームに場所を移す。
パタンと閉めたドアにもたれかかり、サラはヘンリーを見あげて小さな声で囁いた。
「ヘンリー、あの映像、サブリミナルメッセージが組み込まれている」
「え――」
「最後の場面のヘンリーとアレンは、ソドムを訪れた双身の天使。悔い改めなければ滅ぼすと告げにきた神のみ使い」
「どういうこと?」
「TS映像はステージの上だけだから、メイボールのイベントのような取り囲んで没入させる効果はないのに、ヨシノは音と波形でアスカのリズムと似た効果を作りだしている」
「でも、僕もアスカも、きみだってあの映像を見たじゃないか。特に変わったことはないだろう?」
「キリスト教徒じゃないもの」
そんな――。
「信仰心に訴えかけているって、こと?」
ヘンリーは、いきなりサラを脇へ押しやってドアを開けた。急ぎコンサバトリーに戻り、ちらと流れる映像を確認してから、慌てて停止ボタンを押す。
「すまない。不備が見つかったんだ」
不思議そうに見あげるアレンに、ヘンリーは引きつった笑顔を向けている。
「アレン、メアリーに夕食の時間を早めるように言ってきてくれるかい? お前はミサに行くんだろう?」
「あ、はい」
アレンは素直に立ちあがり、言われた通りにキッチンに向かった。ドアの向こうに消える姿を確認してから、ヘンリーは飛鳥の横に脱力して座り込んだ。そして、きょとんとしている飛鳥を尻目に、思い切り深く嘆息する。
「まったく、きみの弟はたいしたものだよ。次から次へと――」
訝しげに眉根を寄せて、飛鳥は首を傾げている。
「まさか――、あいつ、また何かやらかしたの?」
「本当にケンブリッジに行かなくて良かったのかい? お兄さんが楽しみにされているだろうに」
サウードは吉野の邪魔にならないように距離を置いて腰かけ、いつもの穏やかな口調で話しかける。
「TSコンサートのせいで、肝心のプログラミングがまるで進んでないんだよ。せっかくのチャンスだっていうのに」
吉野は、もう青く光る画面に猛烈なスピードで文字を打ち込み始めている。
「チャンス? でも、今日、明日ともニューヨーク市場も休みじゃないのか?」
「26日に仕掛けたいんだ。クリスマス休暇が終わったら、一気にヘッジファンドや投資銀行の奴らが戻ってくるからな」
「今からプログラムを組んで?」
「そうだよ。原油先物と南米主要国の通貨、叩き落としてやる」
サウードはそれ以上何も聞かずに、モニター画面の発する青白い光彩を浴びた吉野の横顔を静かに見守り、やがて衣擦れの音だけを残してコンピュータールームを後にした。
「イスハーク、軽食の用意を。量は多めに。作業中の彼はものすごく食べるからね。それにコーヒーも。付き添いを一人つけて」
頷いて下がるイスハークを見送ったあと、サウードは廊下の突き当たりにある出窓に、ふと気づいたように歩みよった。窓を覗きこんだとたんに冬枯れた細い枝から飛びたった小さな鳥を目で追う。
そしてその鳥が視界の端に消えたあとも、窓枠に腕をついたまま、重く広がる灰色の寒空をぼんやりと眺めていた。
そのころ、ケンブリッジの館では、ヘンリーと連れだってコンサバトリーに入ってきたアレンを、飛鳥がきょとんとした瞳で見つめていた。
「お帰り、アレン。あれ? 吉野は一緒じゃないの?」
「ヨシノはロンドンのサウード宅です。連絡が入っていませんでしたか?」
アレンは、言い辛そうに首を傾げている。
「え?」
そういえば、朝からずっとメールチェックをしていない。飛鳥は慌ててポケットを探った。コンサート映像に集中するために、電源は切ったままなのだった。
「ああ、本当だ。メールが来てたよ。殿下、家を買ったんだね。殿下の家でのパーティーに参加するんだって」
「クリスマスの?」
不思議そうに訊ねたアレンに、飛鳥は顔をあげ、「趣旨は違うんじゃないの。新居祝いかな。文面はそんな感じ」と指先でTS画面をくるりと回して、アレンとヘンリーに見えるようにさし示す。
「去年の夏、あいつ、サウード殿下の国でお世話になってるだろ? 殿下の親戚や友人がたくさん遊びにきているみたいだよ」
「残念だけれど仕方がないね」
ヘンリーはひょいっと肩をすくめて嘆息する。申し訳なさそうに飛鳥がアレンの方を見ると、彼はふわりと微笑んで小さく首を振った。
「あ、昨日のコンサートの映像ですね」
吉野の不在から流れだしたどこかぎくしゃくとした空気がいたたまれなくて、先ほどから何度も再生され、サラがいまだに食い入るように眺めていた窓辺に広がる映像に、アレンは心を逸らせようと視線を留めた。
「こんなに綺麗だったんだ――」
演奏している側からは何が起こっているのかなど、まるで判らなかったのだ。自分たちを取り巻いていた映像を今さらながら目にして、アレンは感嘆の吐息を漏らしていた。彼もまた、サラの横にすとんと脱力したように腰を下ろして、食い入るように眺め始める。
「最初から観る?」
鈴を振ったような澄んだ声に訊ねられても、どこから聞こえてきたのかアレンは気がつきもしなかった。もう一度同じことを尋ねられ、アレンははっと我に返って辺りを見回す。
至近距離で、ライムグリーンの宝石がじっと自分を見つめていた。
思わず同じように目を見開いて見つめ返した。
サラはふいっと視線を逸らすとパソコンを操作して、ガラスに映る映像を最初から流し始めて立ちあがった。
「ヘンリー、来て」と、サラはヘンリーのスーツの袖を引っ張る。
「何?」
黙ったままじっとヘンリーを見つめて、サラはもう一度袖を引いて、外へ出るようにと促した。ヘンリーもその場ではそれ以上理由を尋ねるのはやめにして、コンサバトリーから隣のティールームに場所を移す。
パタンと閉めたドアにもたれかかり、サラはヘンリーを見あげて小さな声で囁いた。
「ヘンリー、あの映像、サブリミナルメッセージが組み込まれている」
「え――」
「最後の場面のヘンリーとアレンは、ソドムを訪れた双身の天使。悔い改めなければ滅ぼすと告げにきた神のみ使い」
「どういうこと?」
「TS映像はステージの上だけだから、メイボールのイベントのような取り囲んで没入させる効果はないのに、ヨシノは音と波形でアスカのリズムと似た効果を作りだしている」
「でも、僕もアスカも、きみだってあの映像を見たじゃないか。特に変わったことはないだろう?」
「キリスト教徒じゃないもの」
そんな――。
「信仰心に訴えかけているって、こと?」
ヘンリーは、いきなりサラを脇へ押しやってドアを開けた。急ぎコンサバトリーに戻り、ちらと流れる映像を確認してから、慌てて停止ボタンを押す。
「すまない。不備が見つかったんだ」
不思議そうに見あげるアレンに、ヘンリーは引きつった笑顔を向けている。
「アレン、メアリーに夕食の時間を早めるように言ってきてくれるかい? お前はミサに行くんだろう?」
「あ、はい」
アレンは素直に立ちあがり、言われた通りにキッチンに向かった。ドアの向こうに消える姿を確認してから、ヘンリーは飛鳥の横に脱力して座り込んだ。そして、きょとんとしている飛鳥を尻目に、思い切り深く嘆息する。
「まったく、きみの弟はたいしたものだよ。次から次へと――」
訝しげに眉根を寄せて、飛鳥は首を傾げている。
「まさか――、あいつ、また何かやらかしたの?」
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