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七章
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「ヨシノはなんて言っていた?」
脇目も振らず早足に歩いていたフレデリックは、開演間際の楽屋口で、すれ違いざまにいきなり腕を掴まれていた。驚いて振り返る。だが、そこにあった不安そうに見つめるクリスの瞳をちらと見ただけで、思わず目を逸らしていた。
「ごめん。今日の準備で忙しすぎて、まだ訊けてないんだ」
口ごもりながら申し訳なさそうに目を伏せる。
「そう――。今日は彼女も来てるんだよ。終わったら、ヨシノにもう一度彼女に会ってもらおうかと思ってるんだ。考えていても仕方がないしね」
「それがいいよ。演奏、頑張ってね」
通り一遍の激励を口にして、フレデリックは映写調整室への廊下を急ぐ。
本当は吉野に訊ねていたのだ。なぜクリスの交際に口出しし、別れろ、などと言ったのか。
吉野は、『あの女、スペイン訛りがある』とだけぽつりと答えた。もちろん、それだけじゃ判らない、と抗議した。すると、あまり首を突っ込むな、と鼻で笑われた。首を突っ込んでいるのは吉野の方じゃないか、とそう思ったけれど、もうそれ以上何も言えなかったのだ。
彼はいつも両手に余るほどいろんなものを抱えていて、自分にはそれが何なのか、何と何が絡まりあっているのか、想像することすらできないのだ。あのアレンの誘拐事件が自身の兄に繋がっていたように――。
吉野がやめろ、と言うのなら、そこにはもしかすると、クリスやフレデリックなどでは想像もつかないような、危険な何かがあるのかも知れない。そんなふうに想像しはじめると、彼は、苦しくてならなかったのだ。
四階にある映写調整室で、吉野は正面ガラス前面に並ぶコンソールに足をのせて椅子に腰かけていた。ドアの開く音に背中を反らせ、息を弾ませて駆け込んできたフレデリックに視線を向ける。「遅かったな」と、にっと笑う。もう、開演ブザーは鳴り終わっているのだ。
「ごめん。途中でクリスに捉まっちゃって」
フレデリックの言い訳に、吉野はチッと舌打ちする。
「あの女、来てるんだって?」
だがフレデリックに訊ねた、というよりもただ呟かれただけのようで。返事を待たずに、吉野は話題を切り替える。
「また立ち見席まで売りだしたんだな」
吉野の視線は、ガラス越しに眼下の客席に向けられている。一階から三階までの赤い座席はすでに観客で埋めつくされ、通路まで人で溢れていた。緩やかに弧を描きせりあがる階段に、数人ずつ腰をおろし連なりあっている。
くっくっと笑う吉野の肩が震えている。
「今年の生徒会は、なかなかにやり手だな。チケットは倍額でも完売だものな」
「さぁ、始まるぞ」
コンソールに足をかけたまま指一本動かさない吉野に、フレデリックは唖然と目を瞠って訊ねた。
「TSの操作は?」
「自動制御」
事もなげに答える視線の先のステージでは、生徒総監が開演挨拶を始めている。フレデリックも、もう何も訊ねるのはやめてじっとステージを見守った。
一曲目は、音楽スカラーのヴァイオリンとピアノ演奏だ。
曲目は、サン=サーンス作曲 イザイ編曲「ワルツ形式のカプリース」
満場の拍手に迎えられたヴァイオリン奏者と、伴奏のピアノ奏者が定位置についた。
演奏が始まる。息を呑む観客を尻目に、昨日のリハーサルとは打って変わった、落ち着いて伸び伸びとした出だしだ。
ステージを覆う麗らかな陽光に、蒼く輝く西風が吹きぬけ花びらが舞う。風に巻かれ、乱れ散る花びらの渦から小さな妖精たちが生まれ、次々と花を咲かせる。花の精は流れる旋律に乗り、駆けあがり、舞い踊り、奏者の髪に祝福のキスを贈る。
そんな彼女らに気づかないまま奏でられる演奏に、客席は息をすることさえ忘れてしまったように静まり返り、魅入られている。きらきらとした輝きが相まって眩しさに目を眇めたとき、宙に舞う花も妖精たちも光に薄れ、華やいだ旋律も空気中に溶けていった――。
演奏が終わってもしんと静まり返っている客席に、ステージ上では二人の奏者が不安そうに互いに顔を見合わせていた。
「おい、拍手くらいしてやれよ」
吉野が呟いた。思わず拍手しそうになって、フレデリックはすんでのところでその手を握りしめる。フレデリックに向けられた言葉ではない。スタッフに指示を出しているのだった。
後部座席から、さざ波が広がるように拍手の音が広がっていく。初まりはパラパラと、やがて重なり合い割れるような歓声に彩られて――、ステージ上の二人もほっとして応えている。
「時間。次にかかれ」
吉野の指示が伝わったのか、ステージの二人も我に返って舞台袖に引っ込んだ。
「くそ!」
突然、悪態をついた吉野に驚いて、フレデリックはその視線の先を追った。三階の右側出入り口にクリスと彼女の姿が見えた。クリスがしきりに頭を横に振っている。言い争っているようだ。立ちあがり、身を乗りだしてガラス窓を覗きこんだフレデリックに、「俺、ちょっと出てくるからここにいてくれ。誰が来ても中に入れるなよ。鍵、かけてな」たったそれだけ言い残して、吉野は部屋を駆けだしていった。
「え! ちょっと、ヨシ……」
叩きつけるように閉められたドアに、フレデリックはため息を一つついて、カチャリ、と鍵をかけた。
拍手に悲鳴のような黄色い声が混ざって耳につく。割れんばかりの拍手は、すでにステージ上のアレンを迎える歓声に変わっているのだ。
二曲目。アレン・フェイラー ピアノ独奏。
リスト作曲「伝説 第2曲 波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」
重々しい低音のトレモロに呼応するかのように、ピアノに向かうアレンの足下から透き通る蒼い波が湧きでて、静かに寄せては返している。
シチリアへ渡る舟を出すことを拒否された聖フランチェスコが、マントを海に広げて舟としその上を渡った、という伝説に基づくこの曲を選んだのはアレン自身だ。
比較的早い時期にアーカシャーHDとのコラボが決まり、例年とは異なり選曲も出演者の自由意思に任された。アレンの選曲は、演出を担当する飛鳥がイメージしやすいように、という配慮もあったのだと思う。
アレンの足下の海が音調に合わせて次第に蠢き、高まり、ステージ全体に広がって、やがては荒れ狂う大波になってゆく。透き通る紺碧の荒波を被りながら、アレンの指が鍵盤の上を流れ、走る。まるで、この波を支配し操っているかのように。アレンを囲むうねるような大波は渦となり、飛沫となって天に弾ける。
天井から差しこむ一筋の光に包まれたとき、アレンは右手を高く天に向け、左手を下ろした。
神の聖なる御名の栄光の下に、波をも服従させる聖フランチェスコ――。
フレデリックは、思わず胸元で十字を切っていた。溢れでる涙を拭うこともできずに……。
客席がいまだ己を忘れ、幻影の残照に酔いしれていたとき、ステージ脇に下がったアレンに、監督生の一人が駆け寄り囁いた。
「フェイラー、どうしよう? クリス・ガストンが戻ってこないんだ! ちょっとだけ出てくるって話だから許可したのに! それなのに、こんなときに限って、生徒総監も代表代理もいないんだよ!」
脇目も振らず早足に歩いていたフレデリックは、開演間際の楽屋口で、すれ違いざまにいきなり腕を掴まれていた。驚いて振り返る。だが、そこにあった不安そうに見つめるクリスの瞳をちらと見ただけで、思わず目を逸らしていた。
「ごめん。今日の準備で忙しすぎて、まだ訊けてないんだ」
口ごもりながら申し訳なさそうに目を伏せる。
「そう――。今日は彼女も来てるんだよ。終わったら、ヨシノにもう一度彼女に会ってもらおうかと思ってるんだ。考えていても仕方がないしね」
「それがいいよ。演奏、頑張ってね」
通り一遍の激励を口にして、フレデリックは映写調整室への廊下を急ぐ。
本当は吉野に訊ねていたのだ。なぜクリスの交際に口出しし、別れろ、などと言ったのか。
吉野は、『あの女、スペイン訛りがある』とだけぽつりと答えた。もちろん、それだけじゃ判らない、と抗議した。すると、あまり首を突っ込むな、と鼻で笑われた。首を突っ込んでいるのは吉野の方じゃないか、とそう思ったけれど、もうそれ以上何も言えなかったのだ。
彼はいつも両手に余るほどいろんなものを抱えていて、自分にはそれが何なのか、何と何が絡まりあっているのか、想像することすらできないのだ。あのアレンの誘拐事件が自身の兄に繋がっていたように――。
吉野がやめろ、と言うのなら、そこにはもしかすると、クリスやフレデリックなどでは想像もつかないような、危険な何かがあるのかも知れない。そんなふうに想像しはじめると、彼は、苦しくてならなかったのだ。
四階にある映写調整室で、吉野は正面ガラス前面に並ぶコンソールに足をのせて椅子に腰かけていた。ドアの開く音に背中を反らせ、息を弾ませて駆け込んできたフレデリックに視線を向ける。「遅かったな」と、にっと笑う。もう、開演ブザーは鳴り終わっているのだ。
「ごめん。途中でクリスに捉まっちゃって」
フレデリックの言い訳に、吉野はチッと舌打ちする。
「あの女、来てるんだって?」
だがフレデリックに訊ねた、というよりもただ呟かれただけのようで。返事を待たずに、吉野は話題を切り替える。
「また立ち見席まで売りだしたんだな」
吉野の視線は、ガラス越しに眼下の客席に向けられている。一階から三階までの赤い座席はすでに観客で埋めつくされ、通路まで人で溢れていた。緩やかに弧を描きせりあがる階段に、数人ずつ腰をおろし連なりあっている。
くっくっと笑う吉野の肩が震えている。
「今年の生徒会は、なかなかにやり手だな。チケットは倍額でも完売だものな」
「さぁ、始まるぞ」
コンソールに足をかけたまま指一本動かさない吉野に、フレデリックは唖然と目を瞠って訊ねた。
「TSの操作は?」
「自動制御」
事もなげに答える視線の先のステージでは、生徒総監が開演挨拶を始めている。フレデリックも、もう何も訊ねるのはやめてじっとステージを見守った。
一曲目は、音楽スカラーのヴァイオリンとピアノ演奏だ。
曲目は、サン=サーンス作曲 イザイ編曲「ワルツ形式のカプリース」
満場の拍手に迎えられたヴァイオリン奏者と、伴奏のピアノ奏者が定位置についた。
演奏が始まる。息を呑む観客を尻目に、昨日のリハーサルとは打って変わった、落ち着いて伸び伸びとした出だしだ。
ステージを覆う麗らかな陽光に、蒼く輝く西風が吹きぬけ花びらが舞う。風に巻かれ、乱れ散る花びらの渦から小さな妖精たちが生まれ、次々と花を咲かせる。花の精は流れる旋律に乗り、駆けあがり、舞い踊り、奏者の髪に祝福のキスを贈る。
そんな彼女らに気づかないまま奏でられる演奏に、客席は息をすることさえ忘れてしまったように静まり返り、魅入られている。きらきらとした輝きが相まって眩しさに目を眇めたとき、宙に舞う花も妖精たちも光に薄れ、華やいだ旋律も空気中に溶けていった――。
演奏が終わってもしんと静まり返っている客席に、ステージ上では二人の奏者が不安そうに互いに顔を見合わせていた。
「おい、拍手くらいしてやれよ」
吉野が呟いた。思わず拍手しそうになって、フレデリックはすんでのところでその手を握りしめる。フレデリックに向けられた言葉ではない。スタッフに指示を出しているのだった。
後部座席から、さざ波が広がるように拍手の音が広がっていく。初まりはパラパラと、やがて重なり合い割れるような歓声に彩られて――、ステージ上の二人もほっとして応えている。
「時間。次にかかれ」
吉野の指示が伝わったのか、ステージの二人も我に返って舞台袖に引っ込んだ。
「くそ!」
突然、悪態をついた吉野に驚いて、フレデリックはその視線の先を追った。三階の右側出入り口にクリスと彼女の姿が見えた。クリスがしきりに頭を横に振っている。言い争っているようだ。立ちあがり、身を乗りだしてガラス窓を覗きこんだフレデリックに、「俺、ちょっと出てくるからここにいてくれ。誰が来ても中に入れるなよ。鍵、かけてな」たったそれだけ言い残して、吉野は部屋を駆けだしていった。
「え! ちょっと、ヨシ……」
叩きつけるように閉められたドアに、フレデリックはため息を一つついて、カチャリ、と鍵をかけた。
拍手に悲鳴のような黄色い声が混ざって耳につく。割れんばかりの拍手は、すでにステージ上のアレンを迎える歓声に変わっているのだ。
二曲目。アレン・フェイラー ピアノ独奏。
リスト作曲「伝説 第2曲 波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」
重々しい低音のトレモロに呼応するかのように、ピアノに向かうアレンの足下から透き通る蒼い波が湧きでて、静かに寄せては返している。
シチリアへ渡る舟を出すことを拒否された聖フランチェスコが、マントを海に広げて舟としその上を渡った、という伝説に基づくこの曲を選んだのはアレン自身だ。
比較的早い時期にアーカシャーHDとのコラボが決まり、例年とは異なり選曲も出演者の自由意思に任された。アレンの選曲は、演出を担当する飛鳥がイメージしやすいように、という配慮もあったのだと思う。
アレンの足下の海が音調に合わせて次第に蠢き、高まり、ステージ全体に広がって、やがては荒れ狂う大波になってゆく。透き通る紺碧の荒波を被りながら、アレンの指が鍵盤の上を流れ、走る。まるで、この波を支配し操っているかのように。アレンを囲むうねるような大波は渦となり、飛沫となって天に弾ける。
天井から差しこむ一筋の光に包まれたとき、アレンは右手を高く天に向け、左手を下ろした。
神の聖なる御名の栄光の下に、波をも服従させる聖フランチェスコ――。
フレデリックは、思わず胸元で十字を切っていた。溢れでる涙を拭うこともできずに……。
客席がいまだ己を忘れ、幻影の残照に酔いしれていたとき、ステージ脇に下がったアレンに、監督生の一人が駆け寄り囁いた。
「フェイラー、どうしよう? クリス・ガストンが戻ってこないんだ! ちょっとだけ出てくるって話だから許可したのに! それなのに、こんなときに限って、生徒総監も代表代理もいないんだよ!」
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