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七章
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食えない奴……。
デヴィッドからの電話を受けて、吉野は頬を緩め口の端を跳ねあげていた。
まんまとアーカシャーへの依頼の問題点を喋らされ、その辺りを考慮に入れた仕事依頼申し込みをされていたのだ。ヘンリーの嫌う、コネという手段に頼らずに――。
「デヴィッド卿?」
「ん? うん。週末こっちに来るって。マイケル・ウェザーに会いに」
「コンサートの件で?」
悩み事でもあるのか、さっきからずっと塞いでいたフレデリックの顔に明るさが戻っている。
「話を聞いてからだぞ。受けるかどうかは。馬鹿みたいに金がかかるんだからさ、TSは」
「お金なら僕が、」
口を挟んだアレンを、吉野は露骨に顔をしかめてたしなめる。
「駄目だ。つまらない前例を作るな。そうやって多額の寄付でイベント事をこなしてきたから、生徒会の腐敗が進んでいったんだぞ。サウードにも何があっても金は出すなと言ってあるんだ」
あ、と慌てて頷いたアレンだが、それでも少し不服そうに唇を尖らせて上目遣いに吉野を見ている。
「お前ら、なんだかんだ言って楽しみにしているのな、TS合同コンサート?」
「それはね」
「もちろんだよ」
ドーナツ型の円卓から適当に椅子を引きだして座っていたフレデリックとアレンは、互いにちらりと目と目を交わし、頷き合っている。
「きみはどう思っているの?」
だが、しばらく待っても返事がない。
年季の入った灰緑の長ソファーの肘掛けにブロケード織りの深緑のクッションを挟んで頭をのせ、背を向けてだらしなく寝そべっている吉野の前にしゃがみ込み、アレンは顔を覗きこむ。たった今まで喋っていたのに、彼はもう疲れたように目を瞑っているのだ。
「ヨシノ?」
そっと、彼の額に掛かる髪をかきあげる。
くるりと寝返りを打って向けられた闇のように暗い鳶色の瞳が、ふっと細められ、アレンは逆にくしゃりと髪を撫でられていた。
「大丈夫だ」
すぐにまた閉じられた瞼の上で眉が辛そうにしかめられている。それから間を置かず、吉野は長い指で顔を覆い、重たげに半身を起こした。
「ごめん、寝ぼけていた」
「お疲れだね、ヨシノ」
背後からフレデリックも声をかける。
「うん、少し寝たい」
「かまわないから、休んでいて」
フレデリックに促され、アレンも立ちあがる。吉野は「ごめんな」と呟いて、またすぐにソファーに横になっている。
音を立てないように執務室を出て、二人は静かにドアを閉めた。
板張りの廊下の軋む音さえ気遣う様子で、二人は黙ったまま学舎の外へと足を向ける。ひんやりとした空気を深く吸い込み、ほっと息を継いでいる。
「まだ夜中に株だの為替だの見てるのかな、ヨシノ」
アレンは、さぁ、と小首を傾げる。
「ケンブリッジにいるときは、昼間に寝たりはしてなかったよ」
「論文が大変なのかな――」
「そうかも。最近よく上級数学の先生の部屋に行っている、て聞いたよ」
たしか、クリスがそう言っていたのだ。
アレンはいまだに、吉野にあれこれ詮索するようなことを聞くのが苦手だ。でも気になって、ついクリスに訊ねてしまう。クリスの方も心得たもので、大抵アレンから聞くよりも先に、教えてくれるのが常だった。
吉野はいつだって目の前にいてくれている。だのに、以前よりも、もっとずっと遠い存在のようで――。
学舎の扉の前に佇んだまま、アレンもフレデリックも、互いにそれぞれの思いを巡らせていた。
「おーい、きみ!」
突然どこからか呼びかけられ、顔をあげ、二人は辺りをみまわす。
「そこのレポート、拾ってくれるかい? 風で飛ばされてしまったんだ! すぐに取りにいくからさ!」
三階の窓から伸びた腕が、真下の壁際を指差していた。
「わかりました!」
アレンはにこやかに応えて、指し示された紙を拾いに走った。今日は風が強い。あんな紙切れ一枚、すぐに飛ばされてどこかへ行ってしまいそうで――。
足下に手を伸ばして、アレンがそのレポートを拾おうとしたときだった。
ザバッー、と階上の窓から大量の水が降ってきた。
「アレン!」
呆然と立ち尽くす彼に、フレデリックが自分のローブを脱ぎながら駆け寄り、急いでアレンの頭からすっぽりと覆うように被せる。
「上を向いちゃ駄目だ。写真を撮られる。水に濡れたきみの顔が欲しいんだよ。早く戻ろう」
小刻みに震えるアレンの肩を抱えるようにして、フレデリックは腕を廻した。
「おい、大丈夫かい?」
案の定だ――。
ちっと、フレデリックは舌打ちをしていた。アレンの肩にかけた掌に緊張から力が入る。
「ご心配無用です。マーカイル先輩」
「でも寮までは遠いだろ? 生徒会室で着替えていけよ。クリケットのユニフォームでよかったら貸してやる」
「ありがとうございます。でも執務室にヨシノ・トヅキがいますので、彼の制服を借ります」
監督生執務室で吉野が昼寝をするのは、もはや公然たる事実だった。前監督生代表に贈られたクッションに、洗面用具、はては、シワになった制服の替えまで常備されているとの噂が、まことしやかに囁かれている。
「フレッド」
目深に顔を覆うローブの袂を押さえたまま、アレンが囁くように呼んだ。
「ヨシノには言わないで。このまま寮に戻ろう」
目の前の男には目もくれず、アレンはすいっと足早に歩きだしている。
「お気遣いありがとうございます」
アレンの代わりにフレデリックは礼を言い、その後を追った。
「相変わらずの傍若無人ぶりだな」
頭上からかけられた声に、レイモンド・マーカイルは首を伸ばして高い窓を振り仰ぐ。
「残念だったな!」
窓枠に手をついて身を乗りだしている相手を見上げ、レイモンドは声を張りあげる。
「なぁに、ばっちり撮れたさ」
弾んだ声音の返事に、レイモンドはにっと笑って親指を立てていた。
デヴィッドからの電話を受けて、吉野は頬を緩め口の端を跳ねあげていた。
まんまとアーカシャーへの依頼の問題点を喋らされ、その辺りを考慮に入れた仕事依頼申し込みをされていたのだ。ヘンリーの嫌う、コネという手段に頼らずに――。
「デヴィッド卿?」
「ん? うん。週末こっちに来るって。マイケル・ウェザーに会いに」
「コンサートの件で?」
悩み事でもあるのか、さっきからずっと塞いでいたフレデリックの顔に明るさが戻っている。
「話を聞いてからだぞ。受けるかどうかは。馬鹿みたいに金がかかるんだからさ、TSは」
「お金なら僕が、」
口を挟んだアレンを、吉野は露骨に顔をしかめてたしなめる。
「駄目だ。つまらない前例を作るな。そうやって多額の寄付でイベント事をこなしてきたから、生徒会の腐敗が進んでいったんだぞ。サウードにも何があっても金は出すなと言ってあるんだ」
あ、と慌てて頷いたアレンだが、それでも少し不服そうに唇を尖らせて上目遣いに吉野を見ている。
「お前ら、なんだかんだ言って楽しみにしているのな、TS合同コンサート?」
「それはね」
「もちろんだよ」
ドーナツ型の円卓から適当に椅子を引きだして座っていたフレデリックとアレンは、互いにちらりと目と目を交わし、頷き合っている。
「きみはどう思っているの?」
だが、しばらく待っても返事がない。
年季の入った灰緑の長ソファーの肘掛けにブロケード織りの深緑のクッションを挟んで頭をのせ、背を向けてだらしなく寝そべっている吉野の前にしゃがみ込み、アレンは顔を覗きこむ。たった今まで喋っていたのに、彼はもう疲れたように目を瞑っているのだ。
「ヨシノ?」
そっと、彼の額に掛かる髪をかきあげる。
くるりと寝返りを打って向けられた闇のように暗い鳶色の瞳が、ふっと細められ、アレンは逆にくしゃりと髪を撫でられていた。
「大丈夫だ」
すぐにまた閉じられた瞼の上で眉が辛そうにしかめられている。それから間を置かず、吉野は長い指で顔を覆い、重たげに半身を起こした。
「ごめん、寝ぼけていた」
「お疲れだね、ヨシノ」
背後からフレデリックも声をかける。
「うん、少し寝たい」
「かまわないから、休んでいて」
フレデリックに促され、アレンも立ちあがる。吉野は「ごめんな」と呟いて、またすぐにソファーに横になっている。
音を立てないように執務室を出て、二人は静かにドアを閉めた。
板張りの廊下の軋む音さえ気遣う様子で、二人は黙ったまま学舎の外へと足を向ける。ひんやりとした空気を深く吸い込み、ほっと息を継いでいる。
「まだ夜中に株だの為替だの見てるのかな、ヨシノ」
アレンは、さぁ、と小首を傾げる。
「ケンブリッジにいるときは、昼間に寝たりはしてなかったよ」
「論文が大変なのかな――」
「そうかも。最近よく上級数学の先生の部屋に行っている、て聞いたよ」
たしか、クリスがそう言っていたのだ。
アレンはいまだに、吉野にあれこれ詮索するようなことを聞くのが苦手だ。でも気になって、ついクリスに訊ねてしまう。クリスの方も心得たもので、大抵アレンから聞くよりも先に、教えてくれるのが常だった。
吉野はいつだって目の前にいてくれている。だのに、以前よりも、もっとずっと遠い存在のようで――。
学舎の扉の前に佇んだまま、アレンもフレデリックも、互いにそれぞれの思いを巡らせていた。
「おーい、きみ!」
突然どこからか呼びかけられ、顔をあげ、二人は辺りをみまわす。
「そこのレポート、拾ってくれるかい? 風で飛ばされてしまったんだ! すぐに取りにいくからさ!」
三階の窓から伸びた腕が、真下の壁際を指差していた。
「わかりました!」
アレンはにこやかに応えて、指し示された紙を拾いに走った。今日は風が強い。あんな紙切れ一枚、すぐに飛ばされてどこかへ行ってしまいそうで――。
足下に手を伸ばして、アレンがそのレポートを拾おうとしたときだった。
ザバッー、と階上の窓から大量の水が降ってきた。
「アレン!」
呆然と立ち尽くす彼に、フレデリックが自分のローブを脱ぎながら駆け寄り、急いでアレンの頭からすっぽりと覆うように被せる。
「上を向いちゃ駄目だ。写真を撮られる。水に濡れたきみの顔が欲しいんだよ。早く戻ろう」
小刻みに震えるアレンの肩を抱えるようにして、フレデリックは腕を廻した。
「おい、大丈夫かい?」
案の定だ――。
ちっと、フレデリックは舌打ちをしていた。アレンの肩にかけた掌に緊張から力が入る。
「ご心配無用です。マーカイル先輩」
「でも寮までは遠いだろ? 生徒会室で着替えていけよ。クリケットのユニフォームでよかったら貸してやる」
「ありがとうございます。でも執務室にヨシノ・トヅキがいますので、彼の制服を借ります」
監督生執務室で吉野が昼寝をするのは、もはや公然たる事実だった。前監督生代表に贈られたクッションに、洗面用具、はては、シワになった制服の替えまで常備されているとの噂が、まことしやかに囁かれている。
「フレッド」
目深に顔を覆うローブの袂を押さえたまま、アレンが囁くように呼んだ。
「ヨシノには言わないで。このまま寮に戻ろう」
目の前の男には目もくれず、アレンはすいっと足早に歩きだしている。
「お気遣いありがとうございます」
アレンの代わりにフレデリックは礼を言い、その後を追った。
「相変わらずの傍若無人ぶりだな」
頭上からかけられた声に、レイモンド・マーカイルは首を伸ばして高い窓を振り仰ぐ。
「残念だったな!」
窓枠に手をついて身を乗りだしている相手を見上げ、レイモンドは声を張りあげる。
「なぁに、ばっちり撮れたさ」
弾んだ声音の返事に、レイモンドはにっと笑って親指を立てていた。
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