胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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 ロンドンのアーカシャーHD本店は、隣接する他店舗となんら違いのない、重厚な石造りの建物だ。通りに面したウィンドウのディスプレイも、よくある携帯端末ショップと大きな差がある訳でもない。だが、一歩店内に入るとその様相は一変する。
 曇天の下、吹きつける秋風から身を守るようにコートの襟を押さえ、背筋を丸めて歩いてきた人々がひとたび扉を潜れば、そこに突きぬける蒼穹が広がるさまに仰天することになる。
 白大理石の神殿の中央にいきなり放りこまれた自分にまず困惑し、周囲を見渡して初めて、林立する柱の一つ一つがTSの展示台であり、商品を説明する店員がおり、ようやくここが決して異世界でも異空間でもないことに気づくのだ。


 午前十一時の開店の三時間前に、アレンはクリスと連れだってこの本店を訪れた。約束した時間通りだ。店内の立体映像はまだ動作しておらず、頭上には天井がちゃんとあり、延々と続いているように見えていた空間には壁がある。ここはこんなに狭かったのかと逆に当惑して、二人して辺りをきょろきょろと見回している。

「アレン、おはよう! ずいぶん思い切りよく髪を切ったんだね!」

 八月に会ったきりの飛鳥が、店内中央のぽっかりと空いた空間で手招きしている。その姿が目に入るなり、嬉しそうに顔をほころばせて駆け寄っていくアレンに、フレデリックは驚いたように目を瞠る。あのアレンが、自分たち親しい友人以外の誰かに、こうも感情を素直に表していることに驚いたのだ。

「フレッドも、久しぶり」
「お久しぶりです」
 にこにこと笑いかけてくる飛鳥に、フレデリックも緊張したまま会釈を返す。

「初めましてだねぇ、僕たちは!」
 背後から肩を叩かれ、フレデリックはびくりと跳ねあがって振り向いた。
 アーネストによく似た、けれど落ち着いた雰囲気の彼とは明らかに違う、華やかでリズミカルな――。

 ――豆の上のお姫様……。

 フレデリックは、相手には聞こえないように口の中で呟いた。

「初めまして」
 デヴィッドは微笑んでフレデリックと握手を交わす。
「それでねぇ、きみに来てもらったのはねぇ、これどう思う? こんなの展示しちゃったらさ、また学校内で馬鹿どもが騒ぐかなぁ、監督生くん!」

 デヴィッドはヘーゼルの瞳を悪戯っ子のように輝かせて、何もない空間を指差している。フレデリックの訝し気な顔を楽しんでいるかのように微笑みかけ、デヴィッドは飛鳥の肩を叩いた。

「アスカちゃん、始めて」
「OK」

 空っぽの空間から飛鳥は距離を測りながら後退する。その場にいた誰もが邪魔にならないように飛鳥の背後にまわり、これから何が起こるのか、と固唾を飲んで見守る。
 飛鳥は大理石の柱の上に置かれたパソコンをじっと見据えながらキーボードを叩いている。

 こういう作業は、TSじゃないんだな……。

 と、フレデリックがぼんやり飛鳥に気を取られていると、突如、周囲からどよめきがあがった。管理スタッフまでがいつの間にか集まっていて、周囲はぐるりと人垣ができている。はっとして、遅れて皆の視線の先を追う。

 先だっての空間に、十フィート四方の池が出現していた。
 その中央に胸元まで水に浸かったアレンがいる。濡れそぼる金髪は撫でつけられているようで、剥きだしの額に雫が滴り、伏せられた煙る睫毛に隠れる瞳は、水を掬いあげる両手をじっと見つめている。今にも瞬きしそうな瞼も、何か言いたげな唇も、その掌から零れ落ちる流れも、煌めきながら静止している。素肌にまといつく透けたドレスシャツも水面に浮かぶ睡蓮の花や、葉も、そよとも動かない。
 けれど彼の浸る水はまるで透き通る紫紺の宇宙だ。差し込む光が水中に幾何学的な模様を映し、万華鏡のように次々とその色彩と構成を変えながらくるくると躍動している。

 そこかしこから、ほう、と感嘆の吐息が聞こえる。

「どう? きみは嫌じゃない? もしきみが嫌ならこのディスプレイは、きみの立体映像を抜いてもいいんだよ」
 飛鳥が小首を傾げて、アレンに尋ねていた。アレンは、どっちつかずの曖昧な笑みを浮かべ、デヴィッドに助けを求める視線を向ける。
「僕はきみを使いたいんだけど。これを手始めにさぁ、立体映像ディスプレイの分野を立ちあげたいんだよねぇ。でもヨシノがねぇ……」
「ヨシノが?」
 大きく肩をすくめるデヴィッドにアレンが聞き返す。
「学校でまた騒がれるから止めろって言うんだ」
 パソコン画面から目線をあげて、デヴィッドの代わりに飛鳥が答えた。

「監督生くんのご意見は?」

 ぼんやりと立体映像に見入っていたフレデリックは、「フレッド」と、今度はアレンに呼ばれて慌てて振り返る。

「芸術です」
 唐突な発言に一瞬呆気にとられたデヴィッドは、だがすぐに声を立てて笑いだした。
「ヨシノよりよほど解ってるじゃん!」

 顔を赤くして下を向いたフレデリックの傍らに立ち、「兄はなんて?」と、アレンは問い質す。

「きみ次第って」

 デヴィッドの返答にアレンは意外そうに目を見開き、一呼吸置くと、花が自然にほころぶように晴れやかに微笑んだ。

「お役に立てるのなら、僕はかまいません」


「おはよう、みんな!」
 明るい、柔らかな声のする方向に皆一斉に視線を向けた。口々に挨拶を返しながら人垣が崩れ、その声の主のために道を開ける。
 大きな書類鞄を抱えたアーネストが、にこやかな笑みをふり撒きながらこちらに向かってきていた。

「これ? いいできだね! 神秘的で厳粛、そのうえ繊細。場が華やぐね」
 アーネストは中央の立体映像を満足げに眺めている。デヴィッドは誇らし気に頷くと、すぐに真顔になって忙しい兄の傍らに歩み寄る。

「それでヨシノは?」
「ロニーのところだって」
「あらら――。先に呼んでおけばよかったな。今日は帰ってくるの?」
「こっちに泊まるって言ってたよ」
「じゃ、連絡入れてみるよ」

 要件を手早く済ませて立ち去ろうとしたアーネストを、フレデリックが慌てて引き留めた。

「アーネスト卿、少しお時間いただけませんか?」
「何? ヨシノのこと?」
「いいえ、兄のことで」

 フレデリックの真剣な瞳にアーネストはすっと笑みを消し、軽く頷いた。
「いいよ。今なら時間が取れる」

 緊張した面持ちで返事を待っていたフレデリックは、予想外の快諾にますます口許を引きしめて感謝の意を表した。




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