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七章
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ぎゅっと目を閉じたまま、血の気の引いた蒼白な顔でアレンは小刻みに震えている。吉野はそんな彼を茫然自失して動けないまま目を見開いて凝視している。だがすぐにはっと意識を取り戻すと、その肩にあせって腕をまわした。
「大丈夫だ。大丈夫だから」
項垂れるアレンの頭をかき抱いて、吉野はその耳許で囁き続ける。
「心配いらない、もう済んだことだよ。俺もお前も元気だろ? な?」
すぐ近くで心配そうに見つめるボディーガードに、顎をしゃくる。
「タクシー、捉まえて」
「デヴィ、ヘンリーは? さっきから全然繋がらないんだ」
『会社。多分、緊急会議中。どうしたの? 何か用事~?』
鼓膜を震わせ響いてくるデヴィッドの間の抜けた声に、吉野は苛立たしそうに眉をしかめる。
「どうしたの、じゃないだろ! なんだよ、あのTS看板、お前もグルなんだろ。お前ら、少しはアレンの気持ちを考えてやれよ! あれだけ怖い思いをしてやっと落ち着いてきたっていうのに。またぶり返しちまったじゃないか!」
ジャックのパブの屋根裏部屋に続く狭い階段に腰をおろし、薄いドア一枚挟んだだけの向こう側で休ませているアレンに聞こえないように、吉野は声を潜めてデヴィッドを詰った。
『ぶり返したって?』
「あいつ、あれを見たとたんに真っ蒼になって震えだして、完全にPTSDの症状じゃないか! 事故のこと思いだしちまうんだよ! なんだってお前もヘンリーも、こういう無神経な真似ができるんだよ! ヘンリーは、なんであいつに対してだけ、こんなに冷たいんだよ――」
喉を詰まらせる吉野の問いかけに返ってきたのは、重い沈黙だ。
『――彼が怖がっているのは事故じゃない。きみを失うことだろ? きみがちゃんとケアしてあげれば、すぐによくなるよ』
「ケア、って――。どうしろっていうんだよ」
やがて呟かれた、とってつけたような言いように、吉野は憮然として呟いた。
だがそこで聞こえた、カチャ、とドアノブの回る音に吉野は電話を切った。
「もう起きあがって平気か?」
背後を振り返り、戸口に立つアレンのいまだ色の無い顔を見あげる。
アレンはふわりと微笑んで頷いた。
「ハーブティーを淹れてやるよ」
「コーヒーがいい」
でも、と言いかけて吉野は思い直して頷いた。階段を下りかけ、また振り返る。
「二階で待ってろ。貸し切りにしてるから」
階段下に立っているデュークとサイモンに声をかけ二階にあがるように言うと、吉野はパブのフロアへ続くドアを開けた。
カウンターに立つジェイクに、吉野はなんともいえない視線を投げかけ苦笑する。
「コーヒー、淹れていい?」
さっそく用意にかかったにジェイクに、「俺がやるから」と吉野はカウンター内に入り勝手知ったる様子で取りかかる。
土曜日の午後らしくフロアの席はうまっている。カウンターでも常連の親父連中が談笑している。いつもと変わらぬ穏やかなざわめきに、吉野の真剣もゆっくりと凪いでいた。
「ヨシノ、これ、お前らだろ?」
ジェイクがカウンターに座る客に聞こえないように、吉野の耳許で声を落とした。差しだされたスマートフォンの画面には、さっきの交差点での自分たちの姿があった。
ふん、と鼻を鳴らし、吉野は唇の端を跳ねあげる。受け取ってしばらくく眺めていたが、やがてぽいっとジェイクのエプロンのポケットに突っ込んだ。
「もう上げられてるんだ。早いね。ジェイク、アレンのボットをフォローしているの?」
クスクスと笑いながら、吉野はコーヒーをセットする。
「サイン、貰ってやろうか? それともポスターがいい?」
まんざらでもなさそうなジェイクの視線に、にやっと笑い、吉野は板壁に並ぶ歴代TSポスターに目を遣った。
窓から差しこむ薄光に照らされ、ホール内の細かな埃が舞っている。フレームに当たる光をわずかに反射するガラスの下には、どこか虚ろな片羽の天使がいる。
「見本市のと、今日発表されたやつが揃ったら完璧なんだよ。わざわざこれを見にくる客だっているくらいなんだ」
「どっちも駄目だよ。あいつが辛い思いをしちまうからさ」
「それなら仕方がないな――」
残念そうに唇を突きだし、ジェイクはひょいと肩をすくめる。だがジェイクは、なぜ? とは訊かなかった。
「ありがとう」
吉野は香り立つコーヒーをトレイに載せた。いつだって、何も聞かないジェイクやジャックの気遣いが有難かった。
入口に一番近いソファーに座っていたアレンが、びくりと怯えたように顔を向けた。
「ごめん。また僕のせいで――」
セレストブルーの空はまだ曇っている。テーブルに置かれたTSネクストを見て、吉野はくいっと顔を傾げた。
「ほら」
アレンの前にコーヒーを置く。
「気にするなよ。今までだって散々言われてきたじゃないか」
椅子を引いて腰を下ろし、テーブルの上に肘をつく。
「頼むよ、もっと強くなってくれよ。こんな事くらいでいちいち動揺するなよ」
ため息とともに呟かれた吉野の言葉に、アレンはきゅっと眉をしかめたまま頷くように顔を伏せる。
「お前のその、澄んだ朝焼けの空の色が好きなんだ。だからそんなふうに曇らせるな」
吉野は頬を支えていた手を伸ばし、アレンの額にかかる金髪をくしゃりとかきあげてぽんと叩いた。
「大丈夫だ。大丈夫だから」
項垂れるアレンの頭をかき抱いて、吉野はその耳許で囁き続ける。
「心配いらない、もう済んだことだよ。俺もお前も元気だろ? な?」
すぐ近くで心配そうに見つめるボディーガードに、顎をしゃくる。
「タクシー、捉まえて」
「デヴィ、ヘンリーは? さっきから全然繋がらないんだ」
『会社。多分、緊急会議中。どうしたの? 何か用事~?』
鼓膜を震わせ響いてくるデヴィッドの間の抜けた声に、吉野は苛立たしそうに眉をしかめる。
「どうしたの、じゃないだろ! なんだよ、あのTS看板、お前もグルなんだろ。お前ら、少しはアレンの気持ちを考えてやれよ! あれだけ怖い思いをしてやっと落ち着いてきたっていうのに。またぶり返しちまったじゃないか!」
ジャックのパブの屋根裏部屋に続く狭い階段に腰をおろし、薄いドア一枚挟んだだけの向こう側で休ませているアレンに聞こえないように、吉野は声を潜めてデヴィッドを詰った。
『ぶり返したって?』
「あいつ、あれを見たとたんに真っ蒼になって震えだして、完全にPTSDの症状じゃないか! 事故のこと思いだしちまうんだよ! なんだってお前もヘンリーも、こういう無神経な真似ができるんだよ! ヘンリーは、なんであいつに対してだけ、こんなに冷たいんだよ――」
喉を詰まらせる吉野の問いかけに返ってきたのは、重い沈黙だ。
『――彼が怖がっているのは事故じゃない。きみを失うことだろ? きみがちゃんとケアしてあげれば、すぐによくなるよ』
「ケア、って――。どうしろっていうんだよ」
やがて呟かれた、とってつけたような言いように、吉野は憮然として呟いた。
だがそこで聞こえた、カチャ、とドアノブの回る音に吉野は電話を切った。
「もう起きあがって平気か?」
背後を振り返り、戸口に立つアレンのいまだ色の無い顔を見あげる。
アレンはふわりと微笑んで頷いた。
「ハーブティーを淹れてやるよ」
「コーヒーがいい」
でも、と言いかけて吉野は思い直して頷いた。階段を下りかけ、また振り返る。
「二階で待ってろ。貸し切りにしてるから」
階段下に立っているデュークとサイモンに声をかけ二階にあがるように言うと、吉野はパブのフロアへ続くドアを開けた。
カウンターに立つジェイクに、吉野はなんともいえない視線を投げかけ苦笑する。
「コーヒー、淹れていい?」
さっそく用意にかかったにジェイクに、「俺がやるから」と吉野はカウンター内に入り勝手知ったる様子で取りかかる。
土曜日の午後らしくフロアの席はうまっている。カウンターでも常連の親父連中が談笑している。いつもと変わらぬ穏やかなざわめきに、吉野の真剣もゆっくりと凪いでいた。
「ヨシノ、これ、お前らだろ?」
ジェイクがカウンターに座る客に聞こえないように、吉野の耳許で声を落とした。差しだされたスマートフォンの画面には、さっきの交差点での自分たちの姿があった。
ふん、と鼻を鳴らし、吉野は唇の端を跳ねあげる。受け取ってしばらくく眺めていたが、やがてぽいっとジェイクのエプロンのポケットに突っ込んだ。
「もう上げられてるんだ。早いね。ジェイク、アレンのボットをフォローしているの?」
クスクスと笑いながら、吉野はコーヒーをセットする。
「サイン、貰ってやろうか? それともポスターがいい?」
まんざらでもなさそうなジェイクの視線に、にやっと笑い、吉野は板壁に並ぶ歴代TSポスターに目を遣った。
窓から差しこむ薄光に照らされ、ホール内の細かな埃が舞っている。フレームに当たる光をわずかに反射するガラスの下には、どこか虚ろな片羽の天使がいる。
「見本市のと、今日発表されたやつが揃ったら完璧なんだよ。わざわざこれを見にくる客だっているくらいなんだ」
「どっちも駄目だよ。あいつが辛い思いをしちまうからさ」
「それなら仕方がないな――」
残念そうに唇を突きだし、ジェイクはひょいと肩をすくめる。だがジェイクは、なぜ? とは訊かなかった。
「ありがとう」
吉野は香り立つコーヒーをトレイに載せた。いつだって、何も聞かないジェイクやジャックの気遣いが有難かった。
入口に一番近いソファーに座っていたアレンが、びくりと怯えたように顔を向けた。
「ごめん。また僕のせいで――」
セレストブルーの空はまだ曇っている。テーブルに置かれたTSネクストを見て、吉野はくいっと顔を傾げた。
「ほら」
アレンの前にコーヒーを置く。
「気にするなよ。今までだって散々言われてきたじゃないか」
椅子を引いて腰を下ろし、テーブルの上に肘をつく。
「頼むよ、もっと強くなってくれよ。こんな事くらいでいちいち動揺するなよ」
ため息とともに呟かれた吉野の言葉に、アレンはきゅっと眉をしかめたまま頷くように顔を伏せる。
「お前のその、澄んだ朝焼けの空の色が好きなんだ。だからそんなふうに曇らせるな」
吉野は頬を支えていた手を伸ばし、アレンの額にかかる金髪をくしゃりとかきあげてぽんと叩いた。
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