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七章
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「あ~あ、行っちゃった……」
駆けだしていったフレデリックを見送りながら、クリスは深く吐息を漏らした。
「彼、生真面目だものね」
ふわりと微笑んだアレンを見上げ、クリスは、またひとつため息をつく。
ん? と小首を傾げたアレンと肩をならべて歩きだしながら、今度は、はにかんだように笑っている。だがやがて、横に並ぶ並み外れた美貌の持ち主である友人をもう一度ちらりと眺めると、意を決したように喋りはじめた。
「今年の夏はきみもヨシノもいなかっただろ? だからさ、親戚と一緒にブライトンに行ってたんだ。知ってる? ビーチのある観光地だよ。セブンシスターズって、すごく綺麗な白亜の断崖で有名なんだけどさ、」
「ふうん――、それは僕も見てみたかったなぁ」
瞳をきらきらと輝かせて話しだしたクリスに、アレンも嬉しそうに相槌を打つ。
午後の授業が始まるまでまだ時間があった。校舎の影に入ると、とたんに空気が冷やりと感じられたので、二人は日の当たる赤レンガの壁にもたれて座り、時間を潰すことにした。夏と変わらぬ日差しに見えても肌を焼く熱はずっと柔らかい。時折吹き抜ける一陣の風は、秋の訪れを予感させた。
ブライトンでのバカンスの様子を語っていたクリスの話は、いつしかビーチで知り合った一人の女の子に集中していた。
「それでね、僕はね、きみと知り合ってからは、その辺の女の子が、かぼちゃか、じゃがいもにしか見えなくなっていたんだけどさ、」
「かぼちゃ――」
「でも、その子だけは違うんだよ! そりゃ、きみみたいな美人ってわけじゃないけどさ、可愛いんだ!」
「うん」
どう応えるべきか判らなくて、アレンは口元を引きつらせ、曖昧に笑顔を作る。
「本当はね、彼女をきみやヨシノにも紹介したいんだ。でも、きみは綺麗すぎるし、ヨシノはかっこ良すぎるし、フレッドはあまりにも紳士だし、サウードなんて本物の王子さまだからね! みんなの中にいる僕は、自分がじゃがいもにしか思えなくて……」
苦笑いするクリスに、アレンはわずかに眉を寄せる。
「そんなこと――」
「でもいいんだ。僕は彼女だけの騎士だからね。彼女の瞳が僕を世界一の男にしてくれるんだ」
胸を張って誇らしげに鼻を鳴らしたクリスに、アレンは柔らかな笑みを返した。
「きみは、きみ自身が思っているよりも、ずっと強くてかっこいいよ」
誰もがアレンを見て顔を背けかかわることを避けていた時、クリスは真っ直ぐにアレンを見つめ手を差し伸べてくれたのだ。彼の横を何も恐れる様子もなく歩いてくれた。当たり前に、彼をヨシノに引き合わせてあげた。
きみがいなかったら、僕は――。
目頭が熱くなってきて、アレンは思わずあらぬ方向に顔を向け、波立つ心が凪ぐのを待った。
「ありがとう。僕はね、きみたちに比べたらずっと平凡な男に過ぎないけどね、自分を卑下するつもりは毛頭ないんだ。だって僕は誠実さでは誰にも負けない。ガストン家の男だからね!」
クリスは、ずっと遠く、抜けるような蒼空を見やりながら、朗らかに笑った。少し照れくさそうに。
「僕はヨシノにずっと憧れてて、ヨシノみたいになりたいってずっと思っていたんだ。でも、ヨシノみたいにかっこよくなくても、彼女はこんな僕を好きだって言ってくれた。だから僕は、僕のことをもっと好きになれた気がするんだ」
「うん、それで?」
光を遮る影に、二人同時に面を上げた。そして、そこにある顔にほっとして満面の笑みを返した。
「彼女って?」
サウード自身鷹揚な笑みを湛え、クリスを挟んで腰を下ろす。
「クリスのガールフレンド。休暇中に知り合ったんだって」
アレンは自分のことのように嬉しそうに報告する。
「へぇー、それはおめでとう!」
黒目がちな目を見開いて、少し驚いたような表情を見せるサウードに、クリスは、へへっと肩を上げる。
「ヨシノだけじゃなく、きみもだなんて、なんだか置いて行かれた気分だよ」
くいっと眉根を上げ口をすぼめるサウードに、クリスの表情がひくっと強張る。ちらりと隣のアレンを見ると、思った通り、笑みを顔に張りつかせて固まっている。
「ヨシノ、夜はたいてい僕の部屋にいるだろ。もう、毎日電話がかかってくるんだよ。甘いのなんのって」
「――へぇ、僕は、知らなかったなぁ」
秋風を吹きつけているように冷ややかなアレンの声音に、クリスは必死でサウードの腕を小突くのだが――。肝心の彼はまったく解ってないようで、ニコニコと話し続けている。
「そう? 英語に時々ドイツ語が混じるから、旅行中にできた彼女かと思っていたんだけど」
「ドイツ語? スペイン語じゃなくて?」
訝しげに眉を寄せ、クリスを乗り越えるように上半身を倒して、アレンはサウードを覗き込む。間に挟まれたクリスは目を白黒させながら、ふたりの顔を代わる代わる眺めている。
「――旅行、ずっと一緒だったわけじゃないから……」
アレンの感情の読めない呟きに、クリスは息を殺したまま空を仰ぐ。
「まったく羨ましいなぁ。クリス、その彼女をクリスマス・コンサートに呼ぶんだろう? ぜひ紹介しておくれよ」
ぽんと肩に置かれた褐色の手と暖かい笑顔に、クリスは困ったように笑い返し、ぶんぶんと首を振って頷くしかない。
「ところで、」とサウードは立ちあがった。
「アレン、きみの取り巻きは?」
「監督生にもなったし、もうつき添いは断ったよ」
「ヨシノに言った?」
「なんで?」
僕は監督生なのに――。
アレンは不思議そうにサウードを見上げて、おもむろに立ちあがる。
なぜ吉野に断らなければならないのか判らない。彼にはそんな決定権はないのに。そんな想いから、苛立たしい視線をサウードに向けていた。
「彼、反対するよ。今年の生徒会は質が悪いから要注意だって言っていたもの」
おそらくアレンは自覚のないまま納得できない顔をしていたのだろう。サウードはため息をつき、「僕から寮長に話すよ」と締めくくった。
学舎の扉をくぐって教室の前まで来て、サウードは今一度足を止めた。灰色のスラックスの踵を返し、アレンを廊下の端に誘う。そして彼の肩に手を置いて、じっと諭すようにその曖昧な空の瞳を覗き込んだ。
「きみ、いろんな面で自覚がなさすぎるみたいだね。きみはお兄さんの会社のイメージモデルだろ? きみに何かあったら自分だけの問題じゃ済まないんだよ。この校内にだって、きみを手に入れることが出できたら死んでもいいっていうくらい、熱狂的なファンがいるかもしれない。もっと自分の身辺の安全を考えないと。彼はいつもきみの分まで考えているだろ? もうそろそろ、きみは、自分の荷物は自分で持つべきだよ、アレン。もうあまりね、ヨシノに負担をかけないで欲しいんだよ」
最後の言葉が、何よりもアレンの心に突き刺さっていた。
血の気の失せた面を伏せ、唇を噛んだアレンを残して、サウードはひとり教室に入る。
心配そうに傍らに佇んでいたクリスは、「サウード、言い方はきついけれど、きみのこと、心配しているんだよ」と優しくアレンの背中を叩いた。
アレンは頷いて、かすかに唇の端を持ちあげた。
二人とも、重い足取りで教室のドアを開けた。
駆けだしていったフレデリックを見送りながら、クリスは深く吐息を漏らした。
「彼、生真面目だものね」
ふわりと微笑んだアレンを見上げ、クリスは、またひとつため息をつく。
ん? と小首を傾げたアレンと肩をならべて歩きだしながら、今度は、はにかんだように笑っている。だがやがて、横に並ぶ並み外れた美貌の持ち主である友人をもう一度ちらりと眺めると、意を決したように喋りはじめた。
「今年の夏はきみもヨシノもいなかっただろ? だからさ、親戚と一緒にブライトンに行ってたんだ。知ってる? ビーチのある観光地だよ。セブンシスターズって、すごく綺麗な白亜の断崖で有名なんだけどさ、」
「ふうん――、それは僕も見てみたかったなぁ」
瞳をきらきらと輝かせて話しだしたクリスに、アレンも嬉しそうに相槌を打つ。
午後の授業が始まるまでまだ時間があった。校舎の影に入ると、とたんに空気が冷やりと感じられたので、二人は日の当たる赤レンガの壁にもたれて座り、時間を潰すことにした。夏と変わらぬ日差しに見えても肌を焼く熱はずっと柔らかい。時折吹き抜ける一陣の風は、秋の訪れを予感させた。
ブライトンでのバカンスの様子を語っていたクリスの話は、いつしかビーチで知り合った一人の女の子に集中していた。
「それでね、僕はね、きみと知り合ってからは、その辺の女の子が、かぼちゃか、じゃがいもにしか見えなくなっていたんだけどさ、」
「かぼちゃ――」
「でも、その子だけは違うんだよ! そりゃ、きみみたいな美人ってわけじゃないけどさ、可愛いんだ!」
「うん」
どう応えるべきか判らなくて、アレンは口元を引きつらせ、曖昧に笑顔を作る。
「本当はね、彼女をきみやヨシノにも紹介したいんだ。でも、きみは綺麗すぎるし、ヨシノはかっこ良すぎるし、フレッドはあまりにも紳士だし、サウードなんて本物の王子さまだからね! みんなの中にいる僕は、自分がじゃがいもにしか思えなくて……」
苦笑いするクリスに、アレンはわずかに眉を寄せる。
「そんなこと――」
「でもいいんだ。僕は彼女だけの騎士だからね。彼女の瞳が僕を世界一の男にしてくれるんだ」
胸を張って誇らしげに鼻を鳴らしたクリスに、アレンは柔らかな笑みを返した。
「きみは、きみ自身が思っているよりも、ずっと強くてかっこいいよ」
誰もがアレンを見て顔を背けかかわることを避けていた時、クリスは真っ直ぐにアレンを見つめ手を差し伸べてくれたのだ。彼の横を何も恐れる様子もなく歩いてくれた。当たり前に、彼をヨシノに引き合わせてあげた。
きみがいなかったら、僕は――。
目頭が熱くなってきて、アレンは思わずあらぬ方向に顔を向け、波立つ心が凪ぐのを待った。
「ありがとう。僕はね、きみたちに比べたらずっと平凡な男に過ぎないけどね、自分を卑下するつもりは毛頭ないんだ。だって僕は誠実さでは誰にも負けない。ガストン家の男だからね!」
クリスは、ずっと遠く、抜けるような蒼空を見やりながら、朗らかに笑った。少し照れくさそうに。
「僕はヨシノにずっと憧れてて、ヨシノみたいになりたいってずっと思っていたんだ。でも、ヨシノみたいにかっこよくなくても、彼女はこんな僕を好きだって言ってくれた。だから僕は、僕のことをもっと好きになれた気がするんだ」
「うん、それで?」
光を遮る影に、二人同時に面を上げた。そして、そこにある顔にほっとして満面の笑みを返した。
「彼女って?」
サウード自身鷹揚な笑みを湛え、クリスを挟んで腰を下ろす。
「クリスのガールフレンド。休暇中に知り合ったんだって」
アレンは自分のことのように嬉しそうに報告する。
「へぇー、それはおめでとう!」
黒目がちな目を見開いて、少し驚いたような表情を見せるサウードに、クリスは、へへっと肩を上げる。
「ヨシノだけじゃなく、きみもだなんて、なんだか置いて行かれた気分だよ」
くいっと眉根を上げ口をすぼめるサウードに、クリスの表情がひくっと強張る。ちらりと隣のアレンを見ると、思った通り、笑みを顔に張りつかせて固まっている。
「ヨシノ、夜はたいてい僕の部屋にいるだろ。もう、毎日電話がかかってくるんだよ。甘いのなんのって」
「――へぇ、僕は、知らなかったなぁ」
秋風を吹きつけているように冷ややかなアレンの声音に、クリスは必死でサウードの腕を小突くのだが――。肝心の彼はまったく解ってないようで、ニコニコと話し続けている。
「そう? 英語に時々ドイツ語が混じるから、旅行中にできた彼女かと思っていたんだけど」
「ドイツ語? スペイン語じゃなくて?」
訝しげに眉を寄せ、クリスを乗り越えるように上半身を倒して、アレンはサウードを覗き込む。間に挟まれたクリスは目を白黒させながら、ふたりの顔を代わる代わる眺めている。
「――旅行、ずっと一緒だったわけじゃないから……」
アレンの感情の読めない呟きに、クリスは息を殺したまま空を仰ぐ。
「まったく羨ましいなぁ。クリス、その彼女をクリスマス・コンサートに呼ぶんだろう? ぜひ紹介しておくれよ」
ぽんと肩に置かれた褐色の手と暖かい笑顔に、クリスは困ったように笑い返し、ぶんぶんと首を振って頷くしかない。
「ところで、」とサウードは立ちあがった。
「アレン、きみの取り巻きは?」
「監督生にもなったし、もうつき添いは断ったよ」
「ヨシノに言った?」
「なんで?」
僕は監督生なのに――。
アレンは不思議そうにサウードを見上げて、おもむろに立ちあがる。
なぜ吉野に断らなければならないのか判らない。彼にはそんな決定権はないのに。そんな想いから、苛立たしい視線をサウードに向けていた。
「彼、反対するよ。今年の生徒会は質が悪いから要注意だって言っていたもの」
おそらくアレンは自覚のないまま納得できない顔をしていたのだろう。サウードはため息をつき、「僕から寮長に話すよ」と締めくくった。
学舎の扉をくぐって教室の前まで来て、サウードは今一度足を止めた。灰色のスラックスの踵を返し、アレンを廊下の端に誘う。そして彼の肩に手を置いて、じっと諭すようにその曖昧な空の瞳を覗き込んだ。
「きみ、いろんな面で自覚がなさすぎるみたいだね。きみはお兄さんの会社のイメージモデルだろ? きみに何かあったら自分だけの問題じゃ済まないんだよ。この校内にだって、きみを手に入れることが出できたら死んでもいいっていうくらい、熱狂的なファンがいるかもしれない。もっと自分の身辺の安全を考えないと。彼はいつもきみの分まで考えているだろ? もうそろそろ、きみは、自分の荷物は自分で持つべきだよ、アレン。もうあまりね、ヨシノに負担をかけないで欲しいんだよ」
最後の言葉が、何よりもアレンの心に突き刺さっていた。
血の気の失せた面を伏せ、唇を噛んだアレンを残して、サウードはひとり教室に入る。
心配そうに傍らに佇んでいたクリスは、「サウード、言い方はきついけれど、きみのこと、心配しているんだよ」と優しくアレンの背中を叩いた。
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