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七章
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居間のローテーブルいっぱいに広げられたA4サイズの写真を腕組みして眺めていたデヴィッドは、開け放たれた扉からちらりと見えたヘンリーに目を留め大声で呼んだ。
「ヘンリー、おかえり! 次のポスターの写真を選んでるんだ、見てよ!」
両手にした写真をそれぞれひらひらさせながら、高く掲げている。
「どっちがいい?」
「これ。これがいい」
デヴィッドには目もくれず、ヘンリーが身を屈めて雑多な中から取り上げた一枚を見て、デヴィッドは訝しげに眉をあげる。ヘンリーは穏やかな微笑を浮かべて彼を見下ろしている。彼の意図を測りかね、デヴィッドはおもむろに口を開いた。
「これはポスター用の写真じゃなくて、」
「これにする。タイトルは、『I believe in you』」
「 believe in なの? I believe you じゃなくて?」
「『I believe in you』」
ヘンリーの言葉に、デヴィッドはしばらく考え込む様子で首を傾げていたが、「きみの能力を信じている、かぁ。確かにTSっぽいね」と、やがて納得したように頷く。
「そうじゃない。きみ自身を信じている、って意味だよ」
にっこりするヘンリーに、デヴィッドは眉間に皺を寄せた難しい顔でゆっくりと問い質した。
「ねぇ、きみ。あの見本市から、これさぁ、一発目のポスターだよぉ。今一番世間が注目しているって時に、公に出す広告を個人的なメッセージボードに使おうっていうの?」
「いけないかい?」
ヘンリーは涼しい顔をして見つめ返す。
「大賛成! やっぱり、これくらいやらなきゃね!」
ヘーゼルの瞳をくるくると悪戯っぽく輝かせ、デヴィッドはさも楽しそうに声を高めた。
「でも、こっちも気に入っているんだよなぁ――。じゃあさぁ、これで立体映像作っていい?」
「静止画なら。動くのは駄目だよ」
「アスカちゃんに話したの?」
冗談ではなく、今度こそいとわしげに眉根を潜めたデヴィッドに、ヘンリーも吐息を漏らして苦笑する。
「とても言えないよ。今、サラがあの映像を解析してくれている。せめて原因が分かってから、あるいは仮説なり立ててから彼には話そうと思っている」
「ヨシノは解ってるんじゃないの?」
「彼が素直に喋ると思うかい?」
「あれをもう一回見せて、へべれけにすれば?」
「デイヴ!」
呆れ声でたしなめられ、デヴィッドはひょいっと肩をすくめる。
「でも、サラは平気なの?」
「映像をそのまま見るわけではないんだよ。彼女は画像処理プログラムを読んでいるだけだから」
「おおもとを作ったアスカちゃんにも判らなかったんでしょ?」
「ヨシノは気づいて、あそこまであの作用を誇張した状態に持っていっているだろう? ――さすが、と思わずにいられないよ」
「自分で嵌る馬鹿なのに?」
くいっと、デヴィッドは眉をあげる。
「そこが彼の可愛いところじゃないか。まぁ、彼にできたことなら、サラにだってできるさ」
ヘンリーは、目を細めてくすくすと笑っている。
あの日、戻って来ないヘンリーを心配してデヴィッドがコンサバトリーに立ち戻ると、ヘンリーは平気な顔で、ソファーでぐっすりと眠る吉野の傍で、煙草をふかしていた。
翌朝目が覚めた吉野には、あの映像は、映像酔いで混乱していた吉野自身が誤って削除してしまったと言ってある。吉野は、ただ「そうか」とだけ答えていた。どこから記憶が飛んでいるのか自分でも判断つかないようだった。
飛鳥の危惧していたように、やはりあの空間映像には麻薬様作用があることが如実になった。だがその原因も過程もいまだ何も解っていない。吉野だけがその仕組みに気がついたのだ。そして彼は、正常な意識を奪うほどの異空間に作り替えた――。
ヘンリーはその中に足を踏み入れたとたんに覚えた、脳味噌を掻き混ぜられるような感覚を思いだし、ひそかに吐息を漏らしていた。
デヴィッドが最初にきた時には、吉野はまだまともに見えていて、先に酩酊していたアレンを「こいつ、うるさいから連れていって」と追いだしたのだ。飛鳥から言われていたこの映像の危険性を伝えにきたデヴィッド自身は、もともと酔いにくい体質でもあったようだし、TS映像を遮断するグラスも持っていた。だから無事だったのだ。だが、飛鳥の注意を吉野に伝えている途中で吉野は急に怒りだし、言い争いになった彼は、アレンだけを連れ帰ったのだった。
後から考えるに、あの時点でもう吉野はどっぷりと嵌っていたに違いない。
「まったく、」
同時に言いかけて、ヘンリーとデヴィッドは互いに顔を見合わせて苦笑する。
「――アスカちゃん、いつ戻ってくるんだろう?」
「大学が始まるまでには、て言っていたけどね」
「それまでにカタがつくといいね」
困ったような、少し心配そうなデヴィッドに、ヘンリーはふわりと優しい笑みを返した。
「大丈夫。僕はサラを信じているからね」
それに、きみのことも信じている――。
ヘンリーは、ガラス扉から広がる茜色に染まるテラスに視線を移した。
「日が落ちるのが早くなってきたね」
「一日、一日が、あっという間だよぉ」
デヴィッドもヘンリーの視線の先を追った。二人共黙ったままで、時計の音だけが時を刻んでいた。
「で、立体映像はいつまでに用意すればいいんだい?」
「早ければ早いほど。世界が僕らの次のメッセージを待っているんだ」
沈黙を破るヘンリーの問いに、デヴィッドは夢見る子どものように瞳を輝かしている。
「OK。最優先でやってもらうよ」
暮れていく空にどんな想いを託しているのか――。
ヘンリーの声音はいつもにも増して優しく、柔らかく静寂に溶けていった。
「ヘンリー、おかえり! 次のポスターの写真を選んでるんだ、見てよ!」
両手にした写真をそれぞれひらひらさせながら、高く掲げている。
「どっちがいい?」
「これ。これがいい」
デヴィッドには目もくれず、ヘンリーが身を屈めて雑多な中から取り上げた一枚を見て、デヴィッドは訝しげに眉をあげる。ヘンリーは穏やかな微笑を浮かべて彼を見下ろしている。彼の意図を測りかね、デヴィッドはおもむろに口を開いた。
「これはポスター用の写真じゃなくて、」
「これにする。タイトルは、『I believe in you』」
「 believe in なの? I believe you じゃなくて?」
「『I believe in you』」
ヘンリーの言葉に、デヴィッドはしばらく考え込む様子で首を傾げていたが、「きみの能力を信じている、かぁ。確かにTSっぽいね」と、やがて納得したように頷く。
「そうじゃない。きみ自身を信じている、って意味だよ」
にっこりするヘンリーに、デヴィッドは眉間に皺を寄せた難しい顔でゆっくりと問い質した。
「ねぇ、きみ。あの見本市から、これさぁ、一発目のポスターだよぉ。今一番世間が注目しているって時に、公に出す広告を個人的なメッセージボードに使おうっていうの?」
「いけないかい?」
ヘンリーは涼しい顔をして見つめ返す。
「大賛成! やっぱり、これくらいやらなきゃね!」
ヘーゼルの瞳をくるくると悪戯っぽく輝かせ、デヴィッドはさも楽しそうに声を高めた。
「でも、こっちも気に入っているんだよなぁ――。じゃあさぁ、これで立体映像作っていい?」
「静止画なら。動くのは駄目だよ」
「アスカちゃんに話したの?」
冗談ではなく、今度こそいとわしげに眉根を潜めたデヴィッドに、ヘンリーも吐息を漏らして苦笑する。
「とても言えないよ。今、サラがあの映像を解析してくれている。せめて原因が分かってから、あるいは仮説なり立ててから彼には話そうと思っている」
「ヨシノは解ってるんじゃないの?」
「彼が素直に喋ると思うかい?」
「あれをもう一回見せて、へべれけにすれば?」
「デイヴ!」
呆れ声でたしなめられ、デヴィッドはひょいっと肩をすくめる。
「でも、サラは平気なの?」
「映像をそのまま見るわけではないんだよ。彼女は画像処理プログラムを読んでいるだけだから」
「おおもとを作ったアスカちゃんにも判らなかったんでしょ?」
「ヨシノは気づいて、あそこまであの作用を誇張した状態に持っていっているだろう? ――さすが、と思わずにいられないよ」
「自分で嵌る馬鹿なのに?」
くいっと、デヴィッドは眉をあげる。
「そこが彼の可愛いところじゃないか。まぁ、彼にできたことなら、サラにだってできるさ」
ヘンリーは、目を細めてくすくすと笑っている。
あの日、戻って来ないヘンリーを心配してデヴィッドがコンサバトリーに立ち戻ると、ヘンリーは平気な顔で、ソファーでぐっすりと眠る吉野の傍で、煙草をふかしていた。
翌朝目が覚めた吉野には、あの映像は、映像酔いで混乱していた吉野自身が誤って削除してしまったと言ってある。吉野は、ただ「そうか」とだけ答えていた。どこから記憶が飛んでいるのか自分でも判断つかないようだった。
飛鳥の危惧していたように、やはりあの空間映像には麻薬様作用があることが如実になった。だがその原因も過程もいまだ何も解っていない。吉野だけがその仕組みに気がついたのだ。そして彼は、正常な意識を奪うほどの異空間に作り替えた――。
ヘンリーはその中に足を踏み入れたとたんに覚えた、脳味噌を掻き混ぜられるような感覚を思いだし、ひそかに吐息を漏らしていた。
デヴィッドが最初にきた時には、吉野はまだまともに見えていて、先に酩酊していたアレンを「こいつ、うるさいから連れていって」と追いだしたのだ。飛鳥から言われていたこの映像の危険性を伝えにきたデヴィッド自身は、もともと酔いにくい体質でもあったようだし、TS映像を遮断するグラスも持っていた。だから無事だったのだ。だが、飛鳥の注意を吉野に伝えている途中で吉野は急に怒りだし、言い争いになった彼は、アレンだけを連れ帰ったのだった。
後から考えるに、あの時点でもう吉野はどっぷりと嵌っていたに違いない。
「まったく、」
同時に言いかけて、ヘンリーとデヴィッドは互いに顔を見合わせて苦笑する。
「――アスカちゃん、いつ戻ってくるんだろう?」
「大学が始まるまでには、て言っていたけどね」
「それまでにカタがつくといいね」
困ったような、少し心配そうなデヴィッドに、ヘンリーはふわりと優しい笑みを返した。
「大丈夫。僕はサラを信じているからね」
それに、きみのことも信じている――。
ヘンリーは、ガラス扉から広がる茜色に染まるテラスに視線を移した。
「日が落ちるのが早くなってきたね」
「一日、一日が、あっという間だよぉ」
デヴィッドもヘンリーの視線の先を追った。二人共黙ったままで、時計の音だけが時を刻んでいた。
「で、立体映像はいつまでに用意すればいいんだい?」
「早ければ早いほど。世界が僕らの次のメッセージを待っているんだ」
沈黙を破るヘンリーの問いに、デヴィッドは夢見る子どものように瞳を輝かしている。
「OK。最優先でやってもらうよ」
暮れていく空にどんな想いを託しているのか――。
ヘンリーの声音はいつもにも増して優しく、柔らかく静寂に溶けていった。
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