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七章
影1
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「あ、きみ……」
緊張した面持ちで先を急ぐ新入寮生のうちの一人を、長い金髪を後ろで一括りに束ねた上級生が呼び止める。
「うちのネクタイ、独特の結び方をするから慣れるまでは難しいよね」
言いながら、真っ赤になって口をぱくぱくさせているその新入生の胸元に手をやると、垂れ下がっているネクタイを丁寧に結び直してやる。
「あ、あ、ありが……」
「さぁ、遅れないように行って」
にっこりと笑いかけられたのだが、その新入寮生はぼーと立ちすくむばかりで、背を向けて他の上級生の輪に戻っていったその彼を目で追ったまま動けなくなってしまっている。
「お前、馬鹿だなぁ!」
吉野は呆れたようにアレンの肩をトンと叩くと、突っ立ったままの新入寮生に、「おい! そこの、さっさと行け!」と睨みを効かして大声を上げたる。件の彼は、怯えた小動物のように飛びあがって駆けだしていった。
「そんな脅かさなくたって――」
アレンはぷっと膨れて不満そうだ。
「お前さぁ、ちょっとは考えろよ! お前があんな真似したら、あいつら、皆、ネクタイをわざとぐちゃぐちゃに締めるようになるぞ!」
「そんな訳ないだろ」
吉野の小馬鹿にしたような視線に、アレンは唇を尖らせて抗議する。
「ヨシノに一票!」
「僕もそう思うよ」
傍らのクリスとフレデリックが、続けざまに口を揃えて吉野の擁護についた。アレンは恨めしそうに、だが自分の判断に自信があるわけでもないので、仕方なく肩をすくめるしかない。
入寮セレモニーが行われるカレッジ・ホール入口に面した中庭には、新入生を迎え入れるべく数人の上級生が立っている。黒で統一された新入生とは違い、灰色のウエストコートに、灰色のトラウザーズを身につけた監督生の一団だ。全校内の成績上位二十名、大学進学を目指すシックス・フォームに該当する四、五学年生で構成されている。
四学年生に進級したアレンとクリスは監督生に、フレデリックは監督生とカレッジ寮副寮長の役職に選ばれている。吉野は、昨年、一昨年に引き続いての銀ボタンだ。
「でもさぁ、銀ボタンは成績トップなわけだろ? なのになんで、ヨシノの制服はボタン以外は一般生徒と変わらないのかなぁ」
「監督生は、一般生徒の風紀を取り締まるからさ、ひと目でそうと判るように制服が違うんだよ。銀ボタンには、一般生徒を取り締まる義務はないんだ。でも通例では監督生の中から選ばれることがほとんどだからな。俺がイレギュラーなだけだよ。もっとも、ヘンリーみたいに監督生を蹴った銀ボタンもいるけどな」
首を傾げるクリスに吉野は目を細めて答えている。「俺はあいつと違って、声もかからなかったけどな!」と、その方がよほど誇らしいとばかりに笑って――。
夏期休暇が終わり、久しぶりに仲間が集い、互いの姿を確認し合うことのできる入寮日だ。ここカレッジ寮生にとって一番の気がかりで、話題の筆頭にあがっているのは、やはり吉野のことだった。
親しい友人たちは、あらかじめアレンから話を聞いてはいた。けれど実際に吉野を目の前にしたときには、皆、一様に返す言葉を失っていた。
「ヨシノ、男をあげたね――」
やっとクリスが、ため息混じりに呟いた。その声には、明らかに感嘆の響きがあった。
「かっこいいだろ?」
右の唇だけ跳ね上げるようにして歪に笑う吉野の、左の頬に走る赤黒い傷痕には生々しい迫力がある。
「うん。すごく」
羨望の眼差しを向けながら、クリスは大きく頷く。
傷のせいだけじゃない。吉野はまた雰囲気が変わった、と思ったのだ。制服がネクタイからボウタイに替わったとかそんなことではなくて、吉野だけがこの中で飛び抜けて大人に見えるのだ。最上級生と話しているときだって、どっちが年上か判らないくらいに。
「テロの話、教えてくれる? もし、きみが嫌じゃなかったら」
新学期が始まる前から、エリオット校生の話題はこれ一色だといってもいいほどだったのだ。
「サウード!」
勢い良くドアを開け、入ってくるなり他人のベッドにゴロリと横になっている吉野に、サウードは変わらぬ鷹揚な笑みを向けている。
「お疲れだね、ヨシノ」
「なぁ、サウード、あの馬鹿なんとか止めてくれよ。いきなり合気道サークルに入るとか言いだしているんだぞ」
寝返りを打ち、ベッドの端から頭を落とすようにして喋る吉野の視界に、窓辺に腰かけるサウードの静かな佇まいが映る。
「別にいいじゃないか。手を痛めたりはしないよ、合気道なら」
「だって武道だぞ。組み合ったりするだろ? あいつが入会したら、サークルがどれだけ膨れあがるか判らないぞ。だいたいさぁ、他人に触られるのが嫌いなあいつがさ、組み合いに耐えられるわけないだろ!」
吉野は不機嫌に唇を尖らせている。
「それは焼きもちなの?」
クスクスと笑うサウードにしかめっ面を返し、吉野はまたくるりと寝返りを打つ。
「きみにしては出遅れたね。きみが来たら説得してくれという、アレンの頼みを先に引き受けてしまったよ」
サウードは、すまないね、と肩をすくめて見せる。
「欧州でまた危険な目にあったんだって? アリーの後任をすぐに用意すれば良かったね。申し訳なかった。でもね、ヨシノ、彼の言うことはもっともだと思うよ。彼の身分で護身術も習っていなければ、受身も取れないなんて、かえって心配だよ」
「でもさぁ――」
今はうつ伏せになって顔だけあげていた吉野は、両腕を枕にしてを顎を載せる。
「合気道サークルなら、僕もイスハークもいるからね。下手に身体を鍛える、なんて言いだされて怪しげなサークルに入られるよりは、よほどマシだと思うよ」
サウードに穏やかな声で言いくるめられ、吉野は憮然とため息をつく。
「あいつ、最近ちっとも俺の言うこと聞きやしない……」
目線だけサウードに向けて、吉野はくたびれた声で訴えた。
「なぁ、ちょっとだけここで寝てていいか? 部屋にいるとさぁ、うるさいんだ、誰彼となく来てさぁ……」
「もとより、そのつもりだろ?」
苦笑するサウードに、吉野は手首だけひらひらとさせて礼に代えた。
緊張した面持ちで先を急ぐ新入寮生のうちの一人を、長い金髪を後ろで一括りに束ねた上級生が呼び止める。
「うちのネクタイ、独特の結び方をするから慣れるまでは難しいよね」
言いながら、真っ赤になって口をぱくぱくさせているその新入生の胸元に手をやると、垂れ下がっているネクタイを丁寧に結び直してやる。
「あ、あ、ありが……」
「さぁ、遅れないように行って」
にっこりと笑いかけられたのだが、その新入寮生はぼーと立ちすくむばかりで、背を向けて他の上級生の輪に戻っていったその彼を目で追ったまま動けなくなってしまっている。
「お前、馬鹿だなぁ!」
吉野は呆れたようにアレンの肩をトンと叩くと、突っ立ったままの新入寮生に、「おい! そこの、さっさと行け!」と睨みを効かして大声を上げたる。件の彼は、怯えた小動物のように飛びあがって駆けだしていった。
「そんな脅かさなくたって――」
アレンはぷっと膨れて不満そうだ。
「お前さぁ、ちょっとは考えろよ! お前があんな真似したら、あいつら、皆、ネクタイをわざとぐちゃぐちゃに締めるようになるぞ!」
「そんな訳ないだろ」
吉野の小馬鹿にしたような視線に、アレンは唇を尖らせて抗議する。
「ヨシノに一票!」
「僕もそう思うよ」
傍らのクリスとフレデリックが、続けざまに口を揃えて吉野の擁護についた。アレンは恨めしそうに、だが自分の判断に自信があるわけでもないので、仕方なく肩をすくめるしかない。
入寮セレモニーが行われるカレッジ・ホール入口に面した中庭には、新入生を迎え入れるべく数人の上級生が立っている。黒で統一された新入生とは違い、灰色のウエストコートに、灰色のトラウザーズを身につけた監督生の一団だ。全校内の成績上位二十名、大学進学を目指すシックス・フォームに該当する四、五学年生で構成されている。
四学年生に進級したアレンとクリスは監督生に、フレデリックは監督生とカレッジ寮副寮長の役職に選ばれている。吉野は、昨年、一昨年に引き続いての銀ボタンだ。
「でもさぁ、銀ボタンは成績トップなわけだろ? なのになんで、ヨシノの制服はボタン以外は一般生徒と変わらないのかなぁ」
「監督生は、一般生徒の風紀を取り締まるからさ、ひと目でそうと判るように制服が違うんだよ。銀ボタンには、一般生徒を取り締まる義務はないんだ。でも通例では監督生の中から選ばれることがほとんどだからな。俺がイレギュラーなだけだよ。もっとも、ヘンリーみたいに監督生を蹴った銀ボタンもいるけどな」
首を傾げるクリスに吉野は目を細めて答えている。「俺はあいつと違って、声もかからなかったけどな!」と、その方がよほど誇らしいとばかりに笑って――。
夏期休暇が終わり、久しぶりに仲間が集い、互いの姿を確認し合うことのできる入寮日だ。ここカレッジ寮生にとって一番の気がかりで、話題の筆頭にあがっているのは、やはり吉野のことだった。
親しい友人たちは、あらかじめアレンから話を聞いてはいた。けれど実際に吉野を目の前にしたときには、皆、一様に返す言葉を失っていた。
「ヨシノ、男をあげたね――」
やっとクリスが、ため息混じりに呟いた。その声には、明らかに感嘆の響きがあった。
「かっこいいだろ?」
右の唇だけ跳ね上げるようにして歪に笑う吉野の、左の頬に走る赤黒い傷痕には生々しい迫力がある。
「うん。すごく」
羨望の眼差しを向けながら、クリスは大きく頷く。
傷のせいだけじゃない。吉野はまた雰囲気が変わった、と思ったのだ。制服がネクタイからボウタイに替わったとかそんなことではなくて、吉野だけがこの中で飛び抜けて大人に見えるのだ。最上級生と話しているときだって、どっちが年上か判らないくらいに。
「テロの話、教えてくれる? もし、きみが嫌じゃなかったら」
新学期が始まる前から、エリオット校生の話題はこれ一色だといってもいいほどだったのだ。
「サウード!」
勢い良くドアを開け、入ってくるなり他人のベッドにゴロリと横になっている吉野に、サウードは変わらぬ鷹揚な笑みを向けている。
「お疲れだね、ヨシノ」
「なぁ、サウード、あの馬鹿なんとか止めてくれよ。いきなり合気道サークルに入るとか言いだしているんだぞ」
寝返りを打ち、ベッドの端から頭を落とすようにして喋る吉野の視界に、窓辺に腰かけるサウードの静かな佇まいが映る。
「別にいいじゃないか。手を痛めたりはしないよ、合気道なら」
「だって武道だぞ。組み合ったりするだろ? あいつが入会したら、サークルがどれだけ膨れあがるか判らないぞ。だいたいさぁ、他人に触られるのが嫌いなあいつがさ、組み合いに耐えられるわけないだろ!」
吉野は不機嫌に唇を尖らせている。
「それは焼きもちなの?」
クスクスと笑うサウードにしかめっ面を返し、吉野はまたくるりと寝返りを打つ。
「きみにしては出遅れたね。きみが来たら説得してくれという、アレンの頼みを先に引き受けてしまったよ」
サウードは、すまないね、と肩をすくめて見せる。
「欧州でまた危険な目にあったんだって? アリーの後任をすぐに用意すれば良かったね。申し訳なかった。でもね、ヨシノ、彼の言うことはもっともだと思うよ。彼の身分で護身術も習っていなければ、受身も取れないなんて、かえって心配だよ」
「でもさぁ――」
今はうつ伏せになって顔だけあげていた吉野は、両腕を枕にしてを顎を載せる。
「合気道サークルなら、僕もイスハークもいるからね。下手に身体を鍛える、なんて言いだされて怪しげなサークルに入られるよりは、よほどマシだと思うよ」
サウードに穏やかな声で言いくるめられ、吉野は憮然とため息をつく。
「あいつ、最近ちっとも俺の言うこと聞きやしない……」
目線だけサウードに向けて、吉野はくたびれた声で訴えた。
「なぁ、ちょっとだけここで寝てていいか? 部屋にいるとさぁ、うるさいんだ、誰彼となく来てさぁ……」
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