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六章
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サラ一人だけがちょこんとテーブルに着いている。二階の書斎からダイニングルームに下りてきたヘンリーは、不思議そうに首を傾げる。
「アレンは気分が悪いみたい。デヴィがお世話している。ヨシノは知らない。部屋にはいないって」
事務的に報告したサラの肩を軽くぽんと叩き、「探してくるよ」とヘンリーはダイニングルームをあとにした。
家にいるときは、できるだけ一緒に食事をする。それがこの家の規則だ。
夕方まではここにいたアーネストも、すでにロンドンの本宅に戻っている。意識して互いの顔を見、話をする機会を作らねば、ともすれば仕事にかまかけバラバラになり、同じ家に住んでいながら顔を合わすことすらなくなってしまう。
そういう意味で、吉野も皆で食事をすることをとても大事にしている。食事時間には何をおいても切りあげてくる。こんな風に理由もなく姿を見せない、などということは今までなかった。
ヘンリーは訝しい思いを抱えたまま、まずはアレンの部屋をノックする。
出てきたのはデヴィッドだ。人差し指を唇に当てて渋い顔をしている。
「池にはまったんだって? 風邪?」
デヴィッドはしかめっ面のまま首を横に振る。
「べろんべろんに映像酔い」
「べろんべろんって、酔っ払いみたいに――」
「お酒ならまだまし。これじゃあ、ドラッグやったあとみたいだよ」
「え?」
「アスカちゃんがいろいろ調べてただろ? あれをさらにヨシノがいじったんだよ。見つけたときにはもう二人ともハイになっちゃって、へべれけ」
「彼、なにをやったって?」
顔をしかめたまま、デヴィッドはまた首を振る。
「彼は?」
「コンサバトリー。放ってきちゃったよ」
踵を返したヘンリーを、デヴィッドは若干怒っているような低い声で呼び止めた。
「あそこに入るなら、これ」
指先に眼鏡を引っ掛け、差しだしている。立体映像を遮断する専用グラスだ。
「いらない。装置を切るよ」
「暴れるかもしれないよ」
「取り押さえるさ」
にっと笑ったヘンリーの背中を見送り、デヴィッドは深くため息を漏らした。
「本当にあの子、とんでもない子だよ――」
「ずっとここにいたのかい? 夕食も食べないで……」
コンサバトリーに入るなり、ヘンリーは煌めき躍動する星々に息を呑んでいた。生きて渦巻いている、吞み込まれそうな輝きとそのスピードに、その隙間に開かれた奈落に、意識ががくりと傾いた。浸食される。皮膚の表面から紫紺に侵される。そんな錯覚に囚われそうになり揺らぐ頭を片手で押さえ、反対の手の親指を立てた。
――視点を固定すること。
周りを見ないこと。空間映像に、不自然に見えないように視点を配置する。それが飛鳥のこなそうとしていた課題ではなかったか?
目を眇め、一歩一歩摺り足で進みながら、ローテーブルに置かれていた映像操作用のパソコンの電源を切る。
とたんに溶けだす映像――。解けきったあとに残るのも、ガラスの向こうに広がる実像の宇宙ではあったが。こちらはずっと優しく穏やかだ。
静まり返った薄闇の中、紺青を映す大理石の床に吉野が蹲っている。
「ヨシノ、食事の時間だ」
肩に手を置いて声をかけると、吉野はその泣き濡れた面をあげ、真っすぐな視線をヘンリーに向けた。
「なぁ、俺に飛鳥を返してくれ。一緒に日本に帰るんだ。家に戻るんだ。父さんも一緒に。なぁ、ヘンリー、もういいだろう? 俺、ちゃんと稼いできただろう? あんたの会社が一年や二年やっていけるくらい、稼いできただろう? なぁ……」
ぼろぼろと涙を流しながら告げられたその言葉に、ヘンリーは喉を詰まらせ、咄嗟の言葉が出てこなかった。
「アスカもそう望んでいるの? もし、彼が本気で望むのなら――」
「違う。駄目だよ、俺の言うことなんか聞くな。ただの戯言だよ」
「ヨシノ、」
「触るな――。俺はお前らなんか大嫌いなんだ。金髪も、青い目も、大嫌いなんだ……」
「目を瞑って見なければいい。僕がきみの家族を奪ったわけじゃない。アスカが帰ってくるまで僕が彼の代わりをするよ」
「触るな」
力なくヘンリーの胸倉を掴んで押し返そうとする吉野を、文字通り抑え込むようにして抱きかかえた。
「アスカがきみのことを想うように、僕だってきみのことを想っている。心配しているんだよ、これでも。白人がきみのことを心配しちゃ、おかしいかい? もし、きみが本当に望むのなら、日本に、」
「駄目だよ、ヘンリー。俺は日本には帰れない。向こうの友達を巻き込んじまう。飛鳥だって、こっちでやっと友達って呼べる奴ができたんだ。帰れないよ。もう、帰れないんだ……。俺は、飛鳥の傍にいちゃいけないんだ」
泣き止まない吉野を胸に抱え込み、ヘンリーも苦し気な息を吐く。
まったくなんてバッドトリップだ! 自分で手を入れた映像に自分が酔ってどうするんだ!
呆れ半分で吐息をつく。だがそれ以上に、滅多に聞けない吉野の本音はヘンリーの胸を軋ませていた。
「きみをそんなふうに追い込んだのは、」
「飛鳥があんたと喧嘩して飛びでてきた時、俺、解ったんだ。今の俺じゃ飛鳥を守れない。あんたのとこが、飛鳥にとって一番安全なんだって。ロニーじゃ駄目だ。飛鳥が自分のやりたいことをやれなくなる。サラと、あんたが、飛鳥には必要なんだよ」
うわ言のように吉野は喋り続ける。ヘンリーに話している自覚などないのかもしれない。ただ、心の内側に溜まりに溜まった想いを吐きだしているだけなのか……。
ヘンリーも、もう何も言わずに吉野の頭を掻き抱き、背中を優しく摩ってやりながら「うん」「うん」と相槌だけを打っている。
「俺、もう、ここから逃げないよ。俺にはあいつが必要なんだ。あいつが俺の傍にいてくれるだけで、飛鳥も、親父も狙われない。全部、あいつが引き受けてくれる」
「それが、きみがあの子を傍に置く理由なのかい?」
苦しそうに呟かれた声に、吉野の背中を摩っていたヘンリーの手が止まった。
「そうだよ。俺が下手打っても誘拐されたのは飛鳥じゃなかった。車で轢き殺されかけたのも、飛鳥じゃなかった。今まで飛鳥が被っていたことを、全部、あいつが引き受けてくれるんだ。あいつが俺の一番だって、誰も疑わない。あの、誰もが夢中になる天使面のおかげで。今までずっと飛鳥だったのに。あいつが飛鳥の代わりになってくれるんなら、俺、何だってしてやるよ。父親役でも、あんたの代わりでも、何でもやる。それで飛鳥を守れるのなら。何だって――」
ヘンリーの顔が悔恨で歪んだ。吉野を抱く腕に力が籠る。
自分の偏狭でつまらない確執が、こんなところで芽吹いて彼の心を捻じ曲げるのに一役買っていたなんて……。
「あいつが飛鳥の代わりに十字架にかかり、俺の罪を贖ってくれるんだ――」
神を想うようにきみを愛しているあの子を、きみは犠牲の供物として捧げるのか……。
「世界がどんなふうに転がっても、俺は、飛鳥だけ守り抜くんだ――」
温もりと、規則正しく繰り返されるヘンリーの心臓の音に安心したのか、それとも心中の泥を吐きだしきって楽になったのか――。
吉野はいつの間にか涙を涸らし、静かな規則正しい呼吸を繰り返していた。
「アレンは気分が悪いみたい。デヴィがお世話している。ヨシノは知らない。部屋にはいないって」
事務的に報告したサラの肩を軽くぽんと叩き、「探してくるよ」とヘンリーはダイニングルームをあとにした。
家にいるときは、できるだけ一緒に食事をする。それがこの家の規則だ。
夕方まではここにいたアーネストも、すでにロンドンの本宅に戻っている。意識して互いの顔を見、話をする機会を作らねば、ともすれば仕事にかまかけバラバラになり、同じ家に住んでいながら顔を合わすことすらなくなってしまう。
そういう意味で、吉野も皆で食事をすることをとても大事にしている。食事時間には何をおいても切りあげてくる。こんな風に理由もなく姿を見せない、などということは今までなかった。
ヘンリーは訝しい思いを抱えたまま、まずはアレンの部屋をノックする。
出てきたのはデヴィッドだ。人差し指を唇に当てて渋い顔をしている。
「池にはまったんだって? 風邪?」
デヴィッドはしかめっ面のまま首を横に振る。
「べろんべろんに映像酔い」
「べろんべろんって、酔っ払いみたいに――」
「お酒ならまだまし。これじゃあ、ドラッグやったあとみたいだよ」
「え?」
「アスカちゃんがいろいろ調べてただろ? あれをさらにヨシノがいじったんだよ。見つけたときにはもう二人ともハイになっちゃって、へべれけ」
「彼、なにをやったって?」
顔をしかめたまま、デヴィッドはまた首を振る。
「彼は?」
「コンサバトリー。放ってきちゃったよ」
踵を返したヘンリーを、デヴィッドは若干怒っているような低い声で呼び止めた。
「あそこに入るなら、これ」
指先に眼鏡を引っ掛け、差しだしている。立体映像を遮断する専用グラスだ。
「いらない。装置を切るよ」
「暴れるかもしれないよ」
「取り押さえるさ」
にっと笑ったヘンリーの背中を見送り、デヴィッドは深くため息を漏らした。
「本当にあの子、とんでもない子だよ――」
「ずっとここにいたのかい? 夕食も食べないで……」
コンサバトリーに入るなり、ヘンリーは煌めき躍動する星々に息を呑んでいた。生きて渦巻いている、吞み込まれそうな輝きとそのスピードに、その隙間に開かれた奈落に、意識ががくりと傾いた。浸食される。皮膚の表面から紫紺に侵される。そんな錯覚に囚われそうになり揺らぐ頭を片手で押さえ、反対の手の親指を立てた。
――視点を固定すること。
周りを見ないこと。空間映像に、不自然に見えないように視点を配置する。それが飛鳥のこなそうとしていた課題ではなかったか?
目を眇め、一歩一歩摺り足で進みながら、ローテーブルに置かれていた映像操作用のパソコンの電源を切る。
とたんに溶けだす映像――。解けきったあとに残るのも、ガラスの向こうに広がる実像の宇宙ではあったが。こちらはずっと優しく穏やかだ。
静まり返った薄闇の中、紺青を映す大理石の床に吉野が蹲っている。
「ヨシノ、食事の時間だ」
肩に手を置いて声をかけると、吉野はその泣き濡れた面をあげ、真っすぐな視線をヘンリーに向けた。
「なぁ、俺に飛鳥を返してくれ。一緒に日本に帰るんだ。家に戻るんだ。父さんも一緒に。なぁ、ヘンリー、もういいだろう? 俺、ちゃんと稼いできただろう? あんたの会社が一年や二年やっていけるくらい、稼いできただろう? なぁ……」
ぼろぼろと涙を流しながら告げられたその言葉に、ヘンリーは喉を詰まらせ、咄嗟の言葉が出てこなかった。
「アスカもそう望んでいるの? もし、彼が本気で望むのなら――」
「違う。駄目だよ、俺の言うことなんか聞くな。ただの戯言だよ」
「ヨシノ、」
「触るな――。俺はお前らなんか大嫌いなんだ。金髪も、青い目も、大嫌いなんだ……」
「目を瞑って見なければいい。僕がきみの家族を奪ったわけじゃない。アスカが帰ってくるまで僕が彼の代わりをするよ」
「触るな」
力なくヘンリーの胸倉を掴んで押し返そうとする吉野を、文字通り抑え込むようにして抱きかかえた。
「アスカがきみのことを想うように、僕だってきみのことを想っている。心配しているんだよ、これでも。白人がきみのことを心配しちゃ、おかしいかい? もし、きみが本当に望むのなら、日本に、」
「駄目だよ、ヘンリー。俺は日本には帰れない。向こうの友達を巻き込んじまう。飛鳥だって、こっちでやっと友達って呼べる奴ができたんだ。帰れないよ。もう、帰れないんだ……。俺は、飛鳥の傍にいちゃいけないんだ」
泣き止まない吉野を胸に抱え込み、ヘンリーも苦し気な息を吐く。
まったくなんてバッドトリップだ! 自分で手を入れた映像に自分が酔ってどうするんだ!
呆れ半分で吐息をつく。だがそれ以上に、滅多に聞けない吉野の本音はヘンリーの胸を軋ませていた。
「きみをそんなふうに追い込んだのは、」
「飛鳥があんたと喧嘩して飛びでてきた時、俺、解ったんだ。今の俺じゃ飛鳥を守れない。あんたのとこが、飛鳥にとって一番安全なんだって。ロニーじゃ駄目だ。飛鳥が自分のやりたいことをやれなくなる。サラと、あんたが、飛鳥には必要なんだよ」
うわ言のように吉野は喋り続ける。ヘンリーに話している自覚などないのかもしれない。ただ、心の内側に溜まりに溜まった想いを吐きだしているだけなのか……。
ヘンリーも、もう何も言わずに吉野の頭を掻き抱き、背中を優しく摩ってやりながら「うん」「うん」と相槌だけを打っている。
「俺、もう、ここから逃げないよ。俺にはあいつが必要なんだ。あいつが俺の傍にいてくれるだけで、飛鳥も、親父も狙われない。全部、あいつが引き受けてくれる」
「それが、きみがあの子を傍に置く理由なのかい?」
苦しそうに呟かれた声に、吉野の背中を摩っていたヘンリーの手が止まった。
「そうだよ。俺が下手打っても誘拐されたのは飛鳥じゃなかった。車で轢き殺されかけたのも、飛鳥じゃなかった。今まで飛鳥が被っていたことを、全部、あいつが引き受けてくれるんだ。あいつが俺の一番だって、誰も疑わない。あの、誰もが夢中になる天使面のおかげで。今までずっと飛鳥だったのに。あいつが飛鳥の代わりになってくれるんなら、俺、何だってしてやるよ。父親役でも、あんたの代わりでも、何でもやる。それで飛鳥を守れるのなら。何だって――」
ヘンリーの顔が悔恨で歪んだ。吉野を抱く腕に力が籠る。
自分の偏狭でつまらない確執が、こんなところで芽吹いて彼の心を捻じ曲げるのに一役買っていたなんて……。
「あいつが飛鳥の代わりに十字架にかかり、俺の罪を贖ってくれるんだ――」
神を想うようにきみを愛しているあの子を、きみは犠牲の供物として捧げるのか……。
「世界がどんなふうに転がっても、俺は、飛鳥だけ守り抜くんだ――」
温もりと、規則正しく繰り返されるヘンリーの心臓の音に安心したのか、それとも心中の泥を吐きだしきって楽になったのか――。
吉野はいつの間にか涙を涸らし、静かな規則正しい呼吸を繰り返していた。
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