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六章
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「サラ、これを調べてくれないか?」
開けっ放しのコンピューター室のドアをノックされ、振り向きざまに声をかけられた。戸口に立つ吉野は、律儀に室内には入ってこようとはしない。
「今、手が離せない。持ってきて」
「入れない。飛鳥と約束した」
サラのパソコンをハッキングして、ケンブリッジの屋敷へは出入り禁止にされていた吉野への、飛鳥の警戒が解けた訳ではない。
事故に遭いショックを受けているアレンを気遣って、吉野の滞在も許しているだけだ。だが本当のところは、狙われたのはアレンなのか、吉野なのか判断できなかったからというのが正確だ。
飛鳥の手前、不運な事故だった。イタリアの運転技術の粗さは欧州でも知れ渡っているし、あり得ることだ。と、ヘンリーは説明するしかなかったのだが。
だから、マーシュコートにあるコズモス本体に繋がるサラのコンピューター室に入ることは、吉野には当然禁止されている。吉野が不審な真似をしたら、かまわず家から叩き出してくれ、と、飛鳥はスイスからのビデオ通話でデヴィッドに念を押して伝えている。
「気にしなくてもいいのに」
「解っているよ。以前のとはハードからして違うんだろ? 俺には手が出せないよ。でも、約束だから。ここに置いておくぞ。急がないから。手が空いたらでいいよ」
吉野は手にしていた書類を床の上にぱさりと置いた。そして、モニター画面に目を向けていたサラが次に振り向いたときには、もういなかった。
吉野はいつ頃からヘンリーを通してサラにこういった用事を頼むようになっていただろうか――。それは決まって複雑な演算処理が必要なときと、ヘンリーと共同で何か事を仕掛けるとき。スイスフランがそうだった。サウードの資金を動かすので手一杯だった吉野は、アッシェンバッハ家の資金操作をヘンリーを通じてサラに託した。もちろん、ヘンリーもこの計画に一枚噛んでいる。この取引で彼が得た利益は膨大なものになった。
だから吉野の頼みごとは、ヘンリーに知られてもいいこと。あるいは、知っていて欲しいこと――。ヘンリーの利益になること。
つらつらと思いながら、サラは一旦作業に区切りをつけ立ち上がった。置かれた書類を拾いあげ、そしてそのまま床にぺたんと腰をおろして読みふけり始めた。
コンサバトリーから続く芝生を上りきった高台に新しく作られた東屋には、濃い紫と、黄緑のラインの入った白い花弁の二種類のクレマチスが、競い合うように、互いに引き立てあうように、六角形の屋根を飾り白い石柱に絡みついて伸びている。 そんなクレマチスの花と深緑の葉を揺らして、鮮やかな芝の緑の上を風が駆け抜ける。
「アレン!」
東屋の下にいた彼は振り向きざま、人差し指を柔らかな微笑を湛えた唇に当てる。
「すみません。お静かに。ヨシノが笛を吹いているんです」
嬉しそうに瞳を輝かせて小声で囁いたアレンに、デヴィッドは同じように声を潜めて訊き返した。
「こんなところで聴いてるの? 良く聞こえないよ。もっと近くに行けば?」
風に乗って聞こえるか、聞こえないか、といった微かな調べに、デヴィッドは不思議そうに頭を傾げている。
「彼、誰かが近づくとすぐに機嫌が悪くなって止めてしまうんです」
「えー、そうなの? 前は普通に吹いてくれていたのになぁ」
意外そうに目を丸めるデヴィッドに、アレンは残念そうに首をすくめる。
「笛を吹いているところを見つかると、先生にフルートを吹けって追いかけられるんですって」
「あー、フルート。クリスマス・コンサートだねぇ……。僕が日本にいたときの。アーニーが録画したやつ、見せてもらったよ。ヨシノ、あのときのフルートもきみのためだったんだってねぇ」
懐かしそうに優しく、けれど猫のようにくるくると悪戯っぽく瞳の色を変えて、デヴィッドは内緒話をするように顔を寄せる。
「きみもコンサートに出てただろ? だからあの子もあのコンサートにエントリーしたんだって、知ってた? 自分が演奏するからって、アスカちゃんにヘンリーを引っ張ってきてくれ、って頼んだんだってね、あの子」
「でも、どうして――。僕は、あの頃は、」
「うん。あの頃からヨシノは、ヘンリーがフェイラーの家のことできみに冷たいのを、気にして心配していたんだよぉ」
喜ぶかと思ってこの話を出したのに、肝心の相手は、ぎゅっとへの字に結んだ唇を震わせて下を向いてしまっている。
デヴィッドは今ごろになって、はっと顔色を変えた。慌てて取りなすように、所在なさげに縮こまってしまった彼の頭をわしわしと撫でる。
「ごめん! そういえば、あのあと、ひと悶着あったんだったね」
そのコンサートで、アレンは吉野と揉めたのだった!
そして、ヘンリーの怒りを買って殴りつけられそうになったアレンを庇い、吉野は骨折したのだ。新年に会った時、確か彼はギプスを嵌めていた。さすがにアーニーも、あのときは散々ヘンリーに怒っていたっけ……。
「でも、ほら、あの頃から考えるとさ、きみも、ヘンリーも、ヨシノもさ、ずいぶん変わったよね。良い方にさ。ね?」
わしわしと、広い掌で慰められていた頭がこくんと傾いた。
「ヨシノのところに行こうよ。先生だってここまでは追いかけてきやしないよ。なんたってこの家のセキュリティは、サラがプログラムしたんだからね! これを破れるのはヨシノくらいのもので……」
気を取り直すように明るく喋り続けるデヴィッドにつられて、アレンも面をあげた。そして、泣きたいような、情けないような口許を無理やり引きあげて笑顔を作り、彼の気遣いに感謝を表したのだった。
吉野の笛の音がだんだん近づいてくる。
静かで柔らかなせせらぎに似たその旋律は、落ちこんでいたアレンの心をゆっくりと癒し、浮上させてくれる。木立の隙間から光を反射して輝く池の水面が覗く頃には、笛の音もはっきりと聞こえてきていた。
小径を突き進み、欄干に腰かけて笛を吹く吉野の背中を見つけたとき、アレンの足がぴたりと止まる。
吉野の横に、サラが、当たり前のように腰かけていたのだ。
開けっ放しのコンピューター室のドアをノックされ、振り向きざまに声をかけられた。戸口に立つ吉野は、律儀に室内には入ってこようとはしない。
「今、手が離せない。持ってきて」
「入れない。飛鳥と約束した」
サラのパソコンをハッキングして、ケンブリッジの屋敷へは出入り禁止にされていた吉野への、飛鳥の警戒が解けた訳ではない。
事故に遭いショックを受けているアレンを気遣って、吉野の滞在も許しているだけだ。だが本当のところは、狙われたのはアレンなのか、吉野なのか判断できなかったからというのが正確だ。
飛鳥の手前、不運な事故だった。イタリアの運転技術の粗さは欧州でも知れ渡っているし、あり得ることだ。と、ヘンリーは説明するしかなかったのだが。
だから、マーシュコートにあるコズモス本体に繋がるサラのコンピューター室に入ることは、吉野には当然禁止されている。吉野が不審な真似をしたら、かまわず家から叩き出してくれ、と、飛鳥はスイスからのビデオ通話でデヴィッドに念を押して伝えている。
「気にしなくてもいいのに」
「解っているよ。以前のとはハードからして違うんだろ? 俺には手が出せないよ。でも、約束だから。ここに置いておくぞ。急がないから。手が空いたらでいいよ」
吉野は手にしていた書類を床の上にぱさりと置いた。そして、モニター画面に目を向けていたサラが次に振り向いたときには、もういなかった。
吉野はいつ頃からヘンリーを通してサラにこういった用事を頼むようになっていただろうか――。それは決まって複雑な演算処理が必要なときと、ヘンリーと共同で何か事を仕掛けるとき。スイスフランがそうだった。サウードの資金を動かすので手一杯だった吉野は、アッシェンバッハ家の資金操作をヘンリーを通じてサラに託した。もちろん、ヘンリーもこの計画に一枚噛んでいる。この取引で彼が得た利益は膨大なものになった。
だから吉野の頼みごとは、ヘンリーに知られてもいいこと。あるいは、知っていて欲しいこと――。ヘンリーの利益になること。
つらつらと思いながら、サラは一旦作業に区切りをつけ立ち上がった。置かれた書類を拾いあげ、そしてそのまま床にぺたんと腰をおろして読みふけり始めた。
コンサバトリーから続く芝生を上りきった高台に新しく作られた東屋には、濃い紫と、黄緑のラインの入った白い花弁の二種類のクレマチスが、競い合うように、互いに引き立てあうように、六角形の屋根を飾り白い石柱に絡みついて伸びている。 そんなクレマチスの花と深緑の葉を揺らして、鮮やかな芝の緑の上を風が駆け抜ける。
「アレン!」
東屋の下にいた彼は振り向きざま、人差し指を柔らかな微笑を湛えた唇に当てる。
「すみません。お静かに。ヨシノが笛を吹いているんです」
嬉しそうに瞳を輝かせて小声で囁いたアレンに、デヴィッドは同じように声を潜めて訊き返した。
「こんなところで聴いてるの? 良く聞こえないよ。もっと近くに行けば?」
風に乗って聞こえるか、聞こえないか、といった微かな調べに、デヴィッドは不思議そうに頭を傾げている。
「彼、誰かが近づくとすぐに機嫌が悪くなって止めてしまうんです」
「えー、そうなの? 前は普通に吹いてくれていたのになぁ」
意外そうに目を丸めるデヴィッドに、アレンは残念そうに首をすくめる。
「笛を吹いているところを見つかると、先生にフルートを吹けって追いかけられるんですって」
「あー、フルート。クリスマス・コンサートだねぇ……。僕が日本にいたときの。アーニーが録画したやつ、見せてもらったよ。ヨシノ、あのときのフルートもきみのためだったんだってねぇ」
懐かしそうに優しく、けれど猫のようにくるくると悪戯っぽく瞳の色を変えて、デヴィッドは内緒話をするように顔を寄せる。
「きみもコンサートに出てただろ? だからあの子もあのコンサートにエントリーしたんだって、知ってた? 自分が演奏するからって、アスカちゃんにヘンリーを引っ張ってきてくれ、って頼んだんだってね、あの子」
「でも、どうして――。僕は、あの頃は、」
「うん。あの頃からヨシノは、ヘンリーがフェイラーの家のことできみに冷たいのを、気にして心配していたんだよぉ」
喜ぶかと思ってこの話を出したのに、肝心の相手は、ぎゅっとへの字に結んだ唇を震わせて下を向いてしまっている。
デヴィッドは今ごろになって、はっと顔色を変えた。慌てて取りなすように、所在なさげに縮こまってしまった彼の頭をわしわしと撫でる。
「ごめん! そういえば、あのあと、ひと悶着あったんだったね」
そのコンサートで、アレンは吉野と揉めたのだった!
そして、ヘンリーの怒りを買って殴りつけられそうになったアレンを庇い、吉野は骨折したのだ。新年に会った時、確か彼はギプスを嵌めていた。さすがにアーニーも、あのときは散々ヘンリーに怒っていたっけ……。
「でも、ほら、あの頃から考えるとさ、きみも、ヘンリーも、ヨシノもさ、ずいぶん変わったよね。良い方にさ。ね?」
わしわしと、広い掌で慰められていた頭がこくんと傾いた。
「ヨシノのところに行こうよ。先生だってここまでは追いかけてきやしないよ。なんたってこの家のセキュリティは、サラがプログラムしたんだからね! これを破れるのはヨシノくらいのもので……」
気を取り直すように明るく喋り続けるデヴィッドにつられて、アレンも面をあげた。そして、泣きたいような、情けないような口許を無理やり引きあげて笑顔を作り、彼の気遣いに感謝を表したのだった。
吉野の笛の音がだんだん近づいてくる。
静かで柔らかなせせらぎに似たその旋律は、落ちこんでいたアレンの心をゆっくりと癒し、浮上させてくれる。木立の隙間から光を反射して輝く池の水面が覗く頃には、笛の音もはっきりと聞こえてきていた。
小径を突き進み、欄干に腰かけて笛を吹く吉野の背中を見つけたとき、アレンの足がぴたりと止まる。
吉野の横に、サラが、当たり前のように腰かけていたのだ。
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