胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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「ミラノまで鉄道で三時間だろ」
 ローザンヌ駅前カフェの深緑のパラソルの下で、吉野は大あくびをしながら確認する。
「で、着いたらロニーと飯食って、一泊してフェレンツェのロニーんに移動」
「きみ、いつからあいつと愛称で呼び合う仲になったんだよ!」
 テーブルを挟んで斜向はすむかいに座るデヴィッドは、露骨に顔をしかめている。

「あれ? お前もロニー嫌いなの?」
「お前も?」
「こいつもルベリーニ全般、嫌いなんだ」
 吉野は傍らのアレンを顎でしゃくる。
「べつに、嫌いな訳じゃ――、ちょっと苦手なだけ」
 アレンは申し訳なさそうな様子で、曖昧な笑みを浮かべている。

「いやいやいや、嫌いで当然! あのラテン系の図々しさときたら! 一度口を開いたら食べ物を突っ込んでやるまで喋り続けるし、すぐ抱きついてキスしまくるし、とにかく馴れ馴れしくてぇ!」
 まるで恨みでもあるかのように憎々しげに毒を吐くデヴィッドに、吉野は吹きしながら揶揄うような視線を向けた。
「そうか? 俺からしたらアングロサクソンだってそう変わらないよ。やたらと肩を組みたがるしさ、頭撫でるし、すぐに校歌を歌いだすしさ」
「えー! それをいうなら日本人だって! ――苦手だねぇ、スキンシップ」
 図々しいのは吉野だけで、アスカちゃんは違うなぁ、それに、日本で会った子たちはぁ、と口ごもり言い淀んだところを、吉野はクスリと片唇をあげた。
「馴れてはきたけれどさ、やっぱ面倒くさいよ」

「ヨシノ、時間」
 ローザンヌ駅舎の五輪マーク上に設置されている時計を見上げ、アレンは吉野の腕を引く。その声に各国の特徴をあて擦り合いながら声をたてて笑っていたデヴィッドは、ヘーゼルの瞳をくるくると動かし矛先を変えた。
「きみはあんまり米国人ぽくないよねぇ」
「こいつ、温室どころかテラリウム育ちだからさ」
 アレンの代わりに吉野が答え、「ガラスケースの中で暮らしていたの?」と冗談めかして笑うデヴィッドに、アレンは唇を引きつらせて無理に笑顔を作って返した。
「行こうか」
 吉野はカフェテーブルから立ちあがり、アレンの頭をくしゃと押した。そして、それぞれの荷物を手に歩きだす。



 これからのイタリア旅行は、吉野、デヴィッド、アレンが三人一緒だ。フランスでの事件のせいで、一気にアーカシャーHDの名前と会場で使われていたアレンの顔が世間に広まった。痛ましい事件にも関わらず民間死者が出なかったこともあり、アーカシャーの守護天使は、世界の守護天使と呼ばれることとなった。

 アレンのポスターは、宇宙の高みからこの世を見守り人間の行く末を憂える天使、というご大層な解釈までつけられて、ネットオークションではTS本体よりも高値がつく始末だ。なんといっても、パリ国際見本市で使用されただけで、まだロンドンでもニューヨークでも使われていない。試作品として刷られた数もわずかという希少性もある。
 そこで広報担当のデヴィッドが、この機に乗じてアレンの立体コマーシャルを作ると言いだし、イタリアにロケに行くことになった。ロケといってもいつも通りの簡単なスナップを撮るだけで、あとは加工処理を施す。取り立てて特別な場所へ行く必要はないのだが。


「仕事って言っておけばぁ、ヘンリーや、アーニーにぶつくさ言われなくて済むからさ」
 デヴィッドはペロッと舌をだし、肩をすくめる。
「べつにヘンリーに遠慮しなくたって、あいつ絶対に今頃、優雅にお茶飲んでるに決まってるぞ」
 吉野は冷めた口調で言い、さらに皮肉めいた一言をつけ加えることも忘れない。
「飛鳥は、身を粉にして働いてるっていうのにさ!」

 と、吉野の腕をアレンがぐいっと掴んだ。
 不安気に向けられた視線の先の駅構内の雑踏の中、ひときわ優雅に佇む長身の紳士に、吉野は嬉しそうに声を弾ませる。

「わざわざ見送りに来てくれたの?」

 静かな笑みをその面に張りつかせ、ルドルフ・フォン・ヴォルフが軽く頷いている。デヴィッド、吉野と順に握手を交わし、最後にアレンの前に立つと、かすかに眉をしかめた感情の読めない表情で一歩足を引き、上から下までしげしげとその姿を眺め回す。

「ひとつ尋ねてもかまわないだろうか? あなたと兄上、ヘンリー・ソールスベリーの関係は良好ですか?」
 質問の意味を測りかね、アレンもその美しい眉を寄せ、キッとルドルフを睨めつける。
「僕は兄を誰よりも尊敬し慕っていますし、兄は、――僕のことをいつも気遣って下さっています」

 ――そう、この手袋を下さったのだから。
 そう胸の内で呟いて、アレンはぎゅっと拳を握りしめる。

「では、これを宗主に届けていただけますでしょうか?」
 ポケットから取りだされた小箱に吉野は片頬を緩め、「手袋を外せ」と小声でアレンを促した。
「失礼だろ」
 訝しげにチラと視線を返したが、アレンは言われた通りに手袋を外した。ルドルフはその白い指先を軽く手に取ると、長身を深く屈めてかするような接吻を落とす。そして左手を添えて、アレンの右手の中指に指輪を通した。
「お願いします」
 膝を折り、覗きあげるようにしてアレンを見つめて呟く。アレンは一瞬、傍らの吉野に縋るような視線を向けて彼の意志を確認し、小さく頷いて応えた。
「お引き受けします」



「うわぁ、立ち会っちゃったよ――」

 ミラノ行きユーロシティの一等車両に乗りこむと、デヴィッドは頬を紅潮させ興奮気味に、だが顔を寄せて彼にしては控えめな声で呟いた。吉野は耳聡く聴きつけ嫌味たっぷりに鼻で笑い返す。

「ルベリーニは嫌いなんじゃなかったのかよ?」
「フォン・ヴォルフ家は純粋なラテン系じゃないもんねー。許容範囲だよ! それになんたってルベリーニの接吻だよ! まさに歴史が動く瞬間に立ちあえたってことじゃないかぁ! ロマンだよねぇ」
 ポカンとしているアレンの手を取り、デヴィッドは感嘆のため息を漏らしている。
「それに分家当主代表の紋章指輪まで」
 アレンはきょとんと首を傾げている。
「でも、これはルベリーニ卿に」
「ロニーに確認させて、もう一度ロニーからお前に渡されるんだ。欧州分家は、この指輪の持ち主に忠誠を誓います、って意味だよ」
「これで、大学のこと、お祖父さまを説得できる?」

 アレンは、無邪気なセレストブルーの瞳を吉野に向けた。

 同じ色でも、ヘンリーとはずいぶん違って見えるものだな……。

「おぅ、任せとけ!」
 吉野は、目を細めてアレンの頭をくしゃっと撫でてやる。

 心の中ではマルセルはともかく、あのマルセッロ・ボルージャがそう簡単に同意している訳がない、と早々と指輪を差しだしてきたルドルフの真意に疑念を抱きながら――。





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