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六章
矜持
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「市場原理には勝てないよ」
遮るものもなく、朝の光を反射して白く輝くレマン湖を眼下に眺めながら、吉野はのんびりとした口調で呟き、クロワッサンをサックリと齧る。
ホテルの部屋の窓を開け放ち、二人がけのテーブルに着くともう余裕のない猫の額ほどのバルコニーで朝食を取っているところなのだ。
遊覧船でのパーティーからすでに三日目。一昨日には、中央銀行総裁のスイスフラン上限レートの重要性についての発言がなされている。
だがそれ以上の進展のない日々に、向かいに座るアーネストは若干の焦燥を感じながら朝食に付き合っている。吉野の主張と数字上での裏付けを信頼してはいる、だが政治的な駆け引きはまた別もの、と半信半疑で成行きを見守っている。
「そうは言っても、ユーロ売りのスワップポイントの支払いも馬鹿にならないんじゃないの?」
「稼げる額に比べたら、大した金額じゃないよ」
吉野は平然として口を動かしながら答え、ロートアイアンの手摺に腕をかけると、身を乗りだして中庭の芝生を見下ろした。
「ほら、デヴィとアレンだ。チェスを始めている。こっちに気づくかな?」
見ると、芝生の一角に巨大なチェス盤が設置されている。彼らの胸の高さほどの駒の間を、アレンとデヴィッドは、行ったり来たりしながら思案している様子で、駒を引きずり動かして次の一手を打っている。
「アッシェンバッハ家の負債って、いくらあるの?」
唐突に発せられた問いに、吉野は地上のチェス盤を見据えたまま答えた。
「五十億ユーロ」
「すごいな――」
ヒュー、とアーネストは小さく口笛を鳴らす。
「総資産の三分の一近い額だよ」
「そりゃ、きみに泣きつくわけだ」
アーネストは呆れた面持ちで苦笑をも漏らした。
「やっぱり、あれかい? 例のフォレスト社の不祥事がらみ?」
吉野は首を横に振った。
「欧州金融危機のときの不良債権だよ。それを何とかしようとして、ドツボにハマったんだ。――あ~あ、だめじゃないか、あいつ。あのままじゃ、すぐチェックメイトだ」
吉野は眼下でチェスに興じる二人を、いまだ目で追っていたのだ。そしてバルコニーの吉野達に気づいた二人も、こちらに向かって大きく手を振っている。このバルコニーからも、彼らに応じて手を振り返した。
「アーニー、手鏡持ってる?」
キョトンとしたアーネストに、「いいや」と吉野は悪戯な瞳を輝かせ、バターナイフを持ちあげて、また中庭の二人を見下ろす。
腕を伸ばし、ナイフの先を小刻みに動かして光を反射させている吉野に、アーネストは唖然とした目を向けていたかと思うと、いきなり笑いだした。
「ズルだ! アレンに好手を教えただろう!」
「なんだ、もうバレた」
悪びれた様子もなく笑う吉野に対抗しようと、アーネストも真剣に眼下の二人の勝負を見遣った。
「それなら僕はデイヴの加勢をしよう!」
ところが、芝生の二人は揃って頭上で腕を交差させ、バッテンを作っているではないか。
「ははは、邪魔するなって」と、吉野は顔を傾げて目を眇めた。
ピーン! ピーン!
高い金属音が鳴り響く。
「来た! アラームだ、アーニー!」
吉野は室内に駆け戻ると、ベッド脇の壁に並べていた8つのTS画面を見、その前に置かれたソファーに陣取った。
「サラ、見ているか?」
『準備は万全!』
「アーニー、テレビをつけて!」
視野角に入ることで初めて気づいた、壁にずらりと並ぶTS画面を驚愕の面持ちで眺めていたアーネストは、慌ててテレビのスイッチを入れる。そして今度は、ニュース画面に流れている驚きの内容に釘づけにされ、そのまま動けなくなっていた。
「対ユーロ、為替介入上限撤廃――。本当にやるなんて……」
茫然とした呟きに、「だから言ったろ! フォン・ヴォルフとなら話が早いって!」と上擦った声がすぐさま返ってくる。
だがそう答えたきり、吉野は食いいるように下落していく為替チャートをじっと睨みつけたまま黙りこんだ。アーネストも傍らに立ち尽くしたまま、画面を凝視している。
「ユーロ、まだ落ちるのか――?」
スイスフランは、対ユーロで中央銀行の発表直前のレートからすでに30%も高騰しているのだ。
『ヨシノ、』
机に置かれたTSネクストから聞こえてくる場違いに澄んだ、そして落ち着いた声音に二人揃ってびくりと反応していた。吉野はソファーから跳ねあがり、机のネクストを掴んでいる。
『もうじき。0.90で決済する』
「OK」
吉野の口から、深く、長い吐息が漏れた。そのまま身体中の空気とともに力をも吐ききり、魂までもが抜けてしまったかのように、椅子の背にもたれかかっている。
「操作は?」
「もう済んでる。あとは自動的にポジションクローズして終わりだよ」
「そう――」
アーネストも脱力して、ベッドの端に腰を下ろしていた。
「戻し始めたね」
「うん。サラに頼んで、積み上がっていたユーロ買いポジションの予定ロスカット数量をコズモスで計算してもらっておいたんだ。最大値に近い辺りでユーロを買い戻せてるはずだよ」
「お疲れさま」
「どういたしまして」
吉野は朗らかに柔らかな声音で応えた。
「なぁ、アーニー、人相学って信じる?」
椅子に浅く腰かけ、すっかりだらりと脚を投げだしていた吉野が、声を弾ませて訊ねていた。
「アリストテレスの? あまり詳しくは知らないな。知識としてちょっと齧ったくらいで」
「クレッチマーは?」
「名前だけ」
首を横に振るアーネストに、吉野は楽しげに目を細めて説明を始める。
「簡単に言うとね、クレッチマーの類型論は、体型ごとに、性格の分類を関連づけしたんだ。痩せている人は分裂気質、太っている人は循環気質ってね。俺なんかは、そんな大雑把な分け方じゃ、納得いかないけどね。でも顔つきとか、雰囲気とか似てるな、って思う二人がいるとするじゃん、やっぱり性格も似てたりすることがあるんだ。面白いよね」
「フォン・ヴォルフとパトリック・ウェザー?」
「知ってるの?」
「今度オックスフォードの一年生だろ? 確か、ベンジャミンの姻戚だね」
「貴族って、みんな知り合いなんだね」
くっくっと肩を震わせて笑う吉野に、「知っているくせに」と、アーネストは呆れたように腕を広げる。
「似てるだろ? あの二人」
「血縁関係はないはずだよ」
「うん。だから人相学の登場だよ。似てるからさ、同じような行動をするかなって思ったんだよ」
「ウェザーと?」
頷く吉野にアーネストは小首を傾げる。
「冷静沈着。機械のように正確な奴だって聞いてるけれど?」
「ストイックで純情。俺、あいつのこと、エリオットで会った奴の中で一番気にいってた」
「へぇ~……」
「あいつみたいな愛し方ができれば、相手を傷つけずにすむのになって、ずっと尊敬していたんだ」
「きみが!」
揶揄おうと声をあげたアーネストだったが、吉野の憂いを帯びた瞳に、はっと言葉を呑み込んでいた。
「だから、フォン・ヴォルフはマリーネを愛してるって、会った瞬間に分かったよ。それが、俺が終始強気でいれた理由だよ」
クスクスと息を吐いて笑っているのにどこか物哀しげだった。アーネストは、初めて見るそんな表情の吉野に、なんと声をかけるべきか、と戸惑いを覚えていた。
「それにさ、あんな顔の奴には、俺みたいなのは好かれない、ってところまで同じだったよ!」
鼻の頭に皺を寄せて自虐的に言い放つ、アーネストに向けられた鳶色の瞳は、もういつもの揶揄うような楽しげな色に戻っている。
ピーン、と甲高く鳴った先ほどと同じアラーム音を合図に、吉野は全てのTS画面を閉じた。
「決済完了!」
遮るものもなく、朝の光を反射して白く輝くレマン湖を眼下に眺めながら、吉野はのんびりとした口調で呟き、クロワッサンをサックリと齧る。
ホテルの部屋の窓を開け放ち、二人がけのテーブルに着くともう余裕のない猫の額ほどのバルコニーで朝食を取っているところなのだ。
遊覧船でのパーティーからすでに三日目。一昨日には、中央銀行総裁のスイスフラン上限レートの重要性についての発言がなされている。
だがそれ以上の進展のない日々に、向かいに座るアーネストは若干の焦燥を感じながら朝食に付き合っている。吉野の主張と数字上での裏付けを信頼してはいる、だが政治的な駆け引きはまた別もの、と半信半疑で成行きを見守っている。
「そうは言っても、ユーロ売りのスワップポイントの支払いも馬鹿にならないんじゃないの?」
「稼げる額に比べたら、大した金額じゃないよ」
吉野は平然として口を動かしながら答え、ロートアイアンの手摺に腕をかけると、身を乗りだして中庭の芝生を見下ろした。
「ほら、デヴィとアレンだ。チェスを始めている。こっちに気づくかな?」
見ると、芝生の一角に巨大なチェス盤が設置されている。彼らの胸の高さほどの駒の間を、アレンとデヴィッドは、行ったり来たりしながら思案している様子で、駒を引きずり動かして次の一手を打っている。
「アッシェンバッハ家の負債って、いくらあるの?」
唐突に発せられた問いに、吉野は地上のチェス盤を見据えたまま答えた。
「五十億ユーロ」
「すごいな――」
ヒュー、とアーネストは小さく口笛を鳴らす。
「総資産の三分の一近い額だよ」
「そりゃ、きみに泣きつくわけだ」
アーネストは呆れた面持ちで苦笑をも漏らした。
「やっぱり、あれかい? 例のフォレスト社の不祥事がらみ?」
吉野は首を横に振った。
「欧州金融危機のときの不良債権だよ。それを何とかしようとして、ドツボにハマったんだ。――あ~あ、だめじゃないか、あいつ。あのままじゃ、すぐチェックメイトだ」
吉野は眼下でチェスに興じる二人を、いまだ目で追っていたのだ。そしてバルコニーの吉野達に気づいた二人も、こちらに向かって大きく手を振っている。このバルコニーからも、彼らに応じて手を振り返した。
「アーニー、手鏡持ってる?」
キョトンとしたアーネストに、「いいや」と吉野は悪戯な瞳を輝かせ、バターナイフを持ちあげて、また中庭の二人を見下ろす。
腕を伸ばし、ナイフの先を小刻みに動かして光を反射させている吉野に、アーネストは唖然とした目を向けていたかと思うと、いきなり笑いだした。
「ズルだ! アレンに好手を教えただろう!」
「なんだ、もうバレた」
悪びれた様子もなく笑う吉野に対抗しようと、アーネストも真剣に眼下の二人の勝負を見遣った。
「それなら僕はデイヴの加勢をしよう!」
ところが、芝生の二人は揃って頭上で腕を交差させ、バッテンを作っているではないか。
「ははは、邪魔するなって」と、吉野は顔を傾げて目を眇めた。
ピーン! ピーン!
高い金属音が鳴り響く。
「来た! アラームだ、アーニー!」
吉野は室内に駆け戻ると、ベッド脇の壁に並べていた8つのTS画面を見、その前に置かれたソファーに陣取った。
「サラ、見ているか?」
『準備は万全!』
「アーニー、テレビをつけて!」
視野角に入ることで初めて気づいた、壁にずらりと並ぶTS画面を驚愕の面持ちで眺めていたアーネストは、慌ててテレビのスイッチを入れる。そして今度は、ニュース画面に流れている驚きの内容に釘づけにされ、そのまま動けなくなっていた。
「対ユーロ、為替介入上限撤廃――。本当にやるなんて……」
茫然とした呟きに、「だから言ったろ! フォン・ヴォルフとなら話が早いって!」と上擦った声がすぐさま返ってくる。
だがそう答えたきり、吉野は食いいるように下落していく為替チャートをじっと睨みつけたまま黙りこんだ。アーネストも傍らに立ち尽くしたまま、画面を凝視している。
「ユーロ、まだ落ちるのか――?」
スイスフランは、対ユーロで中央銀行の発表直前のレートからすでに30%も高騰しているのだ。
『ヨシノ、』
机に置かれたTSネクストから聞こえてくる場違いに澄んだ、そして落ち着いた声音に二人揃ってびくりと反応していた。吉野はソファーから跳ねあがり、机のネクストを掴んでいる。
『もうじき。0.90で決済する』
「OK」
吉野の口から、深く、長い吐息が漏れた。そのまま身体中の空気とともに力をも吐ききり、魂までもが抜けてしまったかのように、椅子の背にもたれかかっている。
「操作は?」
「もう済んでる。あとは自動的にポジションクローズして終わりだよ」
「そう――」
アーネストも脱力して、ベッドの端に腰を下ろしていた。
「戻し始めたね」
「うん。サラに頼んで、積み上がっていたユーロ買いポジションの予定ロスカット数量をコズモスで計算してもらっておいたんだ。最大値に近い辺りでユーロを買い戻せてるはずだよ」
「お疲れさま」
「どういたしまして」
吉野は朗らかに柔らかな声音で応えた。
「なぁ、アーニー、人相学って信じる?」
椅子に浅く腰かけ、すっかりだらりと脚を投げだしていた吉野が、声を弾ませて訊ねていた。
「アリストテレスの? あまり詳しくは知らないな。知識としてちょっと齧ったくらいで」
「クレッチマーは?」
「名前だけ」
首を横に振るアーネストに、吉野は楽しげに目を細めて説明を始める。
「簡単に言うとね、クレッチマーの類型論は、体型ごとに、性格の分類を関連づけしたんだ。痩せている人は分裂気質、太っている人は循環気質ってね。俺なんかは、そんな大雑把な分け方じゃ、納得いかないけどね。でも顔つきとか、雰囲気とか似てるな、って思う二人がいるとするじゃん、やっぱり性格も似てたりすることがあるんだ。面白いよね」
「フォン・ヴォルフとパトリック・ウェザー?」
「知ってるの?」
「今度オックスフォードの一年生だろ? 確か、ベンジャミンの姻戚だね」
「貴族って、みんな知り合いなんだね」
くっくっと肩を震わせて笑う吉野に、「知っているくせに」と、アーネストは呆れたように腕を広げる。
「似てるだろ? あの二人」
「血縁関係はないはずだよ」
「うん。だから人相学の登場だよ。似てるからさ、同じような行動をするかなって思ったんだよ」
「ウェザーと?」
頷く吉野にアーネストは小首を傾げる。
「冷静沈着。機械のように正確な奴だって聞いてるけれど?」
「ストイックで純情。俺、あいつのこと、エリオットで会った奴の中で一番気にいってた」
「へぇ~……」
「あいつみたいな愛し方ができれば、相手を傷つけずにすむのになって、ずっと尊敬していたんだ」
「きみが!」
揶揄おうと声をあげたアーネストだったが、吉野の憂いを帯びた瞳に、はっと言葉を呑み込んでいた。
「だから、フォン・ヴォルフはマリーネを愛してるって、会った瞬間に分かったよ。それが、俺が終始強気でいれた理由だよ」
クスクスと息を吐いて笑っているのにどこか物哀しげだった。アーネストは、初めて見るそんな表情の吉野に、なんと声をかけるべきか、と戸惑いを覚えていた。
「それにさ、あんな顔の奴には、俺みたいなのは好かれない、ってところまで同じだったよ!」
鼻の頭に皺を寄せて自虐的に言い放つ、アーネストに向けられた鳶色の瞳は、もういつもの揶揄うような楽しげな色に戻っている。
ピーン、と甲高く鳴った先ほどと同じアラーム音を合図に、吉野は全てのTS画面を閉じた。
「決済完了!」
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