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六章
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「アレン!」
待ちわびた声に、嬉しそうに振り向くと同時にそそくさと立ちあがり、アレンはその声の主、吉野の許へと小走りに駆け寄った。
「まるで主人を見つけた犬だな」
ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべるマルセッロに、吉野は平然としたさまで言葉を返した。
「あんたこそ、飼い主のもとを勝手気ままに離れすぎなんじゃないのか? あいつはまだまだ起きあがれもしないんだろ?」
「誰が飼い主だ!」
声を荒げて立ちあがった彼を、吉野は鼻であしらったうえで挑発する。
『こいつは俺のものだ。気安く近づくな』
マルセッロにしか通じないであろうカタルーニャ語だ。ぐいっとアレンは肩を抱き寄せられ、驚いたように吉野を見あげる。だがその傍らで、アーネストはかすかに眉を潜めている。
『いつまでそんな寝言を言っていられるかな? 野良犬風情が!』
言い返してきたマルセッロに吉野は頬を歪めて嗤い返し、アレンの背中を押して船内ホールに戻っていった。
「彼に、なんて言ったの?」
小首を傾げているアレンに、「ん? 兄貴が寝込んでいるのに遊びまわってるんじゃないぞって」と吉野はとくに考えもせずに応えていた。
「寝込んでいるって、なんで知っているの?」
「あ、アーニー、ちょっと個室が借りられないか聞いてもらえるか? 俺、少し休みたい」
話をはぐらかし、すいっと離れた吉野の背中を、アレンはバシッと叩いた。アーネストはボーイを呼び止め、案内されるまま、三人は三階にあるバーへ向かった。
「まったくもって、きみには、教育的指導を入れなきゃいけないね」
バーカウンターに注文に出向いた吉野は、アーネストに冷たい視線を向けられ、ひょいっと肩をすくめている。個室にアレンを残して席を立ったところで、追いかけてきたアーネストが厳しい口調で睨めつけているのだ。
「あの子を餌に使うんじゃないよ」
「へぇー、なんて言ったのか判ったんだ!」
驚いている吉野の頭を拳で軽くゴンと叩き、アーネストはため息を漏らす。
「やっぱりね――。言葉は判らなくても、きみの遣りそうなことは見当がつくからね」
「カマかけたの? ふーん――。フェイラーを庇うんだ? あんなに嫌ってたのに」
興味深そうにじっと見つめ返してきたその鳶色の瞳から、アーネストは思わず視線を逸らしていた。
怪我をしてからというもの、それまで以上に表情豊かになったと思わずにはいられない。吉野はその瞳で語りかけてくるのだ。心の奥底まで見透かされ、過去の過ちや、己の未熟さまで責めたてられている気分になる。
「ヘンリーが変わった」
アーネストは、若干の諦めを含んだ笑みを見せて呟いた。
「それにあの子、無防備過ぎて見ていられないだろ?」
「ボルージャは、フェイラーとソールスベリーを天秤にかけてるっていうのに?」
「同じだよ」
その問いかけに、アーネストは深く息を吐く。
「あの子次第だ」
「やっぱりアーニーは賢いね」
安堵するかのような吉野の瞳に、彼の保護者を兼ねるアーネストは苦笑いでもって応えた。
「でもきみ、あの子の気持ちは知っているんだろ? もっと大切にして遣りなよ」
「周りがそうやって煽るからさ、あいつも変に勘違いするんだよ」
困ったような吐息を小さく漏らして、吉野は視線を伏せて言った。だが再び視線をあげると、真面目な色彩を湛えたその瞳を真っ向から据えて言葉を継いだ。
「なんでみんな、そうやって面白がるのかな? あいつが俺を好きなのは、俺が絶対にあいつのことをそんな目で見ないからだよ。あいつが欲しいのは、家族みたいに愛してくれる奴なんだ。父親に、リチャード・ソールスベリーに頭を撫でて欲しいだけだ。可愛がってもらいたいんだよ。だから俺、ヘンリーがあいつの頭を撫でてやらないなら、俺が替わりにしてやるって決めたんだよ」
「それがきみの正直な気持ちなの?」
「そうだよ」
吉野はアーネストから目を逸らさない。
「彼がなにを望んでいるかじゃなくて、きみの気持ちなの?」
念を押すアーネストに、肩をあげ、首をすくめて頷く。
「男だから恋愛対象にならない、とかじゃないよ。家族のように大切に思ってるんだ」
「あんなふうに利用するのに?」
「ちゃんと守るよ。約束する。ほら、あんまり待たすとさ、また変な奴が寄ってくるよ」
すっと向けられた視線の先では、待ちくたびれたアレンが、ドアから顔を覗かせて、わずかな間接照明に照らされる薄暗いホール内をきょろきょろと見廻していた。
――塩のように愛している。
釘を刺すように、かつてヘンリーが何度も口にしていたこの言葉を、この子は、知っているのだろうか?
そんな記憶がアーネストの脳裏を過っていた。
「ほら、綺麗だろ」
塩で縁どられたグラスに飾られたカットオレンジが、緑から青、そして透明に変わるグラデーションのなかで三日月形の船のように揺蕩う。その周りを小さな気泡がプチプチと弾けてはのぼる。
ローテーブルに置かれた幻想的な色彩のカクテルグラスの湖に、アレンは嬉しそうに頬笑んでいる。
「きみは?」
「俺? 要らない。少し寝たいんだ」
言いながら吉野はもうジャケットを脱ぎ、ブラックタイを外しにかかっている。
「明日の朝からしばらく、目まぐるしくやることがあるんだ。寝れなくなるからさ」
「ん。おやすみ」
素直に頷いたアレンに驚きを覚えながらも、アーネストは口を挟まなかった。吉野は長ソファーを占領して寝転がると、じきに寝息をたてていた。
眠っている時はまだまだ幼さの残る吉野の顔を眺めていると、アーネストは漠然とした不安に苛まれて仕方がなかった。
家族のように――。
それならばなぜ、たとえ嘘でもあんな惨いことが言えるのか、と。『俺のもの』だなんて、結局はアレンのことも手駒の一つとしか考えていないのではないか。こんなところまでヘンリーを見習わなくてもいいのに――、と。
アーネストは、吉野からその傍らのアレンへ視線を移した。
誰よりも美しく人目を惹く容姿を授かって生まれているのに、こうも薄幸で情愛に縁遠い不憫な子を、同情とも憐れみともつかない想いでじっと見遣る。
「ヨシノ、ここにいる間にお父さんと仲直りできるといいですね」
優し気に、そして少し心配そうに吉野を見つめていたアレンは、面をアーネストに向けると、同意を求めるように首を傾けて、にっこりと笑った。
待ちわびた声に、嬉しそうに振り向くと同時にそそくさと立ちあがり、アレンはその声の主、吉野の許へと小走りに駆け寄った。
「まるで主人を見つけた犬だな」
ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべるマルセッロに、吉野は平然としたさまで言葉を返した。
「あんたこそ、飼い主のもとを勝手気ままに離れすぎなんじゃないのか? あいつはまだまだ起きあがれもしないんだろ?」
「誰が飼い主だ!」
声を荒げて立ちあがった彼を、吉野は鼻であしらったうえで挑発する。
『こいつは俺のものだ。気安く近づくな』
マルセッロにしか通じないであろうカタルーニャ語だ。ぐいっとアレンは肩を抱き寄せられ、驚いたように吉野を見あげる。だがその傍らで、アーネストはかすかに眉を潜めている。
『いつまでそんな寝言を言っていられるかな? 野良犬風情が!』
言い返してきたマルセッロに吉野は頬を歪めて嗤い返し、アレンの背中を押して船内ホールに戻っていった。
「彼に、なんて言ったの?」
小首を傾げているアレンに、「ん? 兄貴が寝込んでいるのに遊びまわってるんじゃないぞって」と吉野はとくに考えもせずに応えていた。
「寝込んでいるって、なんで知っているの?」
「あ、アーニー、ちょっと個室が借りられないか聞いてもらえるか? 俺、少し休みたい」
話をはぐらかし、すいっと離れた吉野の背中を、アレンはバシッと叩いた。アーネストはボーイを呼び止め、案内されるまま、三人は三階にあるバーへ向かった。
「まったくもって、きみには、教育的指導を入れなきゃいけないね」
バーカウンターに注文に出向いた吉野は、アーネストに冷たい視線を向けられ、ひょいっと肩をすくめている。個室にアレンを残して席を立ったところで、追いかけてきたアーネストが厳しい口調で睨めつけているのだ。
「あの子を餌に使うんじゃないよ」
「へぇー、なんて言ったのか判ったんだ!」
驚いている吉野の頭を拳で軽くゴンと叩き、アーネストはため息を漏らす。
「やっぱりね――。言葉は判らなくても、きみの遣りそうなことは見当がつくからね」
「カマかけたの? ふーん――。フェイラーを庇うんだ? あんなに嫌ってたのに」
興味深そうにじっと見つめ返してきたその鳶色の瞳から、アーネストは思わず視線を逸らしていた。
怪我をしてからというもの、それまで以上に表情豊かになったと思わずにはいられない。吉野はその瞳で語りかけてくるのだ。心の奥底まで見透かされ、過去の過ちや、己の未熟さまで責めたてられている気分になる。
「ヘンリーが変わった」
アーネストは、若干の諦めを含んだ笑みを見せて呟いた。
「それにあの子、無防備過ぎて見ていられないだろ?」
「ボルージャは、フェイラーとソールスベリーを天秤にかけてるっていうのに?」
「同じだよ」
その問いかけに、アーネストは深く息を吐く。
「あの子次第だ」
「やっぱりアーニーは賢いね」
安堵するかのような吉野の瞳に、彼の保護者を兼ねるアーネストは苦笑いでもって応えた。
「でもきみ、あの子の気持ちは知っているんだろ? もっと大切にして遣りなよ」
「周りがそうやって煽るからさ、あいつも変に勘違いするんだよ」
困ったような吐息を小さく漏らして、吉野は視線を伏せて言った。だが再び視線をあげると、真面目な色彩を湛えたその瞳を真っ向から据えて言葉を継いだ。
「なんでみんな、そうやって面白がるのかな? あいつが俺を好きなのは、俺が絶対にあいつのことをそんな目で見ないからだよ。あいつが欲しいのは、家族みたいに愛してくれる奴なんだ。父親に、リチャード・ソールスベリーに頭を撫でて欲しいだけだ。可愛がってもらいたいんだよ。だから俺、ヘンリーがあいつの頭を撫でてやらないなら、俺が替わりにしてやるって決めたんだよ」
「それがきみの正直な気持ちなの?」
「そうだよ」
吉野はアーネストから目を逸らさない。
「彼がなにを望んでいるかじゃなくて、きみの気持ちなの?」
念を押すアーネストに、肩をあげ、首をすくめて頷く。
「男だから恋愛対象にならない、とかじゃないよ。家族のように大切に思ってるんだ」
「あんなふうに利用するのに?」
「ちゃんと守るよ。約束する。ほら、あんまり待たすとさ、また変な奴が寄ってくるよ」
すっと向けられた視線の先では、待ちくたびれたアレンが、ドアから顔を覗かせて、わずかな間接照明に照らされる薄暗いホール内をきょろきょろと見廻していた。
――塩のように愛している。
釘を刺すように、かつてヘンリーが何度も口にしていたこの言葉を、この子は、知っているのだろうか?
そんな記憶がアーネストの脳裏を過っていた。
「ほら、綺麗だろ」
塩で縁どられたグラスに飾られたカットオレンジが、緑から青、そして透明に変わるグラデーションのなかで三日月形の船のように揺蕩う。その周りを小さな気泡がプチプチと弾けてはのぼる。
ローテーブルに置かれた幻想的な色彩のカクテルグラスの湖に、アレンは嬉しそうに頬笑んでいる。
「きみは?」
「俺? 要らない。少し寝たいんだ」
言いながら吉野はもうジャケットを脱ぎ、ブラックタイを外しにかかっている。
「明日の朝からしばらく、目まぐるしくやることがあるんだ。寝れなくなるからさ」
「ん。おやすみ」
素直に頷いたアレンに驚きを覚えながらも、アーネストは口を挟まなかった。吉野は長ソファーを占領して寝転がると、じきに寝息をたてていた。
眠っている時はまだまだ幼さの残る吉野の顔を眺めていると、アーネストは漠然とした不安に苛まれて仕方がなかった。
家族のように――。
それならばなぜ、たとえ嘘でもあんな惨いことが言えるのか、と。『俺のもの』だなんて、結局はアレンのことも手駒の一つとしか考えていないのではないか。こんなところまでヘンリーを見習わなくてもいいのに――、と。
アーネストは、吉野からその傍らのアレンへ視線を移した。
誰よりも美しく人目を惹く容姿を授かって生まれているのに、こうも薄幸で情愛に縁遠い不憫な子を、同情とも憐れみともつかない想いでじっと見遣る。
「ヨシノ、ここにいる間にお父さんと仲直りできるといいですね」
優し気に、そして少し心配そうに吉野を見つめていたアレンは、面をアーネストに向けると、同意を求めるように首を傾けて、にっこりと笑った。
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