胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
369 / 739
六章

しおりを挟む
「宗主――」
 ふと目を開けて、初めて気づいた人の気配に、マルセルは熱でぼんやりとする頭を慌てて持ちあげようと力を入れた。その肩をすっと押さえて、ロレンツォは大きく首を振る。

「かまわない」
 ロレンツォは枕に落ちた湿ったタオルをもちあげると、クリーム色の壁際に置かれたサイドボードの上の、氷入りの水を張ったボールに浸してぎゅっと絞り、マルセルの額にのせた。濃い青のベッドカバーが映るのか、その顔色は発熱にもかかわらず蒼く染まって頼りなく、儚げに見える。

「彼は、まだここに?」
「二、三日はいるそうだ」
「彼に会った? 彼は、なんて言っていた?」

 潤んだ瞳を瞬かせて、じっと見つめてくるマルセルに、ロレンツォはクックと喉を鳴らして笑みを返した。

「あの小僧なぁ――」
 不安げに表情を曇らせたその額のタオルを再度ボールに放り入れ、寝乱れた柔らかな黒髪をわしわしと撫でてやる。
「お前、あいつのどこが気にいったんだ? 俺だって英国人の二枚舌には毎回泣かされてきたのに、あの小僧、二枚どころか、何枚の舌を使い分けているのか判らないぞ。なぜ、あいつなんだ?」
「たぶん、宗主がソールスベリーを選んだのと同じ理由」
 マルセルは、どこか力のない、ぼんやりとした黒曜石の瞳でロレンツォを見つめてにっこりと微笑んだ。


 理由などない、直観だ。この直観で、ルベリーニは一族の繁栄を保ってきたのだ。仮に、その直観が間違っていたときには……。

 ロレンツォは身体を返して氷水の中に手を浸し、その中のタオルを握りしめる。心地よい冷たさが、直に過度の肌を刺す刺激に変わっていく。ザッと乱暴に手を引き上げ、タオルを絞る。そして、なにかを思い返しているかのように、どこか懐かし気に目を細めた。

「日本人は、愚直なまでに正直で、誠実なのだと思っていた」
「愚かだという意味?」
 マルセルの問いかけに、彼はふっと笑って首を横に振る。
「いい意味で。こいつは、絶対に裏切らないだろうな、てな」
「ヨシノは裏切らないよ」
「なぜ言い切れる? 昨日だって、知らない、と言った舌の根も乾かないうちに喋っていたぞ」
「対価を支払ったんだろ? 彼は自分の持つ情報の価値を知っている。無料ただでは喋らないよ」
「そういうところ、アスカとはまるで違う! あいつはどこで覚えてきたんだ、そんな駆け引きの仕方を!」

 クスクスと笑うマルセルとは逆に、ロレンツォは大袈裟にため息をつく。

「英国で。そう答えたんだろ、宗主?」

 マルセルは、どこか深い闇を思わせる瞳を一瞬光らせ、疲れたように瞼を閉じて軽く息を継いだ。

「彼のお兄さん、どんな人なの?」
「アスカ? そうだな、まず優しい。情が深くて家族思いだ。それに馬鹿みたいに真面目で、働き者」
「彼に、似ている?」
「まったく違う!」

 とんでもない! と大仰に首を振るロレンツォを見あげて、マルセルは弱弱しく笑った。

「彼と、仲はいいの?」 
「仲がいいなんてもんじゃないぞ! アスカは弟のためなら、なんだってするぞ!」
「僕たちとは、大違いだね」

 マルセルは皮肉気に唇を歪める。

「僕のせいで」
 再び目を瞑り、深いため息をついたマルセルの髪を、ロレンツォはそっと撫でてやった。
「お前のせいじゃない」
「あいつがあそこまで大馬鹿者じゃなかったら、神も僕にこんな悪戯をなさらなかっただろうに!」
「やめろ。その口で神を呪う言葉を吐くな」
「僕がなにを言おうと運命は変わらない。神は僕の言葉でその意思を変えたりしない――」

 寝返って、枕に顔を埋めるマルセルの肩をロレンツォはぐっと掴んで、その肩甲骨に額を当てた。

「どうすればいい? お前は、なにを望む?」

 白い枕カバーを掴むマルセルの両手首が、枕を真っ赤に染めあげていく。鼻孔に届いた血の臭いに、ロレンツォは眉を寄せ息を詰めた。

「ヨシノを」
「無理だ」
「僕が望んでも?」

 背に力が入り、枕に沈めた顔が持ちあがる。ロレンツォは身体を起こし、仰向けになり高く掲げられたマルセルの両腕に流れる鮮血を指先で拭いあげ、そのか細い手首を包みこむように握ると、そこに刻まれた十字の傷にキスを落とした。

「ヘンリーが許さない」
「なぜ?」
「アスカの弟だから」
「分からない!」

 右腕の血を唇で拭い、それ以上の出血が止まっているのを確かめると、ロレンツォはほっとしたように吐息を漏らし、「それなら、ヨシノ本人に訊いてみろ」と、慈悲深い哀しみに満ちた視線をマルセルの燃えるような瞳に返した。自分を睨めつけるその瞳をじっと見つめたまま、逆の腕を取り、綺麗な紅い血を流す傷口に唇に強く押しあてる。

「神の血は、花のように香しく甘い」
「神のじゃない、僕の血だ」

 ぎゅっと眉間に皺を寄せ、目を瞑って呟いたマルセルの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。

「泣くな。これは神の悪戯でも、呪いでもない。祝福だ」

 囁くようなロレンツォの声に、奥歯を噛みしめ小さく首を振り続けるマルセルの瞼からは、いくつも、いくつもの涙が溢れでては零れ落ちていた。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ポンコツ女子は異世界で甘やかされる(R18ルート)

三ツ矢美咲
ファンタジー
投稿済み同タイトル小説の、ifルート・アナザーエンド・R18エピソード集。 各話タイトルの章を本編で読むと、より楽しめるかも。 第?章は前知識不要。 基本的にエロエロ。 本編がちょいちょい小難しい分、こっちはアホな話も書く予定。 一旦中断!詳細は近況を!

森の中へ

ニシザワ
ファンタジー
獣人という題名でコミケに出展したものです。 獣人と人間の話。

(完結)元お義姉様に麗しの王太子殿下を取られたけれど・・・・・・エメリーン編

青空一夏
恋愛
「元お義姉様に麗しの王太子殿下を取られたけれど・・・・・・」の続編。エメリーンの物語です。 以前の☆小説で活躍したガマちゃんズ(☆「お姉様を選んだ婚約者に乾杯」に出演)が出てきます。おとぎ話風かもしれません。 ※ガマちゃんズのご説明 ガマガエル王様は、その昔ロセ伯爵家当主から命を助けてもらったことがあります。それを大変感謝したガマガエル王様は、一族にロセ伯爵家を守ることを命じます。それ以来、ガマガエルは何代にもわたりロセ伯爵家を守ってきました。 このお話しの時点では、前の☆小説のヒロイン、アドリアーナの次男エアルヴァンがロセ伯爵になり、失恋による傷心を癒やす為に、バディド王国の別荘にやって来たという設定になります。長男クロディウスは母方のロセ侯爵を継ぎ、長女クラウディアはムーンフェア国の王太子妃になっていますが、この物語では出てきません(多分) 前の作品を知っていらっしゃる方は是非、読んでいない方もこの機会に是非、お読み頂けると嬉しいです。 国の名前は新たに設定し直します。ロセ伯爵家の国をムーンフェア王国。リトラー侯爵家の国をバディド王国とします。 ムーンフェア国のエアルヴァン・ロセ伯爵がエメリーンの恋のお相手になります。 ※現代的言葉遣いです。時代考証ありません。異世界ヨーロッパ風です。

あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫
恋愛
婚約者と姉が自分に隠れて逢瀬を繰り返していると気付いたイルーゼ。 婚約者を諫めるも聞く耳を持たず、父に訴えても聞き流されるばかり。 このままでは不実な婚約者と結婚させられ、最悪姉に操を捧げると言い出しかねない。 婚約者を見限った彼女は、二人の逢瀬を両親に突きつける。 貴族なら愛や恋よりも義務を優先すべきと考える主人公が、自分の場所を求めて奮闘する話です。 R15は保険、タグは追加する可能性があります。 ふんわり設定のご都合主義の話なので、広いお心でお読みください。 24.3.1 女性向けHOTランキングで1位になりました。ありがとうございます。

【完結】「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」

まほりろ
恋愛
【完結】 「アリシア・フィルタ貴様との婚約を破棄する!」 イエーガー公爵家の令息レイモンド様が言い放った。レイモンド様の腕には男爵家の令嬢ミランダ様がいた。ミランダ様はピンクのふわふわした髪に赤い大きな瞳、小柄な体躯で庇護欲をそそる美少女。 対する私は銀色の髪に紫の瞳、表情が表に出にくく能面姫と呼ばれています。 レイモンド様がミランダ様に惹かれても仕方ありませんね……ですが。 「貴様は俺が心優しく美しいミランダに好意を抱いたことに嫉妬し、ミランダの教科書を破いたり、階段から突き落とすなどの狼藉を……」 「あの、ちょっとよろしいですか?」 「なんだ!」 レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。 「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」 私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。 全31話、約43,000文字、完結済み。 他サイトにもアップしています。 小説家になろう、日間ランキング異世界恋愛2位!総合2位! pixivウィークリーランキング2位に入った作品です。 アルファポリス、恋愛2位、総合2位、HOTランキング2位に入った作品です。 2021/10/23アルファポリス完結ランキング4位に入ってました。ありがとうございます。 「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」 第15回恋愛小説大賞にエントリーしてます。

壁の花令嬢の最高の結婚

晴 菜葉
恋愛
 壁の花とは、舞踏会で誰にも声を掛けてもらえず壁に立っている適齢期の女性を示す。  社交デビューして五年、一向に声を掛けられないヴィンセント伯爵の実妹であるアメリアは、兄ハリー・レノワーズの悪友であるブランシェット子爵エデュアルト・パウエルの心ない言葉に傷ついていた。  ある日、アメリアに縁談話がくる。相手は三十歳上の財産家で、妻に暴力を働いてこれまでに三回離縁を繰り返していると噂の男だった。  アメリアは自棄になって家出を決行する。  行く当てもなく彷徨いていると、たまたま賭博場に行く途中のエデュアルトに出会した。  そんなとき、彼が暴漢に襲われてしまう。  助けたアメリアは、背中に消えない傷を負ってしまった。  乙女に一生の傷を背負わせてしまったエデュアルトは、心底反省しているようだ。 「俺が出来ることなら何だってする」  そこでアメリアは考える。  暴力を振るう亭主より、女にだらしない放蕩者の方がずっとマシ。 「では、私と契約結婚してください」 R18には※をしています。    

【R18】清掃員加藤望、社長の弱みを握りに来ました!

Bu-cha
恋愛
ずっと好きだった初恋の相手、社長の弱みを握る為に頑張ります!!にゃんっ♥ 財閥の分家の家に代々遣える“秘書”という立場の“家”に生まれた加藤望。 ”秘書“としての適正がない”ダメ秘書“の望が12月25日の朝、愛している人から連れてこられた場所は初恋の男の人の家だった。 財閥の本家の長男からの指示、”星野青(じょう)の弱みを握ってくる“という仕事。 財閥が青さんの会社を吸収する為に私を任命した・・・!! 青さんの弱みを握る為、“ダメ秘書”は今日から頑張ります!! 関連物語 『お嬢様は“いけないコト”がしたい』 『“純”の純愛ではない“愛”の鍵』連載中 『雪の上に犬と猿。たまに男と女。』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高11位 『好き好き大好きの嘘』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高36位 『約束したでしょ?忘れちゃった?』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高30位 ※表紙イラスト Bu-cha作

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。

処理中です...