胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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「おい、どけ! 邪魔だ!」
 映写調整室に比べれば音響室は格段の広さがある。それにもかかわらずドア近くに立っていたバドリ・シンにわざとらしく肩をぶつけて入ってきた講演会場音響室付属スタッフは、窓際に沿って設置された音響卓前に悠々と陣取った。
 バドリと並び立っていたコズモス社ニューヨークスタッフ二名が、悔しそうに奥歯を噛みしめてその背中を睨めつけている。

 講演十分前。ドアが激しくノックされる。慌ててドアを開けた付属スタッフは、声高に早口のフランス語で来訪者と言い争うことになった。だがしばらくするとドアは叩きつけられ、付属スタッフは姿を消した。

 バドリは堂々と音響卓前に座り、眼前にだしたTS画面に白い歯を見せ、笑いかける。
「ヨシノ、音響室、スタンバイOKだ」
『OK、よろしく頼むよ、バドリ』

 一、二階あわせて三千人収容の客席がほぼ埋め尽くされている。天井の照明がゆっくりと落とされ、開演ブザーが鳴り響く。
 午後、一時。壇上にスーツ姿の進行役が現れた。いよいよ講演会が始まる。




 この会場は、広大な敷地に八つのパビリオンが並び立っている。その半数の四つの施設は屋根付きの自動通路で連結されているため、今日のように激しい雨の中、屋外を選んで歩き移動する来場者の姿は稀だった。

 だがそんな激しい雨をものともせず屋外の広場からやってきた十数人のグループが、示し合わせたように二、三人ずつの組になって別れて、各パビリオン入り口に向かっていた。
 メイン会場の七号館前で、激しく煙る雨脚に俯くように足下を見ながら歩いていたひとりが、ぎょっとしたように立ち止まった。
 外に向かって開かれている出入り口一帯を取り巻くように、警官が立ち並んでいたからだ。男たちはしらりと互いの顔を見合わせて唇を引き結ぶと、すぐに何食わぬ顔でまた歩き始める。

「止まれ!」

 その声が合図ででもあるかのように、彼らの内の一人が建物に向かって走りだした。

「逃げろ! 避難だ! 避難だ!」

 雨音に紛れてかき消されそうな声が連呼する。警報ベルが鳴り響く中、耳をつんざく爆音と激しい炎、そして、どす黒い煙が立ち昇る。

 前後して、一号館、六号館でも爆音と同時に濛々とした煙が広がっていた。



『ヨシノ、』
「なんだ、ヘンリーまだいたの? どこ? 音響室?」
 視界の端に置いたTS画面にチラリと目をやり、吉野はまたステージ上で喋っているルノー上院議員の長ったらしい挨拶に視線を戻す。

「今年で、第十六回目を迎えることとなりました、このパリ国際通信機器見本市を、」

 ただの開会挨拶とはいえ、芝居がかった抑揚の激しい口調と大きな身振り手振り、要所要所にフランス人らしいエスプリを効かした議員のみごとな話しぶりに、時おり客席からは笑い声があがっている。


「王様がいつまでも最前線にいるなよ」
 吉野はステージに目線を据えたまま皮肉げに、だが緊張を含んだ若干とげとげしい声音で呟く。
『冗談じゃない。僕は責任者だよ。それにアスカの作品を見ずして、ここを出る訳にはいかないよ』
「出番はないかもしれないぞ」
『それならそれで、』

「バドリ! スタンバイ!」

 突然、ヨシノは大声で叫んだ。


 中央後方扉から、三人の男たちが奇声を発しながらステージに向かって突進している。走りながら、手にした自動小銃をルノー議員めがけて乱射する。

 ダ、ダ、ダ、
  ダ、ダ、ダッ――。

 銃声の響く中、瞬く間に観客席は恐怖のるつぼと化していた。我を忘れた絶叫、狂ったような悲鳴が重なり合い反響する。
 観客席上の照明が完全に消えた。
 ガッシャーン! 銃弾にガラスが砕け散る音がつんざく。
 闇に紛れて多くの人々は床にしゃがみこみ、流れ弾を避けるように這いつくばって座席のシートに隠れて身を縮こまらせている。二階座席の観客は扉に殺到し、鍵がかけられているのか、開かない扉を叩きながら助けを呼び続けている。



「ヨシノ! ヨシノ!」

 TSから聞こえたガラスの割れる音、何かが叩きつけられる音に、ヘンリーは必死に彼の名を呼んだ。つい今しがたまでその顔を映していたTS画面は、何もない薄闇を映すのみ。ドアに駆け寄ったヘンリーをコズモススタッフとウィリアムが必死に止める。

「危険です! ボス、ここから出ないで下さい!」
「放せ! そこをどけ!」

『ヘンリー』

「無事なのか?」

『何でもないよ。ヘンリー、いいからそこで見てろよ』

 TSから聞こえてきた吉野の声にヘンリーもスタッフも安堵し、ステージと客席を臨む窓際に駆け寄った。



「昨今の通信技術の発展には目を見張るものがあり、」

 狂ったように、繰り返し、繰り返し撃ちこまれる銃弾に向かって、ルノー議員は冗談を言い、両腕を広げて笑顔で喋り続けている。目の前で繰り広げられていることには、まるで関心がないかのように――。


 その彼を照らしていたステージ上のライトも消えた。完全な闇に包まれた時、大地を揺るがす轟音が響き渡り、目も眩む真っ白な閃光が走る。

 突然の光に驚いて、人々は頭を庇い顔を覆っている指のすきまから天井を仰ぎ見る。少しずつ面を上げた視線の先に、輝く白馬。次いで、燃える赤馬、闇の黒馬、青ざめた馬の、空間を揺るがすいななきと、くうを踏み散らす蹄があった。

 人々は、呆気に取られて天を仰いだ。

 地の底から沸きあがるうめき声に揺すられるように、天井が、壁が、グラグラと揺れる。と、空気を切り裂く高い金属音が鳴り響く。

 またしても、そこかしこで悲鳴があがり、人々の顔が恐怖に歪んでいく。

 そんな彼らを囲む壁の下方から、ちろちろと赤い炎が燃えあがる。
 打ち寄せる血のように赤い海が、一度大きく引いたかと思うと盛りあがり、怒涛となって叩き落ちてくる。
 天から、小さな炎となった流星が、いくつも、いくつも絶えることなく振り注ぐ。チラチラとしたその輝きに目を眇め、誰もが次々と手で顔を覆った。

 固く結んだ瞼に、顔を覆う両手の向こうに強烈な赤が透ける中、懺悔と、神を、救いを求める呟きを、人々の唇は刻んでいた。

 再び聞こえた馬のいななきに恐る恐る指をずらし、天を仰いだ。

 くうを駆ける白馬が蒼穹を割り、透明な青が水晶のごとく煌めき流れ落ちる。その清廉な流れは、瞬く間に地上の赤を消し去ろうとしていた。

 気がつくと会場は天の一点から流れ落ちるいのちの水に浸されていた。人々は皆、天に向かって両手を高く差し伸べていた。
 だがそれも束の間。この身体と魂をも浄化する静謐な水流は小さな光の粒に戻り、空に舞いあがり消えていった。

 水底から現れたベージュのカーペットの敷かれた床、同系色の座席、木肌色の壁は、あるべき場所に戻されていく。


 すべてが元通りになった時、静まり返る客席の二本の通路中央に一人ずつ、その後方の出口に近い場所にもう一人、計三人の若いテロリストが、血溜まりの中で銃で頭を撃ち抜かれ、倒れていた。




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