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六章
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「ボス、プランF、届きました」
パソコン前に陣取っているスタッフの緊張した声に、背後のソファーでTSを操っていたヘンリーは怪訝そうに顔を向けた。
「Fって?」
「プランFです」
声は、緊迫感でかすかに震えている。
「流して」
「できません。ここにある機材ではキャパオーバーです」
応えたスタッフはギクシャクとした動きで立ちあがり言葉を続けた。
「ですが、想定デモ映像が添付されています」
ヘンリーも、その場から自分のために空けられた席へと移る。そして、飛鳥の送ってきたメッセージと、続いて展開される映像を食いいるように見つめた。背後では全スタッフが自分たちの作業を一時中断して、互い違いに覗きこむようにして画面に見入っている。
「おお、神よ……」
「こんなものが、本当に作れるのか――」
小さく呟かれる言葉。胸で十字を切る者。眉を潜めて小刻みに首を振る者――。
様々なスタッフの反応と、ねじ伏せられるように圧倒された挙句に訪れた沈黙とを全身で吟味するように、ヘンリーは深く息をつく。
「採用。みんな、それでいいかい?」
反対する者など、一人としていない。
「これこそが、世界の求めるアーカシャーHDですね」
誰かが呟いた。
「僕は今この仕事に携われていることを生涯誇りに思います」
また別の誰かの涙混じりの囁き声に、その場の誰もが頷いた。そして申し合わせたように静かに自分たちの席に戻ると、作業を再開した。今ここで、成すべきことをやり遂げるために――。
自慢じゃないがアレンはとても朝に弱い。だがそんな彼でも、今朝はさすがにすっきりと目が覚めていた。
今までのような日常生活の、いつ写真を撮られたのかも覚えていないような一コマをポスターに使ってもらうような、そんな間接的な形じゃなくて、兄や飛鳥さんの仕事の一旦に直接的に関われる見本市の初日なのだ。
軽い緊張と期待に胸を弾ませ、いつもよりずっと気合を入れて身支度をしていた。
ええと、今日、僕は何をすればいいのだっけ?
と自問自答して初めて、アレンは今日の予定を何も聞いていないことに思い至る。
TSが鳴った。起きられないといけないから、最大音量で目覚ましをかけたままだった。でも、これは違う。
「はい。起きています。――すぐに行きます」
デヴィッドからの呼びだしにアレンは嬉しそうに返事をして、一階のレストランへと向かった。
「え?」
意気揚々と急いで来たというのに、告げられた言葉にアレンは耳を疑うはめになる。
「ごめんねぇ。でも僕も一緒だからさ、我慢して」
「でも、そんな、ホテルで待機だなんて――。僕はもしかして、とんでもない失敗をしてしまったんですか?」
力なく問い質すアレンに、デヴィッドは申し訳なさそうに首を振るしかない。
「そんな事ないよ~。ばっちり、いい仕事、してたって! そうじゃなくて初日はね、業者だけしか入れないし、専門的な話をするだけだからね、きみがいても出番がないっていうかぁ……」
必死に並べられる慰めの言葉を聞きながら、アレンは、デヴィッドの手元をぼんやりと見ていた。
一体、何杯、砂糖を入れるんだろう?
小さなスプーンでクルクルとかき混ぜられるカフェオーレの白い泡は、その下のコーヒーと決して混ざり合わず、その苦い、黒い液体を柔らかく隠しているだけのように思えて、なんだか苦しかったのだ。
「ヨシノも来てるから。会場の3D投影の手伝いに」
ぱっと伏せていた顔をあげたアレンを見て、デヴィッドはケラケラと笑いだす。
「ヨシノ、きみがいるとね、心配で、心配で、仕事が手につかないんだって!」
その言葉をどう受け取っていいのか判らなくて、アレンは取りあえず、何となく、微笑んでいた。
パリ国際通信機器見本市の講演会場になる二号館、映写調整室は、機材と椅子が数脚あるだけの狭い部屋だ。その中で吉野はヘンリーと向かい合い話を聴きながら、館内見取り図を片手に、TSガラス配置場所、機材設置位置、監視ルームの位置と一つ一つを目で確認しながら、特に驚いた様子もなく相槌をうっていた。
「へぇ、プランAボツにしたんだ。だから俺、飛鳥には言うなって言ったのに」
「サラがね、一人じゃこなしきれないって」
「俺に回せばよかったのに」
苦笑するヘンリーを見あげ、吉野は不満そうに唇を尖らせる。
「俺、また飛鳥に怒られるじゃん。言わなきゃスタッフの仕事だってごまかせたのに」
「きみも懲りないね。きみのやることは、どうしたってアスカには知られてしまうよ」
ヘンリーはクスクス笑い、「それにね、きみじゃこうはいかなかった」と見取り図の上を指先でトントンと叩く。
「まあね。俺が本気の飛鳥に敵う訳ないよ」
上目遣いに見あげて吉野は嬉しそうに胸を張る。敵わないことが何よりも嬉しくて堪らないかのように――。
さて、と立ちあがったヘンリーに、吉野はふと思いだしたように顔をあげた。
「ところでさぁ、あのメイン会場のでかいポスター、なんだよ? 俺、会場間違えたかと思ったよ。国際見本市なのに、なんであいつの顔使ってんの?」
「通信機器見本市だよ? 最大スポンサーはグレンツ社フランス支社だ」
納得したようにクスリと笑った吉野に、ヘンリーは頼もしげにその肩を叩いた。
「じゃあ、ここは任せたよ。他を回って労ってくる」
「労う? これからだっていうのに?」
「みんな、連日連夜、頑張ってくれていたんだ。ああ、そういえばバドリたちニューヨークチームが、きみに会いたがっていた。そのうち、ここに顔をだすんじゃないかな。彼らの半数をここの調光室と音響室に配置してるんだ」
「OK」
今日のような日でも普段となんの隔たりもない、吉野のにかっとした無邪気な笑顔を潮に、かすかに呆れたように肩をすくめて、ヘンリーはその部屋を後にした。
パソコン前に陣取っているスタッフの緊張した声に、背後のソファーでTSを操っていたヘンリーは怪訝そうに顔を向けた。
「Fって?」
「プランFです」
声は、緊迫感でかすかに震えている。
「流して」
「できません。ここにある機材ではキャパオーバーです」
応えたスタッフはギクシャクとした動きで立ちあがり言葉を続けた。
「ですが、想定デモ映像が添付されています」
ヘンリーも、その場から自分のために空けられた席へと移る。そして、飛鳥の送ってきたメッセージと、続いて展開される映像を食いいるように見つめた。背後では全スタッフが自分たちの作業を一時中断して、互い違いに覗きこむようにして画面に見入っている。
「おお、神よ……」
「こんなものが、本当に作れるのか――」
小さく呟かれる言葉。胸で十字を切る者。眉を潜めて小刻みに首を振る者――。
様々なスタッフの反応と、ねじ伏せられるように圧倒された挙句に訪れた沈黙とを全身で吟味するように、ヘンリーは深く息をつく。
「採用。みんな、それでいいかい?」
反対する者など、一人としていない。
「これこそが、世界の求めるアーカシャーHDですね」
誰かが呟いた。
「僕は今この仕事に携われていることを生涯誇りに思います」
また別の誰かの涙混じりの囁き声に、その場の誰もが頷いた。そして申し合わせたように静かに自分たちの席に戻ると、作業を再開した。今ここで、成すべきことをやり遂げるために――。
自慢じゃないがアレンはとても朝に弱い。だがそんな彼でも、今朝はさすがにすっきりと目が覚めていた。
今までのような日常生活の、いつ写真を撮られたのかも覚えていないような一コマをポスターに使ってもらうような、そんな間接的な形じゃなくて、兄や飛鳥さんの仕事の一旦に直接的に関われる見本市の初日なのだ。
軽い緊張と期待に胸を弾ませ、いつもよりずっと気合を入れて身支度をしていた。
ええと、今日、僕は何をすればいいのだっけ?
と自問自答して初めて、アレンは今日の予定を何も聞いていないことに思い至る。
TSが鳴った。起きられないといけないから、最大音量で目覚ましをかけたままだった。でも、これは違う。
「はい。起きています。――すぐに行きます」
デヴィッドからの呼びだしにアレンは嬉しそうに返事をして、一階のレストランへと向かった。
「え?」
意気揚々と急いで来たというのに、告げられた言葉にアレンは耳を疑うはめになる。
「ごめんねぇ。でも僕も一緒だからさ、我慢して」
「でも、そんな、ホテルで待機だなんて――。僕はもしかして、とんでもない失敗をしてしまったんですか?」
力なく問い質すアレンに、デヴィッドは申し訳なさそうに首を振るしかない。
「そんな事ないよ~。ばっちり、いい仕事、してたって! そうじゃなくて初日はね、業者だけしか入れないし、専門的な話をするだけだからね、きみがいても出番がないっていうかぁ……」
必死に並べられる慰めの言葉を聞きながら、アレンは、デヴィッドの手元をぼんやりと見ていた。
一体、何杯、砂糖を入れるんだろう?
小さなスプーンでクルクルとかき混ぜられるカフェオーレの白い泡は、その下のコーヒーと決して混ざり合わず、その苦い、黒い液体を柔らかく隠しているだけのように思えて、なんだか苦しかったのだ。
「ヨシノも来てるから。会場の3D投影の手伝いに」
ぱっと伏せていた顔をあげたアレンを見て、デヴィッドはケラケラと笑いだす。
「ヨシノ、きみがいるとね、心配で、心配で、仕事が手につかないんだって!」
その言葉をどう受け取っていいのか判らなくて、アレンは取りあえず、何となく、微笑んでいた。
パリ国際通信機器見本市の講演会場になる二号館、映写調整室は、機材と椅子が数脚あるだけの狭い部屋だ。その中で吉野はヘンリーと向かい合い話を聴きながら、館内見取り図を片手に、TSガラス配置場所、機材設置位置、監視ルームの位置と一つ一つを目で確認しながら、特に驚いた様子もなく相槌をうっていた。
「へぇ、プランAボツにしたんだ。だから俺、飛鳥には言うなって言ったのに」
「サラがね、一人じゃこなしきれないって」
「俺に回せばよかったのに」
苦笑するヘンリーを見あげ、吉野は不満そうに唇を尖らせる。
「俺、また飛鳥に怒られるじゃん。言わなきゃスタッフの仕事だってごまかせたのに」
「きみも懲りないね。きみのやることは、どうしたってアスカには知られてしまうよ」
ヘンリーはクスクス笑い、「それにね、きみじゃこうはいかなかった」と見取り図の上を指先でトントンと叩く。
「まあね。俺が本気の飛鳥に敵う訳ないよ」
上目遣いに見あげて吉野は嬉しそうに胸を張る。敵わないことが何よりも嬉しくて堪らないかのように――。
さて、と立ちあがったヘンリーに、吉野はふと思いだしたように顔をあげた。
「ところでさぁ、あのメイン会場のでかいポスター、なんだよ? 俺、会場間違えたかと思ったよ。国際見本市なのに、なんであいつの顔使ってんの?」
「通信機器見本市だよ? 最大スポンサーはグレンツ社フランス支社だ」
納得したようにクスリと笑った吉野に、ヘンリーは頼もしげにその肩を叩いた。
「じゃあ、ここは任せたよ。他を回って労ってくる」
「労う? これからだっていうのに?」
「みんな、連日連夜、頑張ってくれていたんだ。ああ、そういえばバドリたちニューヨークチームが、きみに会いたがっていた。そのうち、ここに顔をだすんじゃないかな。彼らの半数をここの調光室と音響室に配置してるんだ」
「OK」
今日のような日でも普段となんの隔たりもない、吉野のにかっとした無邪気な笑顔を潮に、かすかに呆れたように肩をすくめて、ヘンリーはその部屋を後にした。
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