胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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「マーシュコートに戻る?」
 寝耳に水の話に、飛鳥は呆気に取られてヘンリーを見つめた。
「それは何か、その、問題トラブルがあって……」
「ああ、そうじゃないよ。ここの庭にもう少し手を入れようと思ってね。ゴードンだけでは無理だから業者を頼むことにした。そうなると、しばらく落ち着かないからね」
 それを聞いて飛鳥はほっと安堵の吐息を漏らした。ヘンリーは小首を傾げて飛鳥を見つめている。

「――サラが、共同生活が辛いのかと思ったよ」
 ほっとしたようでいて、微妙な不安の入り混じる飛鳥の声に、ヘンリーは安心させるように優しく微笑みかけた。
「彼女は今の生活を気に入っているよ」
 それでも疑わしそうな飛鳥の瞳に、ヘンリーはクスクスと笑いだす。
「サラはデイヴと気が合っているんだって、知っているかい?」
 飛鳥は、今度は驚いて目を丸くしている。本格的に吹きだしながら、ヘンリーは揶揄うように続けた。
「ゲーム。いつも一緒にやっているよ。きみが大学に行っている間にね」
「全然、知らなかった」
「知らないはずだよ。きみが帰ってくると、サラはきみに飛びついてゲームには見向きもしなくなるからね」
「え! そんな事ないだろ?」
 顔を赤くしてしどろもどろになる飛鳥を見て、ヘンリーは可笑しそうに笑っている。




「ただいま! 見て! 次のポスター見本ができたよ!」
 玄関から真っすぐに応接間に入ってきたデヴィッドが、小脇に抱えていた筒状に丸まったポスターを鼻高々に広げてみせた。

「『Stand By Me (そばにいて) 』。これはまた、吉野がブチ切れそうなポスターだね」
 ヘンリーと並んでソファーに座っていた飛鳥は、苦笑しながらデヴィッドを見あげる。
「アレンは知っているの?」
「もちろん!」
「いいんじゃないかい。きみは反対?」
 ヘンリーは若干表情を引きしめて飛鳥の反応を伺っている。
「こんな瞳で彼に見つめられたら、TSネクスト、買っちゃうよね」
 飛鳥は困ったように微笑み両眉を上げた。
「アーニーは?」
 デヴィッドはもちろん、と、ニッと笑いポスターを摘まむ指でOKマークを作る。
「じゃ、それで行こう」

 仕方がない、と吐息をついて、飛鳥はもう一度じっくりとポスターに眼をやった。




 TSの青紫の縁に囲まれた星空に浮かぶソファーにアレンが座っている。不安げな、どこか淋しそうな表情で、ぎゅっと薄い空色のクッションを抱え込んでこちらを見つめている。半開きにされた唇から漏れるのは懇願の言葉に違いない。どこか庇護欲をそそられ、また逆に、そのあまりの頼りなさに、なぜだか嗜虐心をも刺激される。
 大人でも子どもでもない、男にも女にも見える彼の曖昧さは、基本は自分にしか見ることのできないTS画面の幻の存在そのものだ。無機質に見える中に魂の輝きを見せるアレンは、今ではTSを象徴する、なくてはならない存在だ。

「でもこれ、学校で大丈夫なのかなぁ。前のポスターも問題になったんだろ? 前回のやつ、吉野にさんざん文句を言われたじゃないか」
「この子をモデルに使ったら、何をしたって話題になるよ!」
 当然とばかりにあっけらかんとしたデヴィッドの言い様に、困り顔の飛鳥も、確かに、と苦笑気味に同意するしかない。
「依頼がひっきりなしなんだっけ?」
「全部断っているけどねぇ」
 デヴィッドは自慢げに顎をしゃくり胸を反らす。アレンが安心して写真を撮らせてくれるのは自分だけなのだと、嬉しそうに語りだす。


「それで、パリのイベントに間に合うの?」
「十日後だよね~。大丈夫いけるよ!」
「イベント?」
 二人の会話についていけず、飛鳥は訝し気に訊き返した。
「言っていなかったっけ? パリで体験予約販売会をするんだ。今回は3Dの映像イベントはなしでね」
 ヘンリーは、今思いだしたように飛鳥に告げた。

「きみ、明後日パリに行くんだろ? その一週間後にまたパリ? マーシュコートは? いつ向こうに移ればいいの?」
「あ、きみ、行ってくれるんだ」
 ヘンリーは嬉しそうににっこりと笑った。
「サラが一人で戻るのは嫌みたいだったから、助かるよ」
「一人でって?」
「僕の休暇は明日で終わり。もう会社に復帰だよ。アーニーも忙しいし、パリのイベントは、デヴィッドも一緒に行ってもらうからね。またサラを一人にしなければならないかと思って、気が重かったんだ」

 ポカンと目も口も開いている飛鳥を、ヘンリーはまじまじと見つめた。

「どうしたの?」
「――まさか、僕と、サラと、二人っきりってわけじゃないよね?」
「メアリーも、マーカスもいるよ」
 ヘンリーは呆れ声で言い、クスクスと笑った。
「きみとサラだけじゃ、僕が戻ってくる頃には、干からびてミイラになっている可能性が高いからね」
「そんな訳ないだろ!」
 ぷいっと膨れる飛鳥に、デヴィッドも同意するように頷いた。
「そうだよ! アスカちゃん、パンケーキ作るの上手だよ。ちょっと、香ばしいけど」
「玉子焼き――」
「へぇ! 羨ましいな。それはぜひ僕にも御馳走してもらわないと!」
 驚いて声を高めたヘンリーを、飛鳥は恨めし気に睨めつける。
「そんなこと言うなら、本当に作るよ……」
「楽しみだよ」

 にっこりと微笑むヘンリーを飛鳥は拗ねたように見つめ返し、小さく吐息を漏らしていた。




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