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六章
一族1
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門の外までアレンを見送った飛鳥は、そこで待機していたすっかり顔馴染になった彼の二人のボディーガードと軽口を交わす。
飛鳥が唇を尖らせて吉野のことを頼むと、彼らも心得たもので、くっくと笑って請け負ってくれた。職務というよりは、まるで吉野は彼らの弟分でもあるかのような彼らの口ぶりに、いつものことながら飛鳥は嬉しそうに微笑んでお礼を言う。
飛鳥はひとり、館への道を散歩がてら歩いて戻った。門までは、アーネストに車で送ってもらったのだ。彼はそのまま仕事に出かけ、アレンはボディーガードの用意した車に乗り換え、ロンドンのセント・パンクラス駅からユーロスターでパリに向かう。
フライトよりも、鉄道の方が早いんだよ、と飛鳥が言うと、アレンは目を丸くして驚いていた。鉄道に乗るのが初めてだという。英国に来てから、エリオットとロンドン、そしてケンブリッジを車で移動するだけだったから、と。
――あ、でもロンドンはたくさん歩きました。ヨシノと一緒に。
あの明けていく空のように澄んだ瞳を輝かせて、アレンは艶やかに微笑んで話してくれた。
いつ頃からだろう? 彼のことを美術品のようだなんて失礼なこと、思わなくなったのは……。
相変わらずアレンは、一瞬にして目を奪われるほどに綺麗で、鮮やかな子だ。でも以前よりもずっと生き生きとしていて、くるくるとよく変わる表情が子どもらしく可愛いらしい。もう誰も、彼のことをお人形だなんて言わないし、思わない。
薄靄のかかる砂利道を、飛鳥はニヤつきながらのんびりと進んでいた。両側に生い茂る木々の梢はほどよく剪定され、濃い緑の隙間から差す木漏れ日が、肌寒さの残る早朝の冷気を追い払うように輝いていた。
ダイニングルームに入ると、いつもなら朝食は食べないか、遅めのブランチで済ましているはずのヘンリーがいた。
飛鳥は、うきうきと出発したアレンの話をひとしきり話した。その間に、執事のマーカスは、飛鳥のために紅茶ではなくコーヒーを用意してくれている。
起きていたのなら見送りに来れば良かったのに、と飛鳥がヘンリーを咎めると、ヘンリーは、「向こうで会うから」と澄ました顔で応えた。
「きみも行くの?」
「うん。ロレンツォと一緒にね。僕も招待されているんだ」
「じゃ、アレンと一緒に行けば良かったのに……」
ヘンリーは、テーブルに新聞を広げて、今朝も優雅にティーカップを口元に運んでいる。
「遊びじゃないんだ。当日の夜に行って翌朝には戻るよ」
新聞から顔をあげて応えたヘンリーの冷めた口調に、飛鳥は唇を尖らせる。
「きみって、どうしてそう彼に冷たいんだよ?」
「きみとヨシノの方がよほど一般的じゃないと、僕は思うけどね」
どこか皮肉に聞こえるヘンリーの言い方にカチンときたのか、飛鳥は一気に不機嫌になってぷいっと席を立った。
ダイニングルームを出ていく飛鳥から顔を逸らし、ヘンリーは深く背もたれに身体を預けて小さくため息をもらした。そしておもむろにティーカップに手を伸ばす。だが、その手の方向を変えると、無表情のまま新聞を畳んだ。
「――マーカス」
「どうぞ」
優秀な執事は、テーブルに残された飛鳥の朝食を、すでにトレーに載せている。
「小広場の紫陽花が見頃です」
「ありがとう」
急いでトレーを持ちあげて、今さら足早に飛鳥の後を追う主人を、マーカスはにっこりと節度のある笑顔でもって見送った。
ヘンリーが廊下に出ると、今度はメアリーが、ニコニコと微笑みながらテラス方向を指さして教えてくれた。
「ありがとう、メアリー」
すでに開け放たれている応接間のガラス扉から表に出ていくヘンリーを見送ると、メアリーは開け放したダイニングルームのドアに立つマーカスと顔を見合わせる。
「坊ちゃんのあの慌てっぷりったら!」
「彼はなかなかの大物ですね」
マーカスも、にこやかな笑みを浮かべている。
「さぁて、紅茶のおかわりの準備をしておかなければ」
「仲直りできたころにね!」
額に皺を寄せ、大きな瞳をくりっとさせて微笑むメアリーに頷き返し、マーカスはダイニングルームに戻っていった。
「アスカ、ちゃんと食べないとまたメアリーが心配するよ」
レンガ敷の小さな広場にあるガーデンパラソルの下、飛鳥はまだふて腐れた顔をして椅子に腰かけ、テーブルにもたれかかるように頬杖をついていた。
ヘンリーはトレーを静かに置いて、そっと飛鳥の髪に手をやった。嫌がって逃げないのを確かめてから、顔を寄せ、こめかみ近くの髪にキスを落とす。
「何?」
驚いた飛鳥が、大きな鳶色の瞳を向ける。
「イタリア式朝の挨拶」
「ロニーがすると怒るくせに!」
「当然だろ」
「きみ、訳がわからないよ! そうやってすぐに僕を子ども扱いする!」
どうやら飛鳥は、髪へのキスは親が子どもにする親愛と保護の情を表すものと思っているらしい。まったく間違っている訳ではないが――。
ヘンリーはクスリと笑って飛鳥の向かいに腰を下ろした。
「不思議な花だね。次々と色が変わっていく」
垣根替わりの紫陽花が、今が盛りと咲き誇っている。つい先日までクリームがかった白が多かったはずなのに、もうほとんどの花が落ち着いた青と紫に変わっている。
「日本のきみの家にも、紫陽花の木があったね」
ヘンリーは柔らかな笑みを浮かべ、少しずつ傾斜のついた道に連なる紫陽花に視線を漂わせて言った。
「吉野とよくかくれんぼしたんだ。僕は探すのが下手だったから、吉野はたいていわざと見つかるように、あの紫陽花の木の裏に隠れてくれていた」
飛鳥はまだちょっと怒っているような口調で応えている。
「僕とアレンの間には、そんな思い出はないんだよ。僕たちに共有できる家族の歴史はないんだ」
淋しそうに微笑んだヘンリーに、飛鳥は、はっと目を見張る。
「――ごめん」
「これから築きあげていくのでは駄目かい? お互いに、もっと互いのことを知り合って、少しずつ歩んでいくのでは。もう少し時間をくれないか?」
「ごめん、ヘンリー」
声を震わせて謝る飛鳥の髪を、ヘンリーはそっとさらりと撫でた。
「きみは誰にでも優しいのに、僕に対してだけは怒るんだ」
顔を伏せ、自己嫌悪にどっぷりと浸かってしまった飛鳥を引き立てるようにヘンリーは言葉を継いだ。
「だからかまわないよ。それは、ヨシノ以外にきみが甘えられるのは僕だけだってことだもの」
クスクスと笑うヘンリーを、少しだけ頭をもたげた飛鳥は唇を尖らせて抗議するように睨んでいる。
「さぁ、コーヒーが冷めてしまうよ」
湯気の立つ熱いコーヒーを銀のポットから繊細なカップに注ぎいれ、ヘンリーは飛鳥の前にカチャリと置いた。柔らかで上品な、いつもの彼らしい笑みを浮かべて。
飛鳥が唇を尖らせて吉野のことを頼むと、彼らも心得たもので、くっくと笑って請け負ってくれた。職務というよりは、まるで吉野は彼らの弟分でもあるかのような彼らの口ぶりに、いつものことながら飛鳥は嬉しそうに微笑んでお礼を言う。
飛鳥はひとり、館への道を散歩がてら歩いて戻った。門までは、アーネストに車で送ってもらったのだ。彼はそのまま仕事に出かけ、アレンはボディーガードの用意した車に乗り換え、ロンドンのセント・パンクラス駅からユーロスターでパリに向かう。
フライトよりも、鉄道の方が早いんだよ、と飛鳥が言うと、アレンは目を丸くして驚いていた。鉄道に乗るのが初めてだという。英国に来てから、エリオットとロンドン、そしてケンブリッジを車で移動するだけだったから、と。
――あ、でもロンドンはたくさん歩きました。ヨシノと一緒に。
あの明けていく空のように澄んだ瞳を輝かせて、アレンは艶やかに微笑んで話してくれた。
いつ頃からだろう? 彼のことを美術品のようだなんて失礼なこと、思わなくなったのは……。
相変わらずアレンは、一瞬にして目を奪われるほどに綺麗で、鮮やかな子だ。でも以前よりもずっと生き生きとしていて、くるくるとよく変わる表情が子どもらしく可愛いらしい。もう誰も、彼のことをお人形だなんて言わないし、思わない。
薄靄のかかる砂利道を、飛鳥はニヤつきながらのんびりと進んでいた。両側に生い茂る木々の梢はほどよく剪定され、濃い緑の隙間から差す木漏れ日が、肌寒さの残る早朝の冷気を追い払うように輝いていた。
ダイニングルームに入ると、いつもなら朝食は食べないか、遅めのブランチで済ましているはずのヘンリーがいた。
飛鳥は、うきうきと出発したアレンの話をひとしきり話した。その間に、執事のマーカスは、飛鳥のために紅茶ではなくコーヒーを用意してくれている。
起きていたのなら見送りに来れば良かったのに、と飛鳥がヘンリーを咎めると、ヘンリーは、「向こうで会うから」と澄ました顔で応えた。
「きみも行くの?」
「うん。ロレンツォと一緒にね。僕も招待されているんだ」
「じゃ、アレンと一緒に行けば良かったのに……」
ヘンリーは、テーブルに新聞を広げて、今朝も優雅にティーカップを口元に運んでいる。
「遊びじゃないんだ。当日の夜に行って翌朝には戻るよ」
新聞から顔をあげて応えたヘンリーの冷めた口調に、飛鳥は唇を尖らせる。
「きみって、どうしてそう彼に冷たいんだよ?」
「きみとヨシノの方がよほど一般的じゃないと、僕は思うけどね」
どこか皮肉に聞こえるヘンリーの言い方にカチンときたのか、飛鳥は一気に不機嫌になってぷいっと席を立った。
ダイニングルームを出ていく飛鳥から顔を逸らし、ヘンリーは深く背もたれに身体を預けて小さくため息をもらした。そしておもむろにティーカップに手を伸ばす。だが、その手の方向を変えると、無表情のまま新聞を畳んだ。
「――マーカス」
「どうぞ」
優秀な執事は、テーブルに残された飛鳥の朝食を、すでにトレーに載せている。
「小広場の紫陽花が見頃です」
「ありがとう」
急いでトレーを持ちあげて、今さら足早に飛鳥の後を追う主人を、マーカスはにっこりと節度のある笑顔でもって見送った。
ヘンリーが廊下に出ると、今度はメアリーが、ニコニコと微笑みながらテラス方向を指さして教えてくれた。
「ありがとう、メアリー」
すでに開け放たれている応接間のガラス扉から表に出ていくヘンリーを見送ると、メアリーは開け放したダイニングルームのドアに立つマーカスと顔を見合わせる。
「坊ちゃんのあの慌てっぷりったら!」
「彼はなかなかの大物ですね」
マーカスも、にこやかな笑みを浮かべている。
「さぁて、紅茶のおかわりの準備をしておかなければ」
「仲直りできたころにね!」
額に皺を寄せ、大きな瞳をくりっとさせて微笑むメアリーに頷き返し、マーカスはダイニングルームに戻っていった。
「アスカ、ちゃんと食べないとまたメアリーが心配するよ」
レンガ敷の小さな広場にあるガーデンパラソルの下、飛鳥はまだふて腐れた顔をして椅子に腰かけ、テーブルにもたれかかるように頬杖をついていた。
ヘンリーはトレーを静かに置いて、そっと飛鳥の髪に手をやった。嫌がって逃げないのを確かめてから、顔を寄せ、こめかみ近くの髪にキスを落とす。
「何?」
驚いた飛鳥が、大きな鳶色の瞳を向ける。
「イタリア式朝の挨拶」
「ロニーがすると怒るくせに!」
「当然だろ」
「きみ、訳がわからないよ! そうやってすぐに僕を子ども扱いする!」
どうやら飛鳥は、髪へのキスは親が子どもにする親愛と保護の情を表すものと思っているらしい。まったく間違っている訳ではないが――。
ヘンリーはクスリと笑って飛鳥の向かいに腰を下ろした。
「不思議な花だね。次々と色が変わっていく」
垣根替わりの紫陽花が、今が盛りと咲き誇っている。つい先日までクリームがかった白が多かったはずなのに、もうほとんどの花が落ち着いた青と紫に変わっている。
「日本のきみの家にも、紫陽花の木があったね」
ヘンリーは柔らかな笑みを浮かべ、少しずつ傾斜のついた道に連なる紫陽花に視線を漂わせて言った。
「吉野とよくかくれんぼしたんだ。僕は探すのが下手だったから、吉野はたいていわざと見つかるように、あの紫陽花の木の裏に隠れてくれていた」
飛鳥はまだちょっと怒っているような口調で応えている。
「僕とアレンの間には、そんな思い出はないんだよ。僕たちに共有できる家族の歴史はないんだ」
淋しそうに微笑んだヘンリーに、飛鳥は、はっと目を見張る。
「――ごめん」
「これから築きあげていくのでは駄目かい? お互いに、もっと互いのことを知り合って、少しずつ歩んでいくのでは。もう少し時間をくれないか?」
「ごめん、ヘンリー」
声を震わせて謝る飛鳥の髪を、ヘンリーはそっとさらりと撫でた。
「きみは誰にでも優しいのに、僕に対してだけは怒るんだ」
顔を伏せ、自己嫌悪にどっぷりと浸かってしまった飛鳥を引き立てるようにヘンリーは言葉を継いだ。
「だからかまわないよ。それは、ヨシノ以外にきみが甘えられるのは僕だけだってことだもの」
クスクスと笑うヘンリーを、少しだけ頭をもたげた飛鳥は唇を尖らせて抗議するように睨んでいる。
「さぁ、コーヒーが冷めてしまうよ」
湯気の立つ熱いコーヒーを銀のポットから繊細なカップに注ぎいれ、ヘンリーは飛鳥の前にカチャリと置いた。柔らかで上品な、いつもの彼らしい笑みを浮かべて。
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