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六章
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「もう会いにきてくれないかと思ったよ、ジャン=ポール」
吉野は鼻の頭に皺を寄せて二カッと笑う。
「こんなにでかくなっても、笑い顔はガキの頃そのままだな、チェリー」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をひっかき廻すように撫でてくれる大きな皺だらけの手は、昔とちっとも変わらない。
五日間もの間、ここで待ち続けて良かった、と吉野は心底嬉しそうに微笑んだ。
「わしの店を貸し切って、毎晩どんちゃん騒ぎしている馬鹿がいるって話が、まさか坊主のこととは思わなかった」
「ジャン=ポールって名前と、行きつけの店しか知らなかったからね。我が物顔で派手に騒げば、文句のひとつでも言いにきてくれるかと思ったんだ。ここ、あんたの店になってたなんてね! あんたが昔言ってた通りでさ、初めて来たとは思えないくらい、懐かしかったよ」
感慨深げに話ながら、吉野は通りに面した窓ガラスと、その間にある吹き抜けの間を遮る金色の真鍮のポールを背にした深紅の一人掛けソファーから、もう一度確かめるようにぐるりと室内を見廻す。
むき出しのコンクリートのひび割れを何度も上から塗り直した跡のある、くすんだ壁の側面に取りつけられた三本の花の蕾を模したウォールライト。十九世紀末の時代からそのまま使われているのかと思えるほど、古びて色褪せたピンクの花柄のソファー。そこに優雅に腰かける紳士も、家具に負けないほど年季の入った老人だ。小柄だが堂々としていて、真っ白な髪を後ろに撫でつけている。落ち着いた色味のジャケットと薄い水色のカラーシャツの下に巻かれた赤いスカーフが実にダンディで、彼を年齢よりよほど若々しく見せている。
間接照明のみの薄暗い店内の中、落ち着いて話ができるように他のテーブルから離れて設えられたそのコーナーには、時代がかった房付きの布製シェードの電気スタンドが置かれ、二人のいるこの片隅をオレンジ色の柔らかな光で包んでいる。
もっともこの数日に限っていえば、吹き抜けから聞こえてくる大音量の音楽、罵声、笑い声、時に喧嘩と、普段とは比べものにならない賑やかさに、落ち着いて話というのも難しくはあったが。
「百年前は、もっと色鮮やかで綺麗だったんだろうね」
組んだ膝に頬杖をつき、顔を近づけて目を細めて喋る吉野に、ジャン=ポールも茶目っ気ったぷりに小さく窪んだ目を見開き、眉をあげる。
「そうとも、わしだってお前と変わらん、色鮮やかな時代があったんだぞ」
「今じゃ立派なアンティークだけどね」
「価値があがっただろう?」
「うん。俺が会いにくるほどにね」
吉野の返答に、ジャン=ポールは声を上げて大笑いする。
「わしにどうして欲しいんだ」
「俺、あんたのこと好きだからさ、一応言っておこうと思って」
吉野は、ジャン=ポールを真っ直ぐに見つめて微笑んで告げた。
「俺の今の飼い主は、ジムじゃない。サウード・M・アル=マルズークだからね」
「……皇太子殿下か」
「うん。だからさ、できたら手を出さないで欲しいんだ。アブド・H・アル=マルズークの依頼を断って欲しい。俺さぁ、サウードに、お前を王座につけてやるって約束したんだ」
考えこむように口をへの字に曲げたジャン=ポールの顔を、吉野は、孫がおねだりでもするように覗き込み首を傾げる。
「なぁ、俺を敵にまわさないでくれよ。俺が今動かせる金、マカオの比じゃないよ」
「相変わらず大した情報網だな」
ジャン=ポールはまた、くっくっと肩を揺すって笑いだした。
「チェリーは、サウードを選んだって、知っておいて欲しいんだ」
「そうか。お前には借りがあるしな」
「チャラにはしないよ。この礼はちゃんと返す。俺、これでも義理堅いんだよ。根っからの日本人だからさ」
「おい坊主! あの噂は本当なのか? 誰もお前が日本語を喋っているところなんて、聞いたことがなかったってのに!」
「嘘だよ。本当は日系フランス人、って言ったら信じる?」
「そいつも嘘だろう?」
「さぁ、どうだろう?」
吉野はジャン=ポールに小突かれて悪戯っ子のように瞳を輝かせ、二人は声を立てて笑いあった。
食後酒を楽しむための二階サロンのコーナーに、この店のオーナーが来ていて、連日店を貸し切って騒いでいる馬鹿な外国人を諫めているらしい、とあって、同じフロアにあるテーブルに座っているのは、そのオーナーの顔を知らない新参者くらいしかいない。ほとんどの客は一階、あるいは三階に自発的に席を外して、フロアは閑散としていた。わずかにいる客も、上や下とは違う緊張した雰囲気にその内気づくと、そそくさと食べるだけ食べて、別の階へ移動している。
フロアテーブルでは、食事する客の話し声よりも、吹き抜けから響いてくる喧噪の方がよほど耳につくようだ。
そんな中でアリーは、山盛りのフライドポテトとスクランブルエッグを申し訳程度つつきながら、顔を伏せ、声を潜めてウィリアムに訊ねていた。
「あの爺さん、何者なんだ?」
「この店のオーナーですよ。表向きはね」
「表向き?」
「それに、」
ウィリアムはテーブルの上にTS画面を出し、そこに示された新聞記事を指し示す。
「カジノオーナー……、マルセイユ・マフィアか?」
「すでに引退していますけれどね」
ウィリアムは唇に人差し指を立て、すっと視線を他のテーブルに向ける。アリーも納得したように頷いてさらに声を低めた。客の中の何人かは、あのオーナーの手下らしい玄人筋だ。
「どういう関係なんだ?」
「よくは知りませんが、あの子、幼少期にかなり頻繁にマカオに行っているんですよ。その辺の繋がりじゃないでしょうか」
「またギャンブルか! 子どものすることじゃないだろうが!」
腹立たしげに呟いたアリーに、ウィリアムも苦笑して頷く。
「あいつは一体どうなっているんだ! 俺たちに散々追っ駆けっこをさせたかと思うと、今度はろくでなし連中を集めて宴会だ! あれが殿下の親友で、英国一のエリート校の生徒だなんてまったくもって信じられない!」
「信じられなくとも事実ですよ。今の彼も、エリオットの制服を着ている彼も、どちらもヨシノに違いないんです。そして、殿下はヨシノのことを、他の誰よりも信頼している。解っていらっしゃるでしょう?」
淡々としたウィリアムとは対照的に、苛立ちを抑えられないアリーは深く嘆息していた。
「おい、帰るよ」
ふいに声をかけられ、アリーは渋面のまま顔をあげる。
「用事は済みましたか?」
一方ウィリアムは、静かに笑みを湛えて訊ねている。
「うん。あ、ちょっと待ってて」
急に何事か思いだしたのか、吉野は吹き抜けを見下ろすポールの手摺から身を乗りだすと、騒音に負けないように大声で叫んだ。
「おーい! 俺、じゃあ、もう行くからな! あんた達、閉店まで遊んでいきなよ! ありがとな! お陰で楽しかった!」
階上、階下で歓声が沸き起こる中、ドヤドヤと三階から降りてくる連中と、一階に溜まっていた連中とに揉みくちゃにされながら見送られて、三人はやっとタクシーに乗りこんだ。
「旨いメシ食えるところに行って」
吉野は、タクシーに乗るなり運転手にそう告げた。
「ここはフランスのパリだっていうのにさ、あの店、まともに食えるものないじゃん! 俺、ジャン=ポールに散々文句言ってやった! 観光客相手だって、手、抜くなって!」
吉野は鼻の頭に皺を寄せて二カッと笑う。
「こんなにでかくなっても、笑い顔はガキの頃そのままだな、チェリー」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をひっかき廻すように撫でてくれる大きな皺だらけの手は、昔とちっとも変わらない。
五日間もの間、ここで待ち続けて良かった、と吉野は心底嬉しそうに微笑んだ。
「わしの店を貸し切って、毎晩どんちゃん騒ぎしている馬鹿がいるって話が、まさか坊主のこととは思わなかった」
「ジャン=ポールって名前と、行きつけの店しか知らなかったからね。我が物顔で派手に騒げば、文句のひとつでも言いにきてくれるかと思ったんだ。ここ、あんたの店になってたなんてね! あんたが昔言ってた通りでさ、初めて来たとは思えないくらい、懐かしかったよ」
感慨深げに話ながら、吉野は通りに面した窓ガラスと、その間にある吹き抜けの間を遮る金色の真鍮のポールを背にした深紅の一人掛けソファーから、もう一度確かめるようにぐるりと室内を見廻す。
むき出しのコンクリートのひび割れを何度も上から塗り直した跡のある、くすんだ壁の側面に取りつけられた三本の花の蕾を模したウォールライト。十九世紀末の時代からそのまま使われているのかと思えるほど、古びて色褪せたピンクの花柄のソファー。そこに優雅に腰かける紳士も、家具に負けないほど年季の入った老人だ。小柄だが堂々としていて、真っ白な髪を後ろに撫でつけている。落ち着いた色味のジャケットと薄い水色のカラーシャツの下に巻かれた赤いスカーフが実にダンディで、彼を年齢よりよほど若々しく見せている。
間接照明のみの薄暗い店内の中、落ち着いて話ができるように他のテーブルから離れて設えられたそのコーナーには、時代がかった房付きの布製シェードの電気スタンドが置かれ、二人のいるこの片隅をオレンジ色の柔らかな光で包んでいる。
もっともこの数日に限っていえば、吹き抜けから聞こえてくる大音量の音楽、罵声、笑い声、時に喧嘩と、普段とは比べものにならない賑やかさに、落ち着いて話というのも難しくはあったが。
「百年前は、もっと色鮮やかで綺麗だったんだろうね」
組んだ膝に頬杖をつき、顔を近づけて目を細めて喋る吉野に、ジャン=ポールも茶目っ気ったぷりに小さく窪んだ目を見開き、眉をあげる。
「そうとも、わしだってお前と変わらん、色鮮やかな時代があったんだぞ」
「今じゃ立派なアンティークだけどね」
「価値があがっただろう?」
「うん。俺が会いにくるほどにね」
吉野の返答に、ジャン=ポールは声を上げて大笑いする。
「わしにどうして欲しいんだ」
「俺、あんたのこと好きだからさ、一応言っておこうと思って」
吉野は、ジャン=ポールを真っ直ぐに見つめて微笑んで告げた。
「俺の今の飼い主は、ジムじゃない。サウード・M・アル=マルズークだからね」
「……皇太子殿下か」
「うん。だからさ、できたら手を出さないで欲しいんだ。アブド・H・アル=マルズークの依頼を断って欲しい。俺さぁ、サウードに、お前を王座につけてやるって約束したんだ」
考えこむように口をへの字に曲げたジャン=ポールの顔を、吉野は、孫がおねだりでもするように覗き込み首を傾げる。
「なぁ、俺を敵にまわさないでくれよ。俺が今動かせる金、マカオの比じゃないよ」
「相変わらず大した情報網だな」
ジャン=ポールはまた、くっくっと肩を揺すって笑いだした。
「チェリーは、サウードを選んだって、知っておいて欲しいんだ」
「そうか。お前には借りがあるしな」
「チャラにはしないよ。この礼はちゃんと返す。俺、これでも義理堅いんだよ。根っからの日本人だからさ」
「おい坊主! あの噂は本当なのか? 誰もお前が日本語を喋っているところなんて、聞いたことがなかったってのに!」
「嘘だよ。本当は日系フランス人、って言ったら信じる?」
「そいつも嘘だろう?」
「さぁ、どうだろう?」
吉野はジャン=ポールに小突かれて悪戯っ子のように瞳を輝かせ、二人は声を立てて笑いあった。
食後酒を楽しむための二階サロンのコーナーに、この店のオーナーが来ていて、連日店を貸し切って騒いでいる馬鹿な外国人を諫めているらしい、とあって、同じフロアにあるテーブルに座っているのは、そのオーナーの顔を知らない新参者くらいしかいない。ほとんどの客は一階、あるいは三階に自発的に席を外して、フロアは閑散としていた。わずかにいる客も、上や下とは違う緊張した雰囲気にその内気づくと、そそくさと食べるだけ食べて、別の階へ移動している。
フロアテーブルでは、食事する客の話し声よりも、吹き抜けから響いてくる喧噪の方がよほど耳につくようだ。
そんな中でアリーは、山盛りのフライドポテトとスクランブルエッグを申し訳程度つつきながら、顔を伏せ、声を潜めてウィリアムに訊ねていた。
「あの爺さん、何者なんだ?」
「この店のオーナーですよ。表向きはね」
「表向き?」
「それに、」
ウィリアムはテーブルの上にTS画面を出し、そこに示された新聞記事を指し示す。
「カジノオーナー……、マルセイユ・マフィアか?」
「すでに引退していますけれどね」
ウィリアムは唇に人差し指を立て、すっと視線を他のテーブルに向ける。アリーも納得したように頷いてさらに声を低めた。客の中の何人かは、あのオーナーの手下らしい玄人筋だ。
「どういう関係なんだ?」
「よくは知りませんが、あの子、幼少期にかなり頻繁にマカオに行っているんですよ。その辺の繋がりじゃないでしょうか」
「またギャンブルか! 子どものすることじゃないだろうが!」
腹立たしげに呟いたアリーに、ウィリアムも苦笑して頷く。
「あいつは一体どうなっているんだ! 俺たちに散々追っ駆けっこをさせたかと思うと、今度はろくでなし連中を集めて宴会だ! あれが殿下の親友で、英国一のエリート校の生徒だなんてまったくもって信じられない!」
「信じられなくとも事実ですよ。今の彼も、エリオットの制服を着ている彼も、どちらもヨシノに違いないんです。そして、殿下はヨシノのことを、他の誰よりも信頼している。解っていらっしゃるでしょう?」
淡々としたウィリアムとは対照的に、苛立ちを抑えられないアリーは深く嘆息していた。
「おい、帰るよ」
ふいに声をかけられ、アリーは渋面のまま顔をあげる。
「用事は済みましたか?」
一方ウィリアムは、静かに笑みを湛えて訊ねている。
「うん。あ、ちょっと待ってて」
急に何事か思いだしたのか、吉野は吹き抜けを見下ろすポールの手摺から身を乗りだすと、騒音に負けないように大声で叫んだ。
「おーい! 俺、じゃあ、もう行くからな! あんた達、閉店まで遊んでいきなよ! ありがとな! お陰で楽しかった!」
階上、階下で歓声が沸き起こる中、ドヤドヤと三階から降りてくる連中と、一階に溜まっていた連中とに揉みくちゃにされながら見送られて、三人はやっとタクシーに乗りこんだ。
「旨いメシ食えるところに行って」
吉野は、タクシーに乗るなり運転手にそう告げた。
「ここはフランスのパリだっていうのにさ、あの店、まともに食えるものないじゃん! 俺、ジャン=ポールに散々文句言ってやった! 観光客相手だって、手、抜くなって!」
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