胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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 時だけが刻々と流れていく。
 大学を卒業し、会社でもまとまった休みを取っているヘンリーに誘われ、サラは久しぶりに庭にでていた。
 英国に来てからもう十年にとどく歳月が流れていた。その年月のほとんどをすごしてきたマナー・ハウスを離れてもう十ヵ月――。部屋に籠ってばかりいて、こうしてこの庭を歩き回った記憶はない。マーシュコートでは、一日の大半を庭についやす日さえあったのに。

 父の愛した庭の手入れを手伝うのは楽しかったけれど、ここで一から新しく庭造りするほどの情熱は、サラにはないのだ。部屋に籠って飛鳥と一緒にプログラミングしたり、TSの新しい可能性を探っていくことの方がずっと楽しかったから。それになによりも、向こうにいた時に比べて、ずっと多くの日々をヘンリーがいてくれるのだ。土いじりで気を紛らわせる必要性がない。



「ヘンリー、見て。紫陽花が咲いているの。ここだけマーシュコートと同じね」

 こんもりと道の傍を彩る紫陽花の垣根の下にペタンと座りこんでいたサラは、居間から続くテラスの階段を上がってきているヘンリーを透き通る声で呼んだ。

「ああ、本当だ。綺麗だね」

 ヘンリーはサラの横に立ち、自分よりも少し低い程度の高さまで大きく育っている紫陽花の木と、その表面を飾るピンクや紫、そして青のグラデーションに眼を細める。

「ヨシノの温室の近くに池があっただろう? まだ手を入れてないんだ。あそこ、庭園にしようか?」
「アスカのために?」
「きみのために」

 ヘンリーは中腰になって手を差し伸べ、サラに立ちあがるように促すと、そのまま庭の奥へと進んでいった。

「きみは少し物足りないんじゃないのかと思ってね。こっちの庭はちっとも触っていないだろ?」
「忙しかったから」
「とうぶんヨシノはここへは来ないよ。それにアスカとセキュリティを書き換えてからは、きみのコズモスに遊びにくるのも、いくら彼でもそうそう無理になったんだろう?」
 サラはそれには答えずにクスッと笑う。
「またハーブ園を造るかい?」
 サラは小さく首を振る。
「マーシュコートのデータを送ってもらっているからいいの」



 ゴールドクレストの林をぬけると、ガラスの温室が見えてきた。その前を通りすぎさらに奥へと進む。木々が途切れ、鬱蒼とした池が見えてくる。長い間手入れされていないせいか、水面には枯葉が固まって浮き、汚らしく澱んでいる。

「蓮の花が欲しいな」
 サラは不思議そうにヘンリーを見あげた。彼には似合わない、ふとそんな気がして意外だったのだ。
「サラに一番似合う花だから」
 ヘンリーは微笑んでサラの髪を撫でた。
「神聖な、清らかな心。泥の中に生まれ育っても、泥に染まらない清廉な魂。ここはサラの池にしよう」

 辺りをくるりと見廻すと、ヘンリーはサラの手を引いて再び歩きだす。



「この辺りも、もう少し手を入れよう。ゴードンに言っておくよ。東屋も欲しいな。ゆっくりと寛げるように。少し木も減らそうか。あまりにも鬱蒼としすぎているね」

 周囲の木々を見廻し不満そうに眉をよせている、そんな彼の言葉など耳に入っていないかのように、唐突にサラは彼の手をぎゅっと握って注意を引いた。

「ヘンリーが好きになった人と結婚してお嫁さんが来たら? 私の池なんていらなくなる。私はどうすればいい? ひとりでマーシュコートに帰るの?」

 淡々とした口調で首を横に振りながら呟いたサラに、ヘンリーは驚いたように足を止めた。

「僕は結婚なんてしないよ」
「ありえない」

 大きく見開いて自分を見あげるつぶらな瞳を、ヘンリーはにっこりと上品な笑みを浮かべて覗きこむ。

「きみが結婚してこの家も、爵位も継げばいい」
「もっとありえない。女に爵位は継げないもの」
「僕に次ぐ爵位継承者と結婚すれば継げるよ」

 驚いてじっと立ち尽くしてしまったサラに、ヘンリーは困ったように首を傾げた。

「もし、きみがそう望むのなら、だけどね」

「ヘンリーは……? ヘンリーの好きな人はどんな人? 綺麗なひと?」

 動揺を隠せないまま、サラはまた唐突に話題を変えた。本当はずっと聞きたかったことが、つい口をついて出てしまっていた。

「綺麗な人だよ」

 ヘンリーはサラに優し気な笑みを向け、歩きだした。そして、サラのライムグリーンの瞳に応えるために言葉を継いだ。

「出会った頃は、野の花のように可愛らしい人だった。今はもっと静謐で凛とした、とても綺麗な人になっているよ」
「私もその人に会える?」

 不安そうに呟いたサラの頭を、ヘンリーは安心させるようにぽんっと叩く。

「心配しなくても、サラがいい人を見つけて世界一幸せな花嫁になるまで、僕はずっとサラの傍にいるよ。僕の一番は、いつだってサラだからね! でも、心の中でそのひとを想い続けることだけは、許して欲しいんだ」
「ヘンリーの好きな人なら、私もきっと好きになる」

 大きな瞳を震わせて、まるで悪いことでもしでかして謝るかのように、サラはヘンリーを見つめて真摯に告げた。

「知っているよ」

 ヘンリーはまたにっこりと微笑んだ。


「ああ、もうコンサバトリーが見えてきた。ちょうど庭を一周できたね。マーカスにお茶を淹れてもらおう。ほら、アスカたちもいる」

 ヘンリーは緩やかな斜面から見おろす館の、光を反射してキラキラ輝くコンサバトリーを指さした。
 こちらに気がついて大きく手を振る飛鳥に、目を細めて嬉しそうに片手を挙げて応えている。
 サラはそんな彼を見あげ、心中の不安を拭えないまま、握られていた彼の手をギュッと強く握り返していた。





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