胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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「アレン、起きてる?」
 か細い声で返ってきた承諾に、飛鳥はドアを開けた。
「大丈夫?」
 ベッドから起きあがり、立ちあがろうとするアレンを、飛鳥は首を振って制した。
「横になっていて。まだ辛いんだろう?」
 結局、昼食の席には現れず、自室に引っ込んだアレンのために運んできた軽食のトレーを、飛鳥は傍らのサイドボードに置いた。

 ベッドに腰かけたまま向けられたぼんやりとしたアレンの覇気のない瞳に、飛鳥は申し訳なさそうに眉を潜めている。
「これ、飲んでみて。すっきりするよ。吐き気がある時はこれが一番いいって、お祖父ちゃんに教えてもらったんだ」
 グラスに入ったシュワシュワと泡立つジンジャーエールを、大きなスプーンで少しずつアレンの口許に運ぶ。アレンはされるがままに、色の悪い唇を小さく開き、一口、二口と飲み込んだ。
「雛に餌をあげている親鳥の気分だ」
 唇からこぼれて濡れた顎を、添えられていたテーブルナプキンで拭き、飛鳥はくしゃっと顔を傾げて笑った。


「やっぱりアスカさん、ヨシノに似ている」
 アレンが、花が咲くように口許をほころばせた。
「あいつが僕に似ているんだよ。弟だもの」
「吐き気はないんです。だからランチを頂きます」
 本当にすっきりとした顔をして、トレーに載せられたサンドイッチに手を伸ばす。
「うん。良かった」
「もう平気です」
「うん」
 飛鳥はにこにこと微笑んで、アレンが食事する様子を嬉しそうに見守っている。

「アスカさん、いつもこんな風なんですか?」
 ん? と首を傾げる飛鳥に、アレンは柔らかな笑みを浮かべてもう一度訊ねた。
「いつも、こんな風にヨシノの世話をしていたんですか?」
「ああ、反対かな。吉野が僕の世話をしてくれていた。僕はよく熱を出したり、寝込んだりしていたからね」
 飛鳥は鼻の頭に皺を寄せてちょっと首をすくめて笑った。


「きみの症状ね、映像酔いじゃなかったんだ。眩暈だけで吐き気はなかっただろ?」
「映像酔いじゃない?」
 不思議そうに自分を見つめるアレンに、飛鳥はまたすまなさそうな笑みを向け、くしゃっとその頭を撫でる。
「うん。空間識失調っていってね、パイロットがまれに発症する、一時的に平衝感覚を失う状態なんだ」
「空間識失調――」
「映像酔いの、動いている映像と動かない身体の差異からくる認識の違いじゃなくて、指標がなくて定まらない中心視野と、広大すぎる周辺視野空間が問題だったんだよ」

 理解できているのか、そうではないのか、小首を傾げてじっと聞いているアレンを、飛鳥は優しく見つめている。

「メイボールの迷宮は、壁画の部屋よりも、何度も繰り返して通る通路が問題だったんだ。あの中で平衝感覚を失って、部屋に入った時に、視覚錯覚を利用した映像でさらに混乱を引き起こされてしまう。でも、ほら、『空からクノッソスを見おろしていたら、すーと揺れが収まった』て、言っていただろ? 周辺視野の中に指標になる一点を作ることで、症状を収めることができるんだ。きみのお陰で気づけたんだよ。ありがとう、アレン」

「――吐き気はないはずだって、判っていたのにジンジャーエール?」
 苦笑するアレンに飛鳥は茶目っ気たっぷりに目を細めた。
「だって、きみ、本当に吐き気があっても、大丈夫ですって答えるだろ? でも吐き気がないなら、こんなものをスプーンで一口ずつ飲んでなんていられないだろ?」

 ヨシノみたいだ――。

 この、外見はとても似ているとは思えない吉野の兄と、吉野の共通点をまた一つ見つけて、アレンはクスリと笑った。

「お腹、空きました」
 もう一つ、アレンはサンドイッチに手を伸ばして頬ばった。
「しっかり食べて。吉野が言っていた。きみは食べる量と食べるもので、元気具合が一番よく分かるって。すごく気を遣う子だから、言うことをそのまま鵜呑みにするなって」

 咀嚼する頬が驚きで止まった。アレンは急いで口の中のものを呑み込んで、ジンジャーエールで流し込んだ。

「――ヨシノには、いつも我儘だって言われます」
「気を使わせないように、本当のことを言わないのは我儘だよ。あいつは、いつもきみの気持ちを推し量らなきゃいけないもの」

 アレンのセレストブルーの瞳が揺れた。

「きみはね、あいつと一緒に行って良かったんだよ」
「――でも、ヨシノは、駄目って」
「駄目って言った?」
「お前には無理って……」
「駄目だとも、嫌だとも言わなかっただろ? きみはもっと、あいつに我儘を言っていいんだよ。あいつの方がきみに輪を掛けて我儘なんだから」

 きゅっと眉を寄せ顔を伏せたアレンの髪を、飛鳥はもう一度くしゃくしゃと撫でてやった。

「あいつの言葉に振り回されてちゃ駄目だよ。きみ自身はどうしたいのか、ちゃんと考えるんだよ」

 傍らの椅子から唇を噛んで俯いているアレンの横に座り直し、飛鳥は、気持ちを落ち着けた彼が顔を上げてにっこりと微笑むまで、その額を自分の胸で支え、柔らかな金の髪をそっと撫で続けててやった。




「ロニー、それで吉野は今どこにいるの? パリじゃないんだろう?」
 自室に戻った飛鳥は後ろ手に閉めたドアにもたれ、かかってきたばかりの電話に小声で訊ねていた。

「……うん。……うん。……ノルウェー? 良かった、じゃ、大丈夫だ。……うん、それ、本当に観光だよ。フィヨルドだろ? 吉野がいるのは。お祖父ちゃんの想い出の場所だよ。吉野が一番行きたがっていた場所。……うん。ありがとう、ロニー」

 わずかな会話だけで電話を切った。
 飛鳥は深いため息をついて目を瞑った。

「やっぱりヘンリーは、本当のことを教えてくれていないんだ……」

 胸の奥底に沈殿していく失望感と不安とに、くらりと眩暈がする。心のバランスがそのまま身体のバランスのように感じられ、自分が今、真っ直ぐに立っているとはとても思えなかった。

「中心視野が信じられなくて、いったいどうやって飛べばいいんだ?」

 答えのだせない問いに、飛鳥は大きく頭を振った。




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