胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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「どうだった?」
「疲れた」
 部屋で待っていたサウードに、吉野は苦笑いして呆れたように首を振った。

「綺麗な女って、どうしてああ自分の顔が好きなんだろうな? アレンに会いにきたくせに、一目見るなり火花散らしてさ、後はずっと無視してやがった」
 ベッドの上にどさりと腰を下ろし、大きく息をつく。
「なんか俺もう、面倒くさいや」
 窓辺の椅子の上で胡坐をかいていたサウードは、肩をすくめて鷹揚な笑みを浮かべる。
「きみは時々、すべてが嫌になるみたいだね」
「つまらないんだ。何もかも」
 吉野はそう呟いて、小さく嗤った。




「サウード!」

 呻くような吉野の呼び声に、深夜の静まり返った空気がびくりと震えた。

「サウード」
 呼ばれた当人は、うつらうつらと眠りかかっていた瞼を擦り、顔をあげる。
「やられた。欧州狙い撃ちだ」
 冷めきらない彼の視線の先で、机に置かれたパソコンを凝視している吉野の背中が緊張に包まれている。ぼんやりとした頭を起こすように、サウードは何度も顔を擦る。
「何があったの?」
 吉野と同じように、サウード自身も緊張した声音で尋ねていた。

「フラッシュ・クラッシュ」
 押し殺すような声に不安が掻きたてられる。だが、聞き慣れない単語は彼の中で意味をなさない。
「何?」
「今、ダウが、千ドル下落した」
「え?」

 ベッドから立ちあがり、サウードは吉野のパソコンを肩越しに覗きこむ。黒い画面に浮かぶのは英数字の羅列で、やはり意味は取れなかった。

「何が起こったんだって?」

 肩越しに吉野の顔を覗きこむ。瞳を輝かせて微笑んでいる。キーボードに置かれていた指が、痙攣するように、びくりと動いた。吉野はほっと深い息をついて振り向くと、訝しげに自分を見つめるサウードの肩を、ぽんと叩いた。


「やはり神様は俺たちの味方だな」

「ほら、見ろよ」と、吉野は顔の横に設定していたTSの画面を指でスライドさせ、パソコンの上で留めた。角度でまったく見えなくなるので、開かれていることにさえ気づかなかったサウードだったが、視界に入るなり、そこに示されたNYダウのチャートに、あっと息を呑んでいた。

「なんなんだ、これって――」
 ジグザグと右肩上がりに進んでいた折れ線グラフが、突然一直線に落ちている。それも半端な落ち方じゃない。奈落の底へ向かうように真っ直ぐに、止まることなく縦棒が通っているのだ。

瞬間暴落フラッシュ・クラッシュていうんだ」
 吉野は爛々とした瞳をサウードに向けた。
「自動売買プログラムのミスや、高速取引の大規模な売りプログラムが連鎖的な売りを引き起こすんだ。これな、人為的にも引き起こせるんだ。バレたら捕まるけれどな」
「誰かが暴落させた?」
 半信半疑で呟いたサウードに、吉野は笑って頷いた。

「米国の大手投資銀行とヘッジファンドが、でかい売り注文を出して、すぐにいきなり申し合わせたように買い注文を引っ込めやがった。買いが入らないから、欧州やアジアのプログラムが一斉に売りに走ったんだ。――2分38秒の間に998ドルだぞ!」
 楽しげな吉野に不可解な視線を向けつつ、サウードはゆるりと首を傾げた。
「それで、うちの損害は?」
「1、2割は拾えているとして、60から100億ドルの利益にはなるよ。大底で拾えたしな。――でもこれでバレちまったかもな。お前んとこの政府系ファンドがもう、英国やフランスの投資銀行を通して売買してないっていうこと。ま、ジムのことだから、それを確かめるためのクラッシュなんだろうけれどさ」

 サウードの喉許からは大きな溜息が漏れ、「脅かさないでくれよ……」と、そのまま腰が抜けたようにベッドの上に座りこんでいた。

「さぁ、これであのいけ好かない女が泣きついてくるかな?」
 吉野は目を細め、微笑んでいたマリーネの作った顔を思いだしていた。

 ――あら、何のこと? 私はいつだって宗主の意思に従っているわ。

 あの時、彼女はそう言って話題を完全に逸らしたのだ。

「ドイツ分家?」
「そういえばフィリップも、あれでも当主か……。ルベリーニは馬鹿じゃないのに、どうして分家はああなんだ?」
「確固たる権力を手にしたら、他人に仕えるよりも、自分が玉座に座りたくなるものだよ」
「影のルベリーニが? 分不相応な夢だな」

 サウードは漆黒の瞳をわずかに伏せて、無言のまま微笑みで応じた。

「でも、この時期で良かった」
 吉野は、すでに元とそう変わらぬ位置まで戻しているチャート画面を横目で眺めながら、クスクスと笑う。
「ヘンリーは今、卒業試験の真っただ中だからさ、ポジションは全部クローズしているんだ。サラは俺の『ダークプール』に対抗するために、コズモス改良にかかりっきりらしいしな」


 ジムたち米国のテーブルメンバーは、吉野の動かす資金の特定に躍起になっている。
 夏季休暇で訪れたサウードの国に、吉野とサウードは、コズモスを連結させたコンピューターによる超高速売買をするための私設サーバー取引施設『ダークプール』を新設したのだ。これで、彼の国の政府ファンドは、欧州の投資銀行に委託することなく、直接世界中の株や為替の取引ができるようになった。発注元も誤魔化せるし、狙い撃ちされる危険性も避けられる。ジムのことを抜きにしても、石油依存の現状からの脱却を模索しているM国には必要な施策だった。


 のんびりとした吉野の口調に、サウードは重ねて溜息を漏らした。

「僕も嫌なことを思いだしてしまったじゃないか……。このところきみに翻弄されて、学年末試験のことがすっかり抜け落ちていたよ――」
「予想問題集作ってやろうか?」
「いいよ、要らない。成績が良すぎると、監督生に選ばれてしまう」

 揶揄うような吉野の声音に、サウードはひょいっと肩をすくめて首を振った。





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