胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
301 / 745
五章

しおりを挟む
 午前の授業が終わるなり、フレデリックは寮には戻らず昼食も食べずに、入り組んだ石畳の裏道を小走りに急いだ。約束通りにパブに着く頃にはゼイゼイと息を切らせて。

 カラーン、とドアベルを鳴らし、いつもとは違うドアを開ける。


「いらっしゃい!」
 明るい声が店内に響く。
「お兄さん!」
 熱を出して寝こんでいるはずの吉野の兄が、黒のウエストエプロンを腰に巻き、トレーを片手に立っている。

「熱は、大丈夫なんですか?」
 唖然として訊ねると、「平気だよ。吉野に頼まれてきてくれたの? あいつ、根っから心配性なんだから!」

 吉野の兄はちょっとはにかんだように微笑み、肩をすくめている。張りつめていた気が抜けて、フレデリックはカウンターの端にある太い柱にもたれかかった。

「――でも、無理をしちゃ駄目ですよ。病みあがりには違いないのですから」

 吐息を漏らして姿勢を正し、遠慮がちに飛鳥の額に手を伸ばした。長く伸びたさらさらの前髪の下で、鳶色のアーモンドアイが無邪気に笑っている。

「ね、熱なんかないだろ? 吉野は、大袈裟なんだよ」
「ご主人、彼、熱があります。休ませてあげて下さい」

 フレデリックはくるりと飛鳥に背を向け、カウンター内のジャックに声をかけた。

「なんだ、お前さん、調子が悪かったのか? それならそうと言ってくれりゃいいのに。かまわねえよ、休んでな」
「でも、今から忙しくなるランチタイムなのに」

 飛鳥は慌てて首を振る。

「仕方がねぇよ。バイトが来なくて廻らねぇようなら、今日は閉めりゃいいんだ」
 ジャックは顔をしかめて、さっさと上へあがれ、と追い払うように手をひらひらと振る。
「平気だよ、僕は――」

 飛鳥はなおも食いさがっている。

 本当、ヨシノの言った通りだ――。

 フレデリックは苦笑しながらガウンとテールコートを脱いでカウンターの隅に置くと、「僕がお手伝いしますから」と優雅な微笑みをジャックに向け、物腰の柔らかさとは裏腹な意志の強そうな視線で同意を求めた。ジャックは首をすくめ、二ッと笑った。

「駄目だよ! エリオット校生が無許可でバイトしちゃ!」
「ご心配なく。ボランティア活動は推奨されていますから」

 心配そうな視線を向けて制止する飛鳥ににっこりと笑顔で返し、フレデリックは早々とシャツの袖を捲りあげている。




 こんなに大変だとは思わなかった――。

 ようやく客足の切れてきた午後二時を過ぎる頃になって、フレデリックはやっと人心地ついて、今日は締め切っている二階席のソファーにドサリと腰をおろし、飛鳥を前に手足を投げだしていた。

「来てよかった。あなたにこんな仕事はさせられません。ちゃんと休めましたか? あなたの熱が酷くなっていたりしたら、僕がヨシノに怒られます」

 喋りながら、遅いランチのカレーとサラダを急いで口の中に押しこんでいる。のんびりと食事している暇などないのだ。三時のティータイムにはまた観光客が増えてくる。

「ありがとう、たっぷり眠らせてもらったよ。それで、吉野はきみになんて言ったの?」
「あなたは苦痛に鈍感だから、馬鹿な真似をしないように見張っていてくれって」

 気怠い疲労感から、つい口が滑っていた。いつものフレデリックなら気がついたものを――。
 その上、にこにこと笑って座っている、このとても年上とは思えないふんわりとした不思議なひとに、「ははは、僕は見張られているのか。今日は吉野は来ないの? きみのこと、あいつ、すごく信頼しているんだね。僕のお守りを頼むくらいだもの」などとさり気なく褒められて、ますますフレデリックの口は軽くなってしまっていた。

「事件の事後処理があるので、彼、遅くなると思います。でも、来ますよ、きっと。あなたのこと、すごく心配していたもの」
「事件って? アレンの事かな?」


 アレンの名前がでたので知っているものだとばかり思いこみ、フレデリックはアレンの誘拐事件のこと、マクドウェルのこと、自分の兄のことも、ことの顛末を洗いざらい話していた。無事に解決したからもう何も心配はいらない、と胸を張って。


「ありがとう。あいつには、こんなにいい友達がいるんだね。安心したよ――」

 飛鳥は嬉しそうに笑っている。その笑顔があまりにも優しげで、どことなく女の子のように可愛らしくて、フレデリックは一瞬、目を見張っていた。

 ふいに、飛鳥が長い前髪を邪魔そうにかき上げた。むきだしの額と、細められた切れ長の目に吸い寄せられる。目が離せない。時間が、ゆっくりと流れるようで――。

 このひと……、

 驚いたように自分をじっと見つめるフレデリックに、飛鳥は小首を傾げて眉毛を上げる。


「僕も、ニューヨークのオープンセレモニーの中継を見ました」
 フレデリックは飛鳥を凝視したまま、唐突に告げた。
「あの宇宙、素晴らしかった」
「ありがとう」

 飛鳥は、にっこりと笑う。



 急に、涙が溢れていた。フレデリックは、つっと顔を逸らして掌で口を覆う。嗚咽を漏らさないように。

 自分でも訳が判らなかった。ただ、思っただけなのに……。

 このひとは、なんて綺麗なひとなんだろう――、て。

「どうしたの? お兄さんのこと、思いだしてしまった?」

 などと優しく声をかけられたものだから、フレデリックはますます涙が止まらなくなってしまっていた。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

同僚くすぐりマッサージ

セナ
大衆娯楽
これは自分の実体験です

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

体育教師に目を付けられ、理不尽な体罰を受ける女の子

恩知らずなわんこ
現代文学
入学したばかりの女の子が体育の先生から理不尽な体罰をされてしまうお話です。

処理中です...