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五章
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午前の授業が終わるなり、フレデリックは寮には戻らず昼食も食べずに、入り組んだ石畳の裏道を小走りに急いだ。約束通りにパブに着く頃にはゼイゼイと息を切らせて。
カラーン、とドアベルを鳴らし、いつもとは違うドアを開ける。
「いらっしゃい!」
明るい声が店内に響く。
「お兄さん!」
熱を出して寝こんでいるはずの吉野の兄が、黒のウエストエプロンを腰に巻き、トレーを片手に立っている。
「熱は、大丈夫なんですか?」
唖然として訊ねると、「平気だよ。吉野に頼まれてきてくれたの? あいつ、根っから心配性なんだから!」
吉野の兄はちょっとはにかんだように微笑み、肩をすくめている。張りつめていた気が抜けて、フレデリックはカウンターの端にある太い柱にもたれかかった。
「――でも、無理をしちゃ駄目ですよ。病みあがりには違いないのですから」
吐息を漏らして姿勢を正し、遠慮がちに飛鳥の額に手を伸ばした。長く伸びたさらさらの前髪の下で、鳶色のアーモンドアイが無邪気に笑っている。
「ね、熱なんかないだろ? 吉野は、大袈裟なんだよ」
「ご主人、彼、熱があります。休ませてあげて下さい」
フレデリックはくるりと飛鳥に背を向け、カウンター内のジャックに声をかけた。
「なんだ、お前さん、調子が悪かったのか? それならそうと言ってくれりゃいいのに。かまわねえよ、休んでな」
「でも、今から忙しくなるランチタイムなのに」
飛鳥は慌てて首を振る。
「仕方がねぇよ。バイトが来なくて廻らねぇようなら、今日は閉めりゃいいんだ」
ジャックは顔をしかめて、さっさと上へあがれ、と追い払うように手をひらひらと振る。
「平気だよ、僕は――」
飛鳥はなおも食いさがっている。
本当、ヨシノの言った通りだ――。
フレデリックは苦笑しながらガウンとテールコートを脱いでカウンターの隅に置くと、「僕がお手伝いしますから」と優雅な微笑みをジャックに向け、物腰の柔らかさとは裏腹な意志の強そうな視線で同意を求めた。ジャックは首をすくめ、二ッと笑った。
「駄目だよ! エリオット校生が無許可でバイトしちゃ!」
「ご心配なく。ボランティア活動は推奨されていますから」
心配そうな視線を向けて制止する飛鳥ににっこりと笑顔で返し、フレデリックは早々とシャツの袖を捲りあげている。
こんなに大変だとは思わなかった――。
ようやく客足の切れてきた午後二時を過ぎる頃になって、フレデリックはやっと人心地ついて、今日は締め切っている二階席のソファーにドサリと腰をおろし、飛鳥を前に手足を投げだしていた。
「来てよかった。あなたにこんな仕事はさせられません。ちゃんと休めましたか? あなたの熱が酷くなっていたりしたら、僕がヨシノに怒られます」
喋りながら、遅いランチのカレーとサラダを急いで口の中に押しこんでいる。のんびりと食事している暇などないのだ。三時のティータイムにはまた観光客が増えてくる。
「ありがとう、たっぷり眠らせてもらったよ。それで、吉野はきみになんて言ったの?」
「あなたは苦痛に鈍感だから、馬鹿な真似をしないように見張っていてくれって」
気怠い疲労感から、つい口が滑っていた。いつものフレデリックなら気がついたものを――。
その上、にこにこと笑って座っている、このとても年上とは思えないふんわりとした不思議なひとに、「ははは、僕は見張られているのか。今日は吉野は来ないの? きみのこと、あいつ、すごく信頼しているんだね。僕のお守りを頼むくらいだもの」などとさり気なく褒められて、ますますフレデリックの口は軽くなってしまっていた。
「事件の事後処理があるので、彼、遅くなると思います。でも、来ますよ、きっと。あなたのこと、すごく心配していたもの」
「事件って? アレンの事かな?」
アレンの名前がでたので知っているものだとばかり思いこみ、フレデリックはアレンの誘拐事件のこと、マクドウェルのこと、自分の兄のことも、ことの顛末を洗いざらい話していた。無事に解決したからもう何も心配はいらない、と胸を張って。
「ありがとう。あいつには、こんなにいい友達がいるんだね。安心したよ――」
飛鳥は嬉しそうに笑っている。その笑顔があまりにも優しげで、どことなく女の子のように可愛らしくて、フレデリックは一瞬、目を見張っていた。
ふいに、飛鳥が長い前髪を邪魔そうにかき上げた。むきだしの額と、細められた切れ長の目に吸い寄せられる。目が離せない。時間が、ゆっくりと流れるようで――。
このひと……、
驚いたように自分をじっと見つめるフレデリックに、飛鳥は小首を傾げて眉毛を上げる。
「僕も、ニューヨークのオープンセレモニーの中継を見ました」
フレデリックは飛鳥を凝視したまま、唐突に告げた。
「あの宇宙、素晴らしかった」
「ありがとう」
飛鳥は、にっこりと笑う。
急に、涙が溢れていた。フレデリックは、つっと顔を逸らして掌で口を覆う。嗚咽を漏らさないように。
自分でも訳が判らなかった。ただ、思っただけなのに……。
このひとは、なんて綺麗なひとなんだろう――、て。
「どうしたの? お兄さんのこと、思いだしてしまった?」
などと優しく声をかけられたものだから、フレデリックはますます涙が止まらなくなってしまっていた。
カラーン、とドアベルを鳴らし、いつもとは違うドアを開ける。
「いらっしゃい!」
明るい声が店内に響く。
「お兄さん!」
熱を出して寝こんでいるはずの吉野の兄が、黒のウエストエプロンを腰に巻き、トレーを片手に立っている。
「熱は、大丈夫なんですか?」
唖然として訊ねると、「平気だよ。吉野に頼まれてきてくれたの? あいつ、根っから心配性なんだから!」
吉野の兄はちょっとはにかんだように微笑み、肩をすくめている。張りつめていた気が抜けて、フレデリックはカウンターの端にある太い柱にもたれかかった。
「――でも、無理をしちゃ駄目ですよ。病みあがりには違いないのですから」
吐息を漏らして姿勢を正し、遠慮がちに飛鳥の額に手を伸ばした。長く伸びたさらさらの前髪の下で、鳶色のアーモンドアイが無邪気に笑っている。
「ね、熱なんかないだろ? 吉野は、大袈裟なんだよ」
「ご主人、彼、熱があります。休ませてあげて下さい」
フレデリックはくるりと飛鳥に背を向け、カウンター内のジャックに声をかけた。
「なんだ、お前さん、調子が悪かったのか? それならそうと言ってくれりゃいいのに。かまわねえよ、休んでな」
「でも、今から忙しくなるランチタイムなのに」
飛鳥は慌てて首を振る。
「仕方がねぇよ。バイトが来なくて廻らねぇようなら、今日は閉めりゃいいんだ」
ジャックは顔をしかめて、さっさと上へあがれ、と追い払うように手をひらひらと振る。
「平気だよ、僕は――」
飛鳥はなおも食いさがっている。
本当、ヨシノの言った通りだ――。
フレデリックは苦笑しながらガウンとテールコートを脱いでカウンターの隅に置くと、「僕がお手伝いしますから」と優雅な微笑みをジャックに向け、物腰の柔らかさとは裏腹な意志の強そうな視線で同意を求めた。ジャックは首をすくめ、二ッと笑った。
「駄目だよ! エリオット校生が無許可でバイトしちゃ!」
「ご心配なく。ボランティア活動は推奨されていますから」
心配そうな視線を向けて制止する飛鳥ににっこりと笑顔で返し、フレデリックは早々とシャツの袖を捲りあげている。
こんなに大変だとは思わなかった――。
ようやく客足の切れてきた午後二時を過ぎる頃になって、フレデリックはやっと人心地ついて、今日は締め切っている二階席のソファーにドサリと腰をおろし、飛鳥を前に手足を投げだしていた。
「来てよかった。あなたにこんな仕事はさせられません。ちゃんと休めましたか? あなたの熱が酷くなっていたりしたら、僕がヨシノに怒られます」
喋りながら、遅いランチのカレーとサラダを急いで口の中に押しこんでいる。のんびりと食事している暇などないのだ。三時のティータイムにはまた観光客が増えてくる。
「ありがとう、たっぷり眠らせてもらったよ。それで、吉野はきみになんて言ったの?」
「あなたは苦痛に鈍感だから、馬鹿な真似をしないように見張っていてくれって」
気怠い疲労感から、つい口が滑っていた。いつものフレデリックなら気がついたものを――。
その上、にこにこと笑って座っている、このとても年上とは思えないふんわりとした不思議なひとに、「ははは、僕は見張られているのか。今日は吉野は来ないの? きみのこと、あいつ、すごく信頼しているんだね。僕のお守りを頼むくらいだもの」などとさり気なく褒められて、ますますフレデリックの口は軽くなってしまっていた。
「事件の事後処理があるので、彼、遅くなると思います。でも、来ますよ、きっと。あなたのこと、すごく心配していたもの」
「事件って? アレンの事かな?」
アレンの名前がでたので知っているものだとばかり思いこみ、フレデリックはアレンの誘拐事件のこと、マクドウェルのこと、自分の兄のことも、ことの顛末を洗いざらい話していた。無事に解決したからもう何も心配はいらない、と胸を張って。
「ありがとう。あいつには、こんなにいい友達がいるんだね。安心したよ――」
飛鳥は嬉しそうに笑っている。その笑顔があまりにも優しげで、どことなく女の子のように可愛らしくて、フレデリックは一瞬、目を見張っていた。
ふいに、飛鳥が長い前髪を邪魔そうにかき上げた。むきだしの額と、細められた切れ長の目に吸い寄せられる。目が離せない。時間が、ゆっくりと流れるようで――。
このひと……、
驚いたように自分をじっと見つめるフレデリックに、飛鳥は小首を傾げて眉毛を上げる。
「僕も、ニューヨークのオープンセレモニーの中継を見ました」
フレデリックは飛鳥を凝視したまま、唐突に告げた。
「あの宇宙、素晴らしかった」
「ありがとう」
飛鳥は、にっこりと笑う。
急に、涙が溢れていた。フレデリックは、つっと顔を逸らして掌で口を覆う。嗚咽を漏らさないように。
自分でも訳が判らなかった。ただ、思っただけなのに……。
このひとは、なんて綺麗なひとなんだろう――、て。
「どうしたの? お兄さんのこと、思いだしてしまった?」
などと優しく声をかけられたものだから、フレデリックはますます涙が止まらなくなってしまっていた。
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