胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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「アスカがいないわ」
 その萌えいずる新緑の瞳で、サラはヘンリーを凝視する。
「…………」
「アスカはどこ?」
 長い睫毛を瞬かせて、サラは疑問をそのまま口にする。辛そうに視線を逸らしたヘンリーのスーツの袖を引っ張り、小首を傾げている。
「ねぇ、ヘンリー、アスカがいないとつまらないの」
 ヘンリーはただ眉根をよせ、戸惑いを隠せないまま頷くしかない。




 月曜日の全体朝礼を終え、石畳の中庭に集まっていた生徒たちがそれぞれの学舎に散らばっていく中で、フレデリックは先ほどからずっと探していた目当ての人物の後ろ姿をようやく見つけ、周りをぬうようによけがら小走りに駆ける。

「ヨシノ!」
 足を止め、振り向いたその顔を見て、ほっと安堵の吐息が漏れる。
「今日も戻らないかと思っていたよ」
「そうしたかったんだけれどな、」と吉野は唇を尖らせて不満気に溜息をつく。
「飛鳥が、戻れって。まだ熱があるから傍にいるって言ったのにさぁ」
「お兄さん、大丈夫?」
「うん、いつものだから平気」

 吉野は肩をすくめてにっと笑う。だがその声も笑顔も、いつものようには覇気がない。

「僕は、午後の課外授業なら休めるよ。きみの時間が空くまでお兄さんの様子を看ていようか?」

 意外な申し出に驚いて吉野は立ち止まった。しばらくためらい、だが、その迷いを振り切るように微笑んで、頷く。

「頼めるか?」
「任せて!」

 フレデリックは満面の笑みで、吉野と掌をパンっと打ち合わせた。




「それで、どうなったの?」

 穏やかな陽光の下、サウードはベンチの上に胡坐をかき、のんびりと陽の温もりを楽しむように優雅に首を伸ばしている。まるで甲羅から頭を覗かせる亀のように無防備に――。

「退学者は十五名。生徒会から五名、ガラハッド寮から五名、十三の寮の内、八寮も手が伸びていたなんてな。モーガンの野郎、なかなかの商売人だったな」
「退学になった後は?」
「まぁ、ザ・ナインに編入はさすがに無理だろうな。でも金を積んで、どこか田舎のパブリックスクールにでも潜り込むんじゃないのか」
「危険はないの?」
「さぁ、どうだろうな?」
「消さなくていいの?」

 吉野は頬を膨らませ、サウードをまじかに覗きこむ。

「お前さぁ、そんな簡単にそんな怖いこと言うなよ」
「小者だと侮っていて、足元の小石に蹴つまづくことだってあるかもしれないよ」

 サウードはかすかな笑みでもって、吉野を見つめ返す。



「トヅキ! ここにいたのか」
 向いの回廊から早足に芝生を横切ってくるのはパトリック・ウェザーだ。緊張を孕んだ厳しい声音で呼ばれ、吉野はしかめっ面を向ける。パトリックの方も渋顔のままで、すっ、と小脇に挟んでいた新聞を吉野に差し出す。

「『イブニング・スタンダード』――って、これ、今日の?」
「これもきみの仕業かい?」

 赤く丸の付けられた記事に目を通し、吉野はふぅっと息をつく。

「まさか。訊ねるなら、セドリックあたりに訊けよ」
 新聞を返しながら、吉野は冷めた瞳をパトリックに向けた。
「監督生会議? 俺も参加?」
「銀ボタンの義務だ。夕食後、執務室に」
「OK」

 要件だけを告げると、バサリとローブを翻し、パトリックはすぐさま足早に立ち去った。



「な、」

 どこかいたたまれないような、そんな不安定な視線で吉野はパトリックのはためくローブを見送りながら、サウードに同意を求める。だが、意味の判らないサウードは、不思議そうに首を傾げるしかない。

「いいように使われただけの、馬鹿なお坊ちゃん連中は放っておいていいんだよ」

 吉野はベンチの背もたれに背中を預け、遠く透き通る空を見あげる。

「さっきの記事な、ブライアン・マクドウェルは自室で拳銃自殺したって」
「自殺?」
「どうだろうな」

 訝しげに目を細めたサウードを見るともなく見やり、吉野は哀しげな口許を緩めて嗤った。

「あいつだって、権力者の坊ちゃん連中をメシの種にしてたんだ、それくらいの覚悟はしてたんじゃないの?」

 サウードは、表情を変えることなく吉野から目を逸らし、黙ったまま空を見あげる。


「でも、馬鹿だよなぁ――。こんなエリート養成校に入学して、卒業して、何やってんだろな? 紳士になり損ねたら、あんなふうに道を踏み外しちまうのかなぁ――」
「あんな奴に同情するのかい?」

 サウードは感情の読めない声で呟いた。

「だって、哀れだろ? マクドウェルは、どうしてこの学校に固執していたのかな? て、考えるとさぁ……。金持ちの坊ちゃん連中がいいカモだった、てだけじゃないのかな――、てさ」

 吉野は自嘲的に小さく嗤い、溜息交じりに言葉を継ぐ。

「俺、今でもこの学校が好きになれない。……でも、ここにいる奴らのほとんどが、この学校に入れただけで人生の勝ち組だって思ってる。俺、ここの連中を未だに理解できないし、好きにもなれないよ」

 ふっと吉野は唇を結んだが、サウードは特に何も言わない。だからまた、吉野は胸の内を吐きだすように言葉に変えた。

「だけどさ、フレッドの兄貴みたいに、そんな奴らのために体張って命がけで闘っていた奴もいる。ヘンリーだってそうだろ? フレッドの兄貴が死んだ時、皆、兄貴フランクが金のためにヘンリーを騙して、ヘンリーに嫌われて自殺したって言ってたんだぞ。――誰ひとり、真実を探そうとしやしないんだ。誰も、目の前のフランクを信じようとしなかったんだ。ヘンリーがここの連中を見限る訳だよ。そんなくだらない学校なんだよ、ここは。腐ってるんだ。それなのに――、それを自分でもっともっと腐らせているのにさ、それでも、この場所から離れられないほど、ここに囚われてたんだ、マクドウェルは――」


 かつて自分が身を置いた寮を麻薬密売ルートの拠点にして、生徒会役員や監督生などの、ヒエラルキーのトップだけをターゲットにしたマクドウェルのやり方に、並々ならぬ執着と復讐心が見え隠れしている、と吉野にはなぜかそんなふうに思えてならなかったのだ。ただ金を稼ぐだけなら、もっと上手いやり方がいくらでもあったはずだ、と。金のためだけじゃない、ここの権力志向の体制そのものをマクドウェルは憎んでいたのではないか、そう思わずにはいられなかったのだ。



「僕には、理解できないな」

 サウードは眉をひそめてぽつりと呟いた。

「あいつはきみを脅迫し、フレデリックに怪我を負わせ、アレンの身を危険に晒した。死んでしかるべき犯罪者だよ。なぜきみは敵に同情するようなことを言うの?」
「たぶんな――、俺の心はここの連中よりも、ずっとあいつの方に近いからだと思う」

 吉野は困ったように唇を歪め、頭をかいた。どうしようもないんだ、と目を細めて、彼方に広がる空を見やりながら――。





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