胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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「きみが素直に従ってくれて、非常に嬉しいよ」

 だだっ広いボート小屋の中央で、吉野は黒ずくめのスーツを着たサングラスの男と対峙していた。男は一人でやってきた吉野に、にこやかな笑みを浮かべて右手を差しだす。
 吉野はポケットに手をつっ込んだまま、相手を睨めつけている。

「約束通りちゃんと来ただろ? あいつを返せよ」
「きみが、この書類にサインをしてくれたらね」

 男は内ポケットから取りだした書類を吉野の眼前に突きつける。吉野は小さく吐息をついてその書類を受け取ると、ざっと目を通した。そして間を置かずに、「俺、未成年だってのに、雇用契約できるわけないだろ」と深々と溜息をつく。

「なぁ、あんたのボスに言ってくれよ。俺から手を引けって」
 ねだるように唇を尖らせる吉野に、男は肩を揺すって哄笑する。
「それは困ったね。私の仕事ではないなぁ。きみはそれにサインをする。私はそれを受け取って終わりだ。たったそれだけで、きみの友人も無事に戻る。お互い万々歳じゃないか」
「それからあんたは誘拐罪で刑務所行き。まぁ、あんたが捕まったって、オズボーンは痛くも痒くもないだろうけど」
 吉野はひょいっと肩をすくめ、にやっと笑って男を見つめた。

「なぁ、あんたのことは見逃してあげるからさぁ、俺の学校から手を引いてくんない?」
「何の冗談かな?」

 男はクスクスと笑いながら両手を広げる。

「俺がここに来たのは、あんたと交渉するためだよ。ブライアン・マクドウェル。もう一回言うよ。この学校から手を引いて欲しい」
「…………」

 口許から笑みを消し、男は光を反射する黒いサングラスの内側から吉野を睨めつけた。吉野は手にした書類をびりびりと破り捨て、申し訳なさそうに小首を傾げる。

「あんた、有名になり過ぎたんだよ」
「坊や、きみは寝ぼけているのかな? 切り札はこちらにあることを忘れてはいないかい?」

 マクドウェルが指をパチンと弾くと、片隅に積み上げられている壊れたボートの陰から、エリオットの制服を着た上級生が二人、目隠しをし、猿ぐつわをかませたアレンを両脇に挟んで引きずるようにして出てきた。二人の灰色のスラックスと赤いウエストコートに、吉野はまた溜息だ。

「この子の綺麗な顔に傷のひとつでもつけてやれば、きみも目が覚めるんじゃないかな?」

 マクドウェルは口許に酷薄な笑みを浮かべて、脅しつけるように声を低めた。

「フィリップ!」

 アレンを捕まえている一人が声を上げて呼んだ。入り口から駆け寄って来たのは、あのフランスからの留学生だ。

「ナイフを出せ」
「はい」

 素直に頷くフィリップ。

 ぐらりと揺れる視界に、マクドウェルは両膝をつき目を剥いて吉野を見あげた。利き腕は背中に廻され捻りあげられ、首許にナイフが突きつけられている。捕まれた手首には自分よりも一回りは小さく細い指の感触があるのに、痛みで痺れ、身動きひとつできなかった。

「動くなよ。それから、銃も出すなよ。天窓から俺のツレが、お前の眉間を狙っているからな。下手に動くと、あいつ、M国の近衛兵だからさ、容赦なく撃ち抜くぞ」

 吉野は同情するように、マクドウェルを見おろした。サングラスの下の瞳が天窓を見あげる。ライフル銃のスコープがキラリと光っている。アレンの傍らに立っていたエリオット校生も、いつの間にかアレンの腕を放し、唖然と立ち尽くしたまま天窓を見つめていた。

「だからちゃんと教えてやったのに。サウード皇太子殿下のご友人に手を出したら不敬罪だぞ、って」

 吉野は呆れたようにそのふたりを一瞥し、アレンの背後に廻って手首を戒めていた紐を解き、目隠しと猿ぐつわを外した。


 吉野が一歩踏み出すと同時に逃げだした二人は、少しだけ開けられていた入り口の前で急に立ち止まり、じりじりと後退し始めた。ひとり、またひとりと、各寮の寮長が隙間を擦り抜けるように入ってくる。街中にある十二の寮長と学内のカレッジ寮寮長が、入り口を塞ぐように出揃っている。その間をぬって、パトリックが現れ吉野に歩み寄った。

「表でお寝んねしている三人は、取りあえず縛りあげて見張りをつけておいた。こいつも縛っておくかい?」
「うん、そうしてくれ。このままじゃ、いつイスハ―クがぶっぱなすんじゃないかと、気が気じゃない」

 吉野は苦笑いしながら、パトリックに向かい合った。

「それに、まだ交渉が済んでいないんだ」



 フィリップは、ようやっとマクドウェルの首許からナイフを引いた。だがパトリックが後ろ手に廻したマクドウェルの手首を、アレンを戒めていた紐で縛りあげている間中、斜め横に廻っていつでも動けるようにと、刃を向けている。
 吉野はしゃがんでマクドウェルの顔を覗きこみ、にっこりする。

「なぁ、さっきの返事は? この学校から手を引いてくれるか? あんたの部下にも、もう手を出させないで欲しいんだ」
「何の話だ」

 マクドウェルは、諦めたように呟いた。

「あんたがこの学校に敷いた麻薬密売ルートの話だよ」

 吉野は、サングラスの下から自分を見つめているであろう相手の目を、じっと見つめ返して言葉を続けた。

「あんたが手下に使っていた連中は、もれなく退学だ。いちから開拓するのも大変だろ? いい加減、この辺で手を引いてくれ。――俺の名前を使ってやった証券詐欺の方は、不問にするからさ。あれは、こっちに賠償請求するしね」

 吉野はおもむろにマクドウェルの胸元に手を伸ばすと、光沢のある派手なネクタイを掴み、ネクタイピンを口許に寄せる。

「……オズボーン、聞こえているんだろう? 詰めが甘すぎたな。それにあんた、情報収集も雑すぎるよ。あんたの行動、ジェームズ・テイラーに筒抜けだったぞ!」

 首を引っ張られ、不愉快そうに眉をしかめるマクドウェルにはかまわず、吉野は声高にしゃべり続ける。

「あんたの手口、ここじゃ通用しないよ。もう俺なんかにかまってないでさ、報復に備えておいた方がいい。賠償請求は後で回すから、よろしく頼むよ」

 ネクタイを離すと、吉野はしゃがんだ膝の上で頬杖をついて、もう一度マクドウェルに微笑みかけた。

「まだ、うん、て言わないの?」
 吉野は顔を上げ、マクドウェルの背後に立つフィリップを呼んだ。
「フィリップ、どうしようか? ――フィリップ・ド・パルデュ!」
 

「解った! 手を引く。今後一切この学校には手を出さない! 約束する」

 その名前に急に顔色を変え、マクドウェルは声を上ずらせて叫んだ。

「それから、」
「まだあるのか!」

 先ほどまでのふてぶてしさはすっかり鳴りを潜め、マクドウェルは慌てふためいている。

「こいつに一発殴られてやって」

 吉野は立ち上がり、いつの間にか紛れ込み、アレンを抱きしめて声を殺して泣いているフレデリックの肩を叩いた。

「フレッド、こいつがお前の兄貴のかたきの元締めだ」




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