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五章
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「ヨシノは、殿下を選んだって?」
盤の横に置かれた白のクイーンを指でトントンと叩きながら、アーネストはローテーブルの上に置かれたチェス盤を、眉間に皺をよせた難しい顔で睨みながら尋ねた。
「そのようだね。残念だよ」
ヘンリーはひじ掛けに頬杖をついてもたれ、その言葉とは裏腹な涼し気な笑顔をみせている。
「意地悪だねぇ、きみは……。そんなにあの温室が気にくわないのかい?」
「心外だな、そんな訳ないだろ?」
微笑み返すその顔をちらりと見あげ、アーネストはまた、身を乗りだすようにして盤上に視線を戻す。
「そうなるように、仕向けたくせに」
「僕じゃ、太刀打ちできないかもしれないからね」
ヘンリーの珍しく弱気な発言が信じられず、アーネストは面を上げて視線を返す。
「――そんな、厄介な相手なの?」
ヘンリーは緩く微笑えむだけで、答えない。
「これ、僕に勝ち筋あるの?」
悩みぬいたあげく、アーネストはやっと盤上から顔を上げた。返事を聞くまでもない。諦めて思いきり伸びをする。
「ないよ」とヘンリーは、クスクスと笑って答える。
「少しは手加減させろよ。ゲームにならないだろ? 白黒はっきりとつけすぎるのは、紳士的じゃないよ」
「淑女は何をやっても許されるよ。それにほら、ちょうどいい時間になったろう? 彼らが来るまでの暇つぶしって、初めに言ったじゃないか」
ザクザクと砂利を踏む車の走行音が近づいてきて、表で止まる。
「お見事!」
アーネストは、ため息交じりの苦笑を浮かべて立ち上がった。
三人が応接間に入って来た時、ヘンリーはもうその場所にはいなかった。
「ヘンリー、アスカを呼んで!」
アーネストは吹き抜けの二階フロアに声を上げる。
「僕はここだよ」
テラスからヘンリーが答える。開け放たれたガラス戸を閉め、居間に戻ると、その場にいる彼らに困ったように肩をすくめてみせる。
「さっきまでテラスにいたんだけどね。どこに行ったんだろうね、あの二人」
「ヘンリー」
頭上から声がかかった。
「おいで」
ほっとしたように微笑んで、ヘンリーは両手を伸ばした。サラが、ロートアイアンの手摺を乗り越え、そのままひらりと身体を落とす。その腕めがけて。ヘンリーが、しっかりと彼女の身体を抱きとめる。
「サラ、ご挨拶は? きみの義弟だよ」
唖然とその様子を見つめていたアレンが、クスクスと笑い崩れながら会釈する。
「お前、全然大きくならないな。ちゃんと食ってんの?」
吉野は呆れ返りながら、不躾にじろじろとサラの小さな細い身体を眺め、眉をひそめる。
「お前もさ、飛鳥と同じなんだろ? ぶどう糖さえ摂っときゃ脳は働く、的な?」
「本当に失礼だね、きみは。僕が彼女に食事させていないような言いがかりはやめてくれるかい?」
「摂りこんだ栄養、全部、脳で消費しているんだろ? 糖分以外のものを食わせろよ」
「ほら、サラ、甘いものばかり食べるな、って」
サラは、自分について交わされている会話を聞いているのかいないのか、ヘンリーにしがみついたまま、そのきらきらとしたライムグリーンの瞳を、じっとアレンを据えていた。アレンはその露骨な視線にどう応えたものかと、曖昧な笑みを口元に浮かべたまま思案しているようだった。
そのうち、サラはふっと視線をヘンリーに戻した。
「すごいのね、遺伝子って。昔のヘンリーにそっくり。私とヘンリーはちっとも似ていないのに」
「サラは、父に似ているからね」
ヘンリーは優しく微笑んで応える。
そんな会話に不快そうに眉をよせたのは、アレンではなく吉野だった。言い返そうと口を開きかけた吉野の腕を、アレンが押さえて止めた。わずかに首を傾けて頬笑みながら。
「飛鳥は?」
吉野は腹立たしさを殺し、視線を背けて手短に訊ねた。
「温室」
答えたのはサラだ。
「行こう」
無造作にアレンの腕を掴むと、吉野はテラスに続くガラス戸を開けた。
「ムカつく」
テラスから石段を上がり、緩やかな傾斜のある小道に出たところで、吉野は吐きすてるように呟いた。
「なんで?」
アレンは穏やかな声音でにこにこと尋ねる。
「だって、お前の、」
「僕は嬉しかったよ」
吉野の言葉に重ねるように、アレンは首を横に振った。
「彼女のあの瞳がソールスベリーの証であるように、僕と同じ兄の瞳は、フェイラーの血筋である証明なんだ、僕は確かにあの人の弟なんだって、初めて思えたよ。兄がどれほど嫌がろうと、変えようがない事実なんだって」
静かで落ち着いた口調のアレンに、吉野は少し驚いたように目を瞠る。
「僕も、兄も、何を怖れていたんだろうね? 兄が心から大切に思っている彼女を、僕も同じように愛せると思う。だって、僕が彼女を羨んでいたように、彼女もまた僕を羨んでいたんだ、って解ったもの」
どこに生れ落ちるかなんて、子どもには選べない。アレンはずっとそう思っていた。だが親を恨み、他を羨んで自分を憐れむだけだった彼に、吉野は教えてくれたのだ。自分で選べ、と。そしてすべてを吉野がくれた。父親を。ソールスベリーの名を。そしてアレンを兄と義姉に結びつけてくれた――。今はまだ家族と呼べるようなものではないけれど、彼がずっと欲しくてたまらなかったものを、吉野はこともなげに与えてくれたのだ。
今日のこの日に、ここにいることを、一体これまでのアレンに想像できただろうか?
彼にとって吉野はまさに、『You can fly(きみは奇跡を起こせる)』なのだ――。
吉野は不思議そうに、微笑むアレンの横顔を見つめ、次いで俯いて「うん」とだけ応えた。そしてもう何も言わずに、木立の奥へ奥へと黙々と足を進めていった。
「吉野も、アレンも、おかえり!」
温室の前で、ぶ厚いダッフルコートを着てスケッチブックを抱えた飛鳥が、手を振っている。
「ただいま!」
二人は手を振り返し、そのままふっと何かを追うように視線を漂わせた。どちらからともなく立ち止まり、そろって掌を空に向ける。
「雪だ」
「初雪だね」
「積もるかな」
「積もるといいね。ホワイトクリスマスになるよ」
「あー、忘れていた! プレゼント用意してない! カードも書いていない!」
吉野が大慌てで叫ぶ。アレンは余裕の顔で、ふふっと笑った。
「それは大変だね!」
「飛鳥! カード書いたか?」
吉野はくしゃっと顔をしかめ、唇を尖らせて訊ねる。
「もちろん!」
当然のように返ってきた言葉に、吉野は頭を抱えておおげさに溜息をついた。
盤の横に置かれた白のクイーンを指でトントンと叩きながら、アーネストはローテーブルの上に置かれたチェス盤を、眉間に皺をよせた難しい顔で睨みながら尋ねた。
「そのようだね。残念だよ」
ヘンリーはひじ掛けに頬杖をついてもたれ、その言葉とは裏腹な涼し気な笑顔をみせている。
「意地悪だねぇ、きみは……。そんなにあの温室が気にくわないのかい?」
「心外だな、そんな訳ないだろ?」
微笑み返すその顔をちらりと見あげ、アーネストはまた、身を乗りだすようにして盤上に視線を戻す。
「そうなるように、仕向けたくせに」
「僕じゃ、太刀打ちできないかもしれないからね」
ヘンリーの珍しく弱気な発言が信じられず、アーネストは面を上げて視線を返す。
「――そんな、厄介な相手なの?」
ヘンリーは緩く微笑えむだけで、答えない。
「これ、僕に勝ち筋あるの?」
悩みぬいたあげく、アーネストはやっと盤上から顔を上げた。返事を聞くまでもない。諦めて思いきり伸びをする。
「ないよ」とヘンリーは、クスクスと笑って答える。
「少しは手加減させろよ。ゲームにならないだろ? 白黒はっきりとつけすぎるのは、紳士的じゃないよ」
「淑女は何をやっても許されるよ。それにほら、ちょうどいい時間になったろう? 彼らが来るまでの暇つぶしって、初めに言ったじゃないか」
ザクザクと砂利を踏む車の走行音が近づいてきて、表で止まる。
「お見事!」
アーネストは、ため息交じりの苦笑を浮かべて立ち上がった。
三人が応接間に入って来た時、ヘンリーはもうその場所にはいなかった。
「ヘンリー、アスカを呼んで!」
アーネストは吹き抜けの二階フロアに声を上げる。
「僕はここだよ」
テラスからヘンリーが答える。開け放たれたガラス戸を閉め、居間に戻ると、その場にいる彼らに困ったように肩をすくめてみせる。
「さっきまでテラスにいたんだけどね。どこに行ったんだろうね、あの二人」
「ヘンリー」
頭上から声がかかった。
「おいで」
ほっとしたように微笑んで、ヘンリーは両手を伸ばした。サラが、ロートアイアンの手摺を乗り越え、そのままひらりと身体を落とす。その腕めがけて。ヘンリーが、しっかりと彼女の身体を抱きとめる。
「サラ、ご挨拶は? きみの義弟だよ」
唖然とその様子を見つめていたアレンが、クスクスと笑い崩れながら会釈する。
「お前、全然大きくならないな。ちゃんと食ってんの?」
吉野は呆れ返りながら、不躾にじろじろとサラの小さな細い身体を眺め、眉をひそめる。
「お前もさ、飛鳥と同じなんだろ? ぶどう糖さえ摂っときゃ脳は働く、的な?」
「本当に失礼だね、きみは。僕が彼女に食事させていないような言いがかりはやめてくれるかい?」
「摂りこんだ栄養、全部、脳で消費しているんだろ? 糖分以外のものを食わせろよ」
「ほら、サラ、甘いものばかり食べるな、って」
サラは、自分について交わされている会話を聞いているのかいないのか、ヘンリーにしがみついたまま、そのきらきらとしたライムグリーンの瞳を、じっとアレンを据えていた。アレンはその露骨な視線にどう応えたものかと、曖昧な笑みを口元に浮かべたまま思案しているようだった。
そのうち、サラはふっと視線をヘンリーに戻した。
「すごいのね、遺伝子って。昔のヘンリーにそっくり。私とヘンリーはちっとも似ていないのに」
「サラは、父に似ているからね」
ヘンリーは優しく微笑んで応える。
そんな会話に不快そうに眉をよせたのは、アレンではなく吉野だった。言い返そうと口を開きかけた吉野の腕を、アレンが押さえて止めた。わずかに首を傾けて頬笑みながら。
「飛鳥は?」
吉野は腹立たしさを殺し、視線を背けて手短に訊ねた。
「温室」
答えたのはサラだ。
「行こう」
無造作にアレンの腕を掴むと、吉野はテラスに続くガラス戸を開けた。
「ムカつく」
テラスから石段を上がり、緩やかな傾斜のある小道に出たところで、吉野は吐きすてるように呟いた。
「なんで?」
アレンは穏やかな声音でにこにこと尋ねる。
「だって、お前の、」
「僕は嬉しかったよ」
吉野の言葉に重ねるように、アレンは首を横に振った。
「彼女のあの瞳がソールスベリーの証であるように、僕と同じ兄の瞳は、フェイラーの血筋である証明なんだ、僕は確かにあの人の弟なんだって、初めて思えたよ。兄がどれほど嫌がろうと、変えようがない事実なんだって」
静かで落ち着いた口調のアレンに、吉野は少し驚いたように目を瞠る。
「僕も、兄も、何を怖れていたんだろうね? 兄が心から大切に思っている彼女を、僕も同じように愛せると思う。だって、僕が彼女を羨んでいたように、彼女もまた僕を羨んでいたんだ、って解ったもの」
どこに生れ落ちるかなんて、子どもには選べない。アレンはずっとそう思っていた。だが親を恨み、他を羨んで自分を憐れむだけだった彼に、吉野は教えてくれたのだ。自分で選べ、と。そしてすべてを吉野がくれた。父親を。ソールスベリーの名を。そしてアレンを兄と義姉に結びつけてくれた――。今はまだ家族と呼べるようなものではないけれど、彼がずっと欲しくてたまらなかったものを、吉野はこともなげに与えてくれたのだ。
今日のこの日に、ここにいることを、一体これまでのアレンに想像できただろうか?
彼にとって吉野はまさに、『You can fly(きみは奇跡を起こせる)』なのだ――。
吉野は不思議そうに、微笑むアレンの横顔を見つめ、次いで俯いて「うん」とだけ応えた。そしてもう何も言わずに、木立の奥へ奥へと黙々と足を進めていった。
「吉野も、アレンも、おかえり!」
温室の前で、ぶ厚いダッフルコートを着てスケッチブックを抱えた飛鳥が、手を振っている。
「ただいま!」
二人は手を振り返し、そのままふっと何かを追うように視線を漂わせた。どちらからともなく立ち止まり、そろって掌を空に向ける。
「雪だ」
「初雪だね」
「積もるかな」
「積もるといいね。ホワイトクリスマスになるよ」
「あー、忘れていた! プレゼント用意してない! カードも書いていない!」
吉野が大慌てで叫ぶ。アレンは余裕の顔で、ふふっと笑った。
「それは大変だね!」
「飛鳥! カード書いたか?」
吉野はくしゃっと顔をしかめ、唇を尖らせて訊ねる。
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