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五章
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目を開けると満天の星。
澄みわたる冬の夜陰に黒く溶けるなだらかな草地の連なりが、天と地を明確に分けている。
喉に刺さるような冷気を吸いこみ、ゆっくりと吐きだしながら、両手で囲ってその白さを確かめる。
「本当に行かなくて、良かったの?」
「うん」
葉のすっかりと落ちきった欅の大枝に跨り、その幹に背をあずけて、サウードは隣に腰かけている吉野に静かな声で訊ねた。
「二人とも、今頃、がっかりしているよ」
「西洋音楽は好きじゃないって言ってある」
「それでもだよ。今日は特別だもの」
一年中といってもいいほど何度も催される発表会の中でも、クリスマスコンサートは最も栄誉ある晴れ舞台だ。栄えある演奏者に選ばれたアレンもクリスも、とても力を入れていた。今朝だって、絶対に来るようにと、吉野は念を押されていたはずだ。
だが、月明りに照らされる吉野のどこか辛そうな表情に、サウードはそれ以上何も言わずに押し黙る。
「俺さぁ、ガキの頃ほとんど学校へ行っていなかったんだ」
それまでじっと空を睨めつけるように見ていた吉野は、身体ごと向きを変え、枝を跨いでサウードと向き合うと、意を決したように話し始めた。サウードはわずかに驚いたように目を見開き、黙って頷く。
「朝、ランドセルしょって学校に行くだろ。教室には顔だけ出して、すぐに保健室に行くんだ。で、そっから抜けだして、木村の爺ちゃんの家に行ってさ。他のこと、勉強してた。初めの内は、父さんも飛鳥も、このことは知らなかったんだ」
サウードは、また頷くだけの相槌を打つ。
「小五……。十一歳くらいまでそんな感じでさ。木村の爺ちゃんが米国に戻っちまって、音信不通になってさ。やっとそれから、普通に学校に行くようになったんだ」
「その間、きみは何をしていたの?」
「金融工学のプログラミング」
サウードは眉をひそめた。
「それでな、ヘンリーが、自分のところのファンドと雇用契約しろって、契約書を送って来たんだ」
「契約書――」
「米国に行く前に」
吉野は、息をついて肩をすぼめる。
「俺に金融取引を教えた奴な、米国にいるんだ。俺の素性がバレたんだと思う」
「え?」
「俺、ネットの中でしか、そいつに会ったことないんだ。でも、ずっと米国に来いって言われてたんだ」
「行くの?」
吉野は、首を横に振った。
「ガキの頃はそれでも楽しんでたけどさ、もう興味ない。でも、あいつらきっと、拳銃を突きつけてでも俺にちょっかいをかけてくる」
互いに、いく分緊張した面持ちで眼と眼を交わしていた。先に目を逸らし、俯いて自嘲的に嗤ったのは吉野の方だ。
「俺さぁ、ヘンリーに共依存だって言われた。――共依存って、意味判る?」
サウードは首を横に振る。
「元々は、アルコール依存症の家族のな――。つまりな、世話しなきゃいけない患者がいて、その家族が相手の世話をすることで、自分の存在価値を見出して、相手を愛情という名のもとに支配しようとする。そんな関係のことを言うんだよ。俺と、飛鳥がそうだって」
「そんな……、」
「蘇芳の母ちゃんにも、同じこと言われた。臨床心理士なんだよ」
心配そうに眉をひそめるサウードに寂しげな笑みを向け、吉野はとつとつと話し続ける。
「俺が今まで出会った中で、こいつには絶対に勝てない、って思った才能の塊みたいな奴が三人いてさ、まず、死んだ祖父ちゃん、それから米国の金融の師匠、でもダントツは、やっぱり飛鳥なんだ。……飛鳥はさ、誰よりも聡明で、明晰で、冷静なんだ。それこそコンピューターみたいに。でも、誰よりも優しい。――その飛鳥がさ、たかだか外国人のスパイなんかに騙される訳がないんだ」
吉野は息を呑み込んで、ぐっと奥歯を噛みしめた。そしてやがて、震える声を絞りだすようにしてその先を続けた。
「飛鳥はさ、判っていてあの薬を飲んでたんだ。あいつらの注意が俺に向かないように、適当に、当たり障りのない情報を流しながら――。飛鳥がどんな想いで俺を守ってくれていたか、判っていたのに――。俺はすぐ感情に流されてドジを踏むんだ。……もう、飛鳥の重しになりたくない」
眉を寄せ情けなさそうに吉野は唇を噛む。
「なぁ、サウード、俺を守ってくれよ。そしたら、俺、お前を必ず王位につけてやるよ。お前のあの鬱陶しい従兄弟も、すぐにでも黙らせてやるからさ」
「解った。どうすればいい?」
サウードは静かな瞳で、吉野を見つめ返し速やかな返事を返した。
「ヘンリーのと同じ条件で、俺を雇ってくれるか?」
「了解」
サウードの迷いのない漆黒の瞳から目を逸らし、吉野は肩を震わせて笑った。
「お前、また二つ返事で――。せめて契約書くらいみろよ」
「きみを信じているから。でも、ヘンリー卿を断ることになってもかまわないの?」
「うん。お前なら文句ないって」
「ありがとう、僕を頼ってくれて」
サウードは、薄闇の中、白い歯を見せてにっこりする。
「お前しかいないよ、こんなことを頼めるの」
吉野も首を傾けて、にっと笑う。
「俺、共依存者だからな。アレンやクリスといると、つくづくあいつらを飛鳥の替わりにしているんだな、って自分でも情けなくなる。――あ、あいつらが来た」
「怒られに行きますか」
顔を見合わせて苦笑し合うと、サウードは地面に向かって声を上げた。
「イスハ―ク、降りるから灯りを点けて」
ぼんやりと照らされる地面めがけて、サウードはひらりと跳び降りた。
ヘンリーは飛鳥にこう言った。『誰もが僕を支配したがる』、と。
そして俺には、『人間は支配されたがる生き物だ』と。
つまるところヘンリーの崇拝者たちは、あいつに支配され、従うことでもって自らの愛を示し、その愛でもって、あいつを自分たちに縛りつけ、支配しようとした、ということだろうか――。
だからこそ、飛鳥は、ああも対等にこだわるんだ。ともすれば陥りがちな罠にかかり、囚われないために――。
吉野は、木々の間をぬって近づく小さな灯りを見、「飛ぶぞ」
と一声かけると、思いきりよく足元の枝を蹴っていた。
澄みわたる冬の夜陰に黒く溶けるなだらかな草地の連なりが、天と地を明確に分けている。
喉に刺さるような冷気を吸いこみ、ゆっくりと吐きだしながら、両手で囲ってその白さを確かめる。
「本当に行かなくて、良かったの?」
「うん」
葉のすっかりと落ちきった欅の大枝に跨り、その幹に背をあずけて、サウードは隣に腰かけている吉野に静かな声で訊ねた。
「二人とも、今頃、がっかりしているよ」
「西洋音楽は好きじゃないって言ってある」
「それでもだよ。今日は特別だもの」
一年中といってもいいほど何度も催される発表会の中でも、クリスマスコンサートは最も栄誉ある晴れ舞台だ。栄えある演奏者に選ばれたアレンもクリスも、とても力を入れていた。今朝だって、絶対に来るようにと、吉野は念を押されていたはずだ。
だが、月明りに照らされる吉野のどこか辛そうな表情に、サウードはそれ以上何も言わずに押し黙る。
「俺さぁ、ガキの頃ほとんど学校へ行っていなかったんだ」
それまでじっと空を睨めつけるように見ていた吉野は、身体ごと向きを変え、枝を跨いでサウードと向き合うと、意を決したように話し始めた。サウードはわずかに驚いたように目を見開き、黙って頷く。
「朝、ランドセルしょって学校に行くだろ。教室には顔だけ出して、すぐに保健室に行くんだ。で、そっから抜けだして、木村の爺ちゃんの家に行ってさ。他のこと、勉強してた。初めの内は、父さんも飛鳥も、このことは知らなかったんだ」
サウードは、また頷くだけの相槌を打つ。
「小五……。十一歳くらいまでそんな感じでさ。木村の爺ちゃんが米国に戻っちまって、音信不通になってさ。やっとそれから、普通に学校に行くようになったんだ」
「その間、きみは何をしていたの?」
「金融工学のプログラミング」
サウードは眉をひそめた。
「それでな、ヘンリーが、自分のところのファンドと雇用契約しろって、契約書を送って来たんだ」
「契約書――」
「米国に行く前に」
吉野は、息をついて肩をすぼめる。
「俺に金融取引を教えた奴な、米国にいるんだ。俺の素性がバレたんだと思う」
「え?」
「俺、ネットの中でしか、そいつに会ったことないんだ。でも、ずっと米国に来いって言われてたんだ」
「行くの?」
吉野は、首を横に振った。
「ガキの頃はそれでも楽しんでたけどさ、もう興味ない。でも、あいつらきっと、拳銃を突きつけてでも俺にちょっかいをかけてくる」
互いに、いく分緊張した面持ちで眼と眼を交わしていた。先に目を逸らし、俯いて自嘲的に嗤ったのは吉野の方だ。
「俺さぁ、ヘンリーに共依存だって言われた。――共依存って、意味判る?」
サウードは首を横に振る。
「元々は、アルコール依存症の家族のな――。つまりな、世話しなきゃいけない患者がいて、その家族が相手の世話をすることで、自分の存在価値を見出して、相手を愛情という名のもとに支配しようとする。そんな関係のことを言うんだよ。俺と、飛鳥がそうだって」
「そんな……、」
「蘇芳の母ちゃんにも、同じこと言われた。臨床心理士なんだよ」
心配そうに眉をひそめるサウードに寂しげな笑みを向け、吉野はとつとつと話し続ける。
「俺が今まで出会った中で、こいつには絶対に勝てない、って思った才能の塊みたいな奴が三人いてさ、まず、死んだ祖父ちゃん、それから米国の金融の師匠、でもダントツは、やっぱり飛鳥なんだ。……飛鳥はさ、誰よりも聡明で、明晰で、冷静なんだ。それこそコンピューターみたいに。でも、誰よりも優しい。――その飛鳥がさ、たかだか外国人のスパイなんかに騙される訳がないんだ」
吉野は息を呑み込んで、ぐっと奥歯を噛みしめた。そしてやがて、震える声を絞りだすようにしてその先を続けた。
「飛鳥はさ、判っていてあの薬を飲んでたんだ。あいつらの注意が俺に向かないように、適当に、当たり障りのない情報を流しながら――。飛鳥がどんな想いで俺を守ってくれていたか、判っていたのに――。俺はすぐ感情に流されてドジを踏むんだ。……もう、飛鳥の重しになりたくない」
眉を寄せ情けなさそうに吉野は唇を噛む。
「なぁ、サウード、俺を守ってくれよ。そしたら、俺、お前を必ず王位につけてやるよ。お前のあの鬱陶しい従兄弟も、すぐにでも黙らせてやるからさ」
「解った。どうすればいい?」
サウードは静かな瞳で、吉野を見つめ返し速やかな返事を返した。
「ヘンリーのと同じ条件で、俺を雇ってくれるか?」
「了解」
サウードの迷いのない漆黒の瞳から目を逸らし、吉野は肩を震わせて笑った。
「お前、また二つ返事で――。せめて契約書くらいみろよ」
「きみを信じているから。でも、ヘンリー卿を断ることになってもかまわないの?」
「うん。お前なら文句ないって」
「ありがとう、僕を頼ってくれて」
サウードは、薄闇の中、白い歯を見せてにっこりする。
「お前しかいないよ、こんなことを頼めるの」
吉野も首を傾けて、にっと笑う。
「俺、共依存者だからな。アレンやクリスといると、つくづくあいつらを飛鳥の替わりにしているんだな、って自分でも情けなくなる。――あ、あいつらが来た」
「怒られに行きますか」
顔を見合わせて苦笑し合うと、サウードは地面に向かって声を上げた。
「イスハ―ク、降りるから灯りを点けて」
ぼんやりと照らされる地面めがけて、サウードはひらりと跳び降りた。
ヘンリーは飛鳥にこう言った。『誰もが僕を支配したがる』、と。
そして俺には、『人間は支配されたがる生き物だ』と。
つまるところヘンリーの崇拝者たちは、あいつに支配され、従うことでもって自らの愛を示し、その愛でもって、あいつを自分たちに縛りつけ、支配しようとした、ということだろうか――。
だからこそ、飛鳥は、ああも対等にこだわるんだ。ともすれば陥りがちな罠にかかり、囚われないために――。
吉野は、木々の間をぬって近づく小さな灯りを見、「飛ぶぞ」
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