胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 シナモンの甘く深いコクのある香りに、ぼんやりとした頭から霧が晴れるように視界が鮮明になっていく――。
 飛鳥は少し驚いたように、コトリ、と目の前のカウンターに置かれた湯気の立つポリッジの皿を見、次いでその皿を供した吉野を見あげる。

「お前、英国料理は嫌いじゃなかったの?」

 もう一度、林檎とバナナのハニーローストののったいかにも甘そうなオーツ麦のお粥に視線を落とす。


 ポリッジは英国の伝統料理だ。もとはスコットランドの朝食だが、イングランドでも人気が高い。でも、スコットランドでは塩味を、イングランドでは砂糖や蜂蜜で甘くしたものを食べるらしい。こんな食べ物一つにも、認めながらも、仲の悪い相手には何か当てこすらなければ気が済まない、イギリス人の性格が垣間見える。

 つらつらとそんな事を考えていると、「食べろよ。俺が作れば、英国料理だってちゃんと食える物に仕上がるんだからさ」などと、吉野がにっと笑って偉そうなことを言う。その横でクスクスと笑いながら、アレンもスプーンを手にしている。飛鳥も苦笑いして頷いた。

「本当にお前、どこででも生きていけるね」



「俺、ゴードンに会いにいってくる。こっちに来てるんだろ?」
 皿半ばまで食べていたところで、いきなり思いだしたように吉野に問われ、飛鳥は怪訝そうに頷いた。
「ゴードンさん? いるけれど、なんで?」
「庭のことで」
「また畑?」
「まぁ、そんなもん」


 去年の夏、吉野がマーシュコートを訪れてから、ゴードンは本当に日本品種の野菜を育ててくれるようになった。わざわざ日本から個人輸入しなくても、ちゃんと英国でもそうした種が売っているのだそうだ。日本で売られているのと同じ種もあれば、この国のニーズに合わせて改良されたものもあるのだそうだ。
 吉野の言うことには、梅雨や台風、日本という縦長の島国特有の温度格差、という厳しい条件の下で選ばれ改良されてきた日本の種は適応範囲が広い。この気候風土の違う英国でも、ちゃんと育ってくれるらしい。まるで、吉野自身みたいに――。


「ちゃんと、ヘンリーに断った?」
「うん、けっこう広い土地を使いたいし、あいつとも相談してくるよ」

 ひとりコーヒーを飲む吉野に、アレンは時々、怪訝そうな目を向けている。

「朝食は向こうでメアリーに作ってもらう。スコットランド流のやつをな」

 吉野は、ますます訳が判らなそうな顔をするアレンのおでこをピンっと弾くと、「じゃ、行ってくる。二人とも、残さず全部食えよ」とだけ言い残して、そそくさと部屋を出ていった。


「本当、慌ただしいな、あいつ……。吉野は甘いものが苦手なんだよ。作ってはくれるけれど、自分じゃ食べないんだ」

 呆れ顔で笑いながら、傍らのアレンに目を向ける。綺麗なセレスト・ブルーの瞳が、どこか戸惑いがちに飛鳥を見つめ返していた。

「無理しなくてもいいからね。きみ、食が細いんだろ?」
「食べます。彼がせっかく作ってくれたのですから」

 アレンは柔らかく微笑んで、スプーンを握り直した。






「庭を造りたい? 畑じゃなくて?」
「畑も欲しいけれどさ、それはゴードンがちゃんとやってくれるだろ? ここに飛鳥の気持ちが休まるような場所を作ってやりたいんだよ」
「外から人を入れるのかい?」
「そんな大がかりなことはしない。ゴードンと俺でするからさ」

 吉野は手に持っていた大きな庭の設計図面を、ローテーブルに広げる。詳細に記された現在の庭の状態に視線を落とすと、ヘンリーは息を吐いた。

「まったく、いつの間にこんなものを作ったんだい?」
「起きてくるのが遅すぎるんだよ」

 誰のせいだと思っているんだ――。

 ヘンリーは不愉快そうに眉根を寄せた。

「きみ達の関係は、共依存だよ。特に、問題なのはきみの方だ」
「解ってる」

 吉野はヘンリーから視線を逸らして、口の中で小さく呟いた。だがすぐに、まっすぐな視線をヘンリーに据え、「それでも、俺が気づかないと、誰も飛鳥のことに気がつかないだろ? 飛鳥は何も言わないから」と、しっかりとした声で続けた。

「ウイスタンで、飛鳥は普通だった?」
「普通って――。今と変わりなく、日々ちゃんとすごしていたよ」
「飛鳥、歩くのが下手だろ? 人と目を合わさなかっただろ? ぼんやりしているかと思ったら、昨日みたいに急に感情的になったりさ。それは、飛鳥じゃないよ。離脱症状が出てるだけなんだ。あのブラックボックスの発表会の時も――」

 とつとつと話し始めた吉野に、ヘンリーは驚いたよう目を見張った。

「六月祭の?」

 吉野は頷いて、哀しそうに唇を歪める。

「あんたとデヴィに、操作を頼んだだろ」
「それは、彼がプレゼンターだから」
「そうじゃない。飛鳥は蜃気楼に囲まれて生きているんだ。投影画像なんて曖昧なものと、幻覚の区別がつかないんだよ。大事な発表の場で失敗したくなかったから、あんたに頼んだんだ」

 今まで想像したことすらなかった吉野の意外な告白に、ヘンリーは返す言葉を失って押し黙るしかなかった。

「あんたも、デヴィも、アーネストも、飛鳥を大切にしてくれてるよ。それはちゃんと知ってるよ。――でも、あんた達じゃ、判らないだろ? だってあんた達、本当の飛鳥を知らないもの」

 知らない? 吉野の言う本当の飛鳥が判らない、て?



「それは大切なことなのかい?」

 不愉快極まりないといったふうに、ヘンリーは吉野を睨めつけた。

「本物も偽物もないよ。僕はどんな飛鳥だって大切な友人だと思っている。もし、今いる飛鳥が、本来の彼とは別人のように違うのだとしても、別にいいじゃないか。飛鳥には変わりないよ。僕の知っている彼が、薬でボロボロに傷つけられた彼なのだとしても、それが何だっていうんだい? 僕はそんな彼を、その傷ごと尊敬して友人として認めてきたんだ。僕は彼の信頼を勝ち得るまで諦めないし、いつまでだって、待つつもりだよ」

 吉野は息を吐き、口の端で嗤った。

 無理だよ――。

 この館に来て、飛鳥が落ち着かない理由が解った。
 飛鳥なら、夏季休暇という限られた期間であれば、誤魔化すことを考える。特に今年は二度目だ。飛鳥も慎重に行動したことだろう。だけど、これからしばらく一緒に暮らす、となったら――。


 吉野は応接間のソファーから、吹き抜けの二階に張り渡されたロートアイアンの手摺に掴まって、こちらを覗きこんでいるサラを見あげた。

 あいつがいるのに、飛鳥が弱音を吐くはずがない。あのシューニアが、目の前にいるのに――。

「飛鳥はあんたにだけは弱音を吐かないし、甘えられない。信頼してない訳じゃないんだ。解れよ。男なんだよ、飛鳥は。庇護されるべき子どもじゃないんだ」

 吉野は少し困ったように笑う。

「共依存だろうが、何だろうが、今はまだ、俺は飛鳥の手を放す訳にはいかないんだよ」

 そして、今までの会話などなかったかのように図面を指し示して、「ここの温室を使いたいんだ」と、計画する庭の詳細を話し始めた。





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