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五章
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「今日はこっちに泊まるの?」
本や書類が山積みにされている机の端にトレイを置いて、ヘンリーは、床に座りこんでごちゃごちゃに置かれたパソコン機材を整理している飛鳥に声をかける。
「うん。この部屋もずっとほったらかしだったし。ちょうど良かったよ。吉野にぶつくさ言われる前に片づけてしまうよ」
飛鳥は俯いたままケーブルを巻き、マジックテープで留めていく。ヘンリーは机の脇に佇んだまま、そんな飛鳥を見おろしている。
「アスカ、お茶を。冷めてしまうよ」
「あとでいただくよ」
黙々と作業を続ける飛鳥は、ヘンリーに背を向けて部屋の隅に置いてあった空き段ボールを持ってくると、丸めたケーブルや、取りあえず目についた要らなさそうなものを次々と放り込んでいく。
「アスカ、」
「あとで飲むよ!」
腹立たしげに声を荒げる。
「ごめん、ヘンリー。僕は大丈夫だから、もう帰っていいよ。サラが心配するよ」
一瞬、激昂した自分を恥じるように、飛鳥は両手で顔を覆った。
「大丈夫、吉野がいるから」
「アスカ……」
「お願いだから帰って、ヘンリー」
「きみがちゃんと眠るのを見とどけたら帰るよ。向こうに移ってから、まともに寝ていないんだろ?」
飛鳥はゆっくりとヘンリーにその顔を向けた。
「帰れ!」
つかつかとヘンリーに歩み寄り、飛鳥はトレイの上のティーカップを持ちあげてフローリングの床に叩きつけた。金色の液体が飛び散り、繊細なカップが粉々に砕け散る。
「頼むから――」
眉根を寄せヘンリーを睨みつけたまま、飛鳥は咽喉の奥から絞りだすように懇願した。
「飛鳥、どうした? 今、すごい音が――」
隣室にいた吉野がノックもせずに慌てて部屋に入ってきた。一番に、床にぶちまけられた紅茶と割れたカップが目に入る。だがそれよりも、睨み合ったままの二人の異様な雰囲気に目を奪われる。
「お前――」
吉野はみるみるうちに瞳に怒気を含ませ、ヘンリーを睨めつける。だがすぐに視線を逸らすと飛鳥の腕を掴み、引っ立てるようにして部屋を出て、ドアを叩きつけるように閉めた。
「どうして僕じゃ駄目なんだ?」
ヘンリーは溜息をついて、床に広がる金色の溜まりを、訳も判らずただ眺めていた。
「大丈夫だ、飛鳥。今の飛鳥は、いつもの飛鳥じゃない。すぐに元に戻る。いつもの発作だよ。心配いらないから」
吉野は飛鳥の頬を両手で覆って、心配そうに、じっとその虚ろな瞳を覗き込む。飛鳥は泣きだしそうに瞳を潤ませて、だが、ギリッと奥歯を噛みしめて顔を振ると、その手を払いのけた。
「なんで話したんだよ!」
そのまま、吉野の胸をドンドンと拳で叩いて詰った。
「彼にだけは知られたくなかったのに! 何でだよ!」
「だって飛鳥、俺が――」
飛鳥のやせ細った腕をその身で受け止めながら、吉野は当惑して言い澱む。
「お前がいなくたって、僕はちゃんとやっていける! ウイスタンでだって、ちゃんとやっていただろう!」
「でも、あの時は――」
飛鳥は悔しそうに吉野のシャツをぎゅっと握りこむ。
「症状を抑えるために定期的にあの薬を飲むから、いつまでも終わらないんだよ。こんなの、まるで中毒患者じゃないか……」
「でも、」
飛鳥は、吉野を突き飛ばすように腕を突っ張った。だが力のない飛鳥がいくら押したところで、吉野はびくともしない。
「酷い離脱症状が出たって、いつまでも、いつまでも続くよりはいいんだよ! いいんだよ、苦しくったって、いつか終わりが来るのなら――」
「でも、飛鳥、まだTSを使えないじゃないか」
哀しげに呟いた吉野のその言葉に、びくりと飛鳥の肩が震える。
「TSの空中画面と、幻覚の区別がつかないんだろ?」
吉野は、じっと動かなくなった飛鳥の頬をもう一度両手で挟んで上向かせた。
「焦らないで。大丈夫だよ、ちゃんと良くなってきているから。このまま、ゆっくり量を減らして、時間を空けていけば、そのうち薬は必要なくなる。勝手に薬を飲むのを止めたりするから、きつい症状が出るんだよ。大丈夫だよ、飛鳥。ちゃんと飛鳥に戻れるよ」
吉野は飛鳥の肩に自分の顎をのせ、強く抱きしめた。
怖いのは、俺だって同じなんだ――。
飛鳥の目に何が映っているのか、判らない。本当に同じ世界を見ているのか、判らない。
目を瞑った飛鳥が、ちゃんともう一度目を開けてくれるのか、いつも、いつだって、怖くて堪らないんだ。
「ごめん、吉野……。僕はただ――、ヘンリーに同情されるのが嫌だったんだ。同情も、憐れみも、要らない……。僕はただ、――彼と、肩を並べて歩きたいだけなんだよ。もう甘やかされて、おぶさって生きていくのは嫌なんだ。ヘンリーにも、お前にも」
「うん。ごめんな。飛鳥、ごめんな」
「自分の足で立ちたい」
力なく囁くように呟いた飛鳥を、吉野は、もう一度ぎゅっと、悲痛な思いで抱きしめていた。
本や書類が山積みにされている机の端にトレイを置いて、ヘンリーは、床に座りこんでごちゃごちゃに置かれたパソコン機材を整理している飛鳥に声をかける。
「うん。この部屋もずっとほったらかしだったし。ちょうど良かったよ。吉野にぶつくさ言われる前に片づけてしまうよ」
飛鳥は俯いたままケーブルを巻き、マジックテープで留めていく。ヘンリーは机の脇に佇んだまま、そんな飛鳥を見おろしている。
「アスカ、お茶を。冷めてしまうよ」
「あとでいただくよ」
黙々と作業を続ける飛鳥は、ヘンリーに背を向けて部屋の隅に置いてあった空き段ボールを持ってくると、丸めたケーブルや、取りあえず目についた要らなさそうなものを次々と放り込んでいく。
「アスカ、」
「あとで飲むよ!」
腹立たしげに声を荒げる。
「ごめん、ヘンリー。僕は大丈夫だから、もう帰っていいよ。サラが心配するよ」
一瞬、激昂した自分を恥じるように、飛鳥は両手で顔を覆った。
「大丈夫、吉野がいるから」
「アスカ……」
「お願いだから帰って、ヘンリー」
「きみがちゃんと眠るのを見とどけたら帰るよ。向こうに移ってから、まともに寝ていないんだろ?」
飛鳥はゆっくりとヘンリーにその顔を向けた。
「帰れ!」
つかつかとヘンリーに歩み寄り、飛鳥はトレイの上のティーカップを持ちあげてフローリングの床に叩きつけた。金色の液体が飛び散り、繊細なカップが粉々に砕け散る。
「頼むから――」
眉根を寄せヘンリーを睨みつけたまま、飛鳥は咽喉の奥から絞りだすように懇願した。
「飛鳥、どうした? 今、すごい音が――」
隣室にいた吉野がノックもせずに慌てて部屋に入ってきた。一番に、床にぶちまけられた紅茶と割れたカップが目に入る。だがそれよりも、睨み合ったままの二人の異様な雰囲気に目を奪われる。
「お前――」
吉野はみるみるうちに瞳に怒気を含ませ、ヘンリーを睨めつける。だがすぐに視線を逸らすと飛鳥の腕を掴み、引っ立てるようにして部屋を出て、ドアを叩きつけるように閉めた。
「どうして僕じゃ駄目なんだ?」
ヘンリーは溜息をついて、床に広がる金色の溜まりを、訳も判らずただ眺めていた。
「大丈夫だ、飛鳥。今の飛鳥は、いつもの飛鳥じゃない。すぐに元に戻る。いつもの発作だよ。心配いらないから」
吉野は飛鳥の頬を両手で覆って、心配そうに、じっとその虚ろな瞳を覗き込む。飛鳥は泣きだしそうに瞳を潤ませて、だが、ギリッと奥歯を噛みしめて顔を振ると、その手を払いのけた。
「なんで話したんだよ!」
そのまま、吉野の胸をドンドンと拳で叩いて詰った。
「彼にだけは知られたくなかったのに! 何でだよ!」
「だって飛鳥、俺が――」
飛鳥のやせ細った腕をその身で受け止めながら、吉野は当惑して言い澱む。
「お前がいなくたって、僕はちゃんとやっていける! ウイスタンでだって、ちゃんとやっていただろう!」
「でも、あの時は――」
飛鳥は悔しそうに吉野のシャツをぎゅっと握りこむ。
「症状を抑えるために定期的にあの薬を飲むから、いつまでも終わらないんだよ。こんなの、まるで中毒患者じゃないか……」
「でも、」
飛鳥は、吉野を突き飛ばすように腕を突っ張った。だが力のない飛鳥がいくら押したところで、吉野はびくともしない。
「酷い離脱症状が出たって、いつまでも、いつまでも続くよりはいいんだよ! いいんだよ、苦しくったって、いつか終わりが来るのなら――」
「でも、飛鳥、まだTSを使えないじゃないか」
哀しげに呟いた吉野のその言葉に、びくりと飛鳥の肩が震える。
「TSの空中画面と、幻覚の区別がつかないんだろ?」
吉野は、じっと動かなくなった飛鳥の頬をもう一度両手で挟んで上向かせた。
「焦らないで。大丈夫だよ、ちゃんと良くなってきているから。このまま、ゆっくり量を減らして、時間を空けていけば、そのうち薬は必要なくなる。勝手に薬を飲むのを止めたりするから、きつい症状が出るんだよ。大丈夫だよ、飛鳥。ちゃんと飛鳥に戻れるよ」
吉野は飛鳥の肩に自分の顎をのせ、強く抱きしめた。
怖いのは、俺だって同じなんだ――。
飛鳥の目に何が映っているのか、判らない。本当に同じ世界を見ているのか、判らない。
目を瞑った飛鳥が、ちゃんともう一度目を開けてくれるのか、いつも、いつだって、怖くて堪らないんだ。
「ごめん、吉野……。僕はただ――、ヘンリーに同情されるのが嫌だったんだ。同情も、憐れみも、要らない……。僕はただ、――彼と、肩を並べて歩きたいだけなんだよ。もう甘やかされて、おぶさって生きていくのは嫌なんだ。ヘンリーにも、お前にも」
「うん。ごめんな。飛鳥、ごめんな」
「自分の足で立ちたい」
力なく囁くように呟いた飛鳥を、吉野は、もう一度ぎゅっと、悲痛な思いで抱きしめていた。
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