胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 今日も朝から、電動トリマーの連続する機械音が遠くで響いている。

 オフホワイトのキャンバス生地を張ったガーデンパラソルの下、傘と同じく八角形のテーブルについている飛鳥は、ぼんやりと様変わりしていく庭を眺めていた。館よりもやや高く、テラスを見おろせる位置にあるこの場所は、やはりレンガ敷の小さな広場になっている。
 わずか一週間ほどで、ずいぶんと綺麗になった。初めてここに来た時には、お化けでも出てきそうな庭だったのに。すでに応接間から見渡せるテラス周辺はソールスベリー家の庭師ゴードンによって、見違えるほど調えられた。綺麗に刈り込まれたトピアリーは、館側からは幾何学的で整然として見えるのに、こちら側から見てみると、カエルがうずくまっている形に刈りこまれていたり、子猫が隠れているように見えたりと、随所にゴードンの遊び心が発揮されているのだ。



「アスカ、」
 面をあげると、ヘンリーが、とても優しい穏やかな瞳をして佇んでいた。
 こんな顔をした彼を見るのは、珍しいかも知れない。いや、違う。これが普通なんだ。サラが傍にいる時は、いつも彼はこんな顔をしていた。今は一人だから違和感を覚えたのだ。飛鳥は一人納得しながら微笑み返して、静かな口調で訊ねた。

「もう、行くの?」
「行ってくるよ」

 ヘンリーもにこやかに微笑んで応えた。

 九月のTSバージョン1.0の再販もぶじに終わり、ヘンリーはまた、通常の業務に戻っていた。大学の課題をこなしながら、アーカシャ―HDでも、持ち前のバイタリティーを駆使して精力的に動き回っている。
 中でも今日は特別な日だ。これからTSネクストの発表記者会見がある。前回みたいなトラブルに巻きこまれないように、今回は、飛鳥はサラと一緒にこの家で留守番することになっている。


「ヨシノのこと、本当にいいのかい? 彼に許可を取らなくて?」
 ヘンリーは気遣わしそうに顔を傾げる。
「いいんだよ。だってあいつ、きみやサラにかなりの迷惑をかけたんだろ?」
 飛鳥は申し訳なさそうにヘンリーを見あげる。
「いや、それはべつに、かまわないんだよ」

 こっちだって、それ相応の失態はしてしまっているのだから――。

 本当はそう告げたかったのだけれど、飛鳥に詳しく話す訳にもいかず、ヘンリーは曖昧に笑った。


 デヴィッドやアーネスト、技術主任のトーマスとの断片的な会話のやり取りから、吉野がコズモスに繋がるサラのメインコンピューターをハッキングしたことを、飛鳥に知られてしまった。ヘンリーと吉野の間で交わされた取引のことまでは、もちろん飛鳥の知るゆえはない。飛鳥は、吉野がただふざけて、あるいはヘンリーへの嫌がらせのためにした悪戯のたぐい、くらいに考えている。


 夏季休暇の間、飛鳥は吉野に会わなかった。
 吉野は、サウード殿下に招待されアラビア半島にある彼の国を訪れ、ヘンリーは、彼から飛鳥の薬を託された。事細かに記された発作の種類や離脱周期、症状の重さに合わせた量や投薬期間の調節、丁寧に説明された対処方法通りに従ったおかげか、この夏は去年のような酷い症状が出ることもなかった。飛鳥の目には、吉野が落ち着いて学校生活を送っているように見えていたことも、安堵感に繋がったのかもしれない。

 飛鳥には、絶対に言うな。

 そういった吉野の意思は、もちろん尊重するつもりだ。だが、今のこの、事実とも、ヘンリーの意思とも違うところに落ち着いてしまった状況に、なんともいた堪れなさと、彼に対する同情が沸々と湧きあがるのだった。確かに、それすら面白がっている自分がいることも、否定はできなかったが――。

「ヘンリー?」

 飛鳥の声で、ヘンリーはふと我に返る。トリマーの音がよりいっそう近づいていて、急に大きく耳障りに感じた。

「こんなところで煩くないの? 大学のレポートを書いているんだろ?」
「うん。かえって落ち着くんだよ。この庭、どんな風に変わっていくんだろうって思うと、楽しみでさ。それに吉野が登りそうな木の枝をあんまり払わないで、ってゴードンさんに頼んでおかなくっちゃ」

 飛鳥はもう、先ほどまでの腹立たしそうな顔つきから、さも嬉しそうに庭の木々、それも背が高く大きく生い茂った大木を、目を細めて眺めている。

「じきに、ハーフタームだね」
 ヘンリーもにっこりと笑った。久しぶりに吉野に会えるのが、素直に楽しみだった。

「ヘンリー! 出発するよ!」
 応接間のフランス窓から、アーネストが呼んでいる。
「じゃ、サラのこと頼んだよ」
「いってらっしゃい」

 飛鳥は立ちあがり、軽く二人に手を振る。そしてしばらく微笑んだまま、ぼんやりと、誰もいないテラスと、その後ろのはちみつ色の館を眺めていた。

「吉野、やっぱり怒るだろうなぁ――」

 声に出して呟くと、顔をしかめて苦笑する。自責の念を含んだ溜息をひとつ吐いて、飛鳥は書きかけのレポートに戻るため、ノートパソコンに視線を落とした。





「TSネクストの記者会見、見た?」
 カレッジ寮の図書室にいた吉野を、アレンとクリスが血相を変えて呼びにきた。吉野は怪訝そうに顔を上げる。
 クリスは吉野の腕を掴むと、「早く来て」と急かしながら足早に図書室を後にする。

「きみ、知っていたの? きみが許可するなんてどうしても思えなくて」
 小走りで部屋に戻りながら、アレンは息を弾ませ吉野に訊ねる。
「何? 会見ならわざわざ部屋に戻らなくったって、俺、スマホ持ってるよ」
 とりあえず引っ張られるままついて行きながらも、吉野は段々と速度を落とし歩きだす。

「べつに今さらネクストの会見なんか――」
「問題はそれじゃないんだよ」

 アレンも、クリスも、息をはぁはぁといわせながら吉野を急かし、階段を二段飛ばしで個室に急ぐ。ノックもせずにドアを開けると、部屋では、フレデリックがパソコンを前に待ちかまえている。

「ヨシノ、きみ大丈夫なの?」
 吉野の顔を見るなりフレデリックは手招きして、動画を再生させた。

 画面の中でヘンリーが喋っている。その背後には、TSネクストのポスターの連なり。吉野には見覚えのないものだ。新作らしい。

『You can fly (飛べるよ) 』

 というコピーの下には、黒いキャスケットを被り、黒いジャケットの片羽の天使。その天使は頭上を驚いたように眺めている。そして、その横には、天使の片方の手を取って走る、カーキ色のコートを着た自分がいる。

「拡大するよ」

 フレデリックは、ヘンリーの背後のポスターの、比較的全面が映っている部分を拡大してみせる。

「ほら、顔までばっちり。だいたいこの写真、一度ネットに流出しているものだよね? きみの素性も何もかもバレバレなんじゃないの?」

 フレデリックは心配そうに吉野を見あげる。アレンも、クリスも、押し黙ったまま同じように吉野を見守っている。

「あの野郎――」

 吉野は、喰いいるように画面を睨みつけたまま、拳を握りしめていた。




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