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四章
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ノースは虚ろに首を振った。
「分からない、僕に分かるはずがない」
乾いた声が、やっとその口から漏れる。
「彼は、ほとんど教えてはくれなかった。公式も、きみのことも――。ただ、ここまで可能だと可能性を示しただけだった。あの特許で明かされている理論は前振りにすぎず、おそらくもう二段階以上のレーザー強化が可能だと。教えてくれ。あの理論を考えだしたのは、本当は誰なんだ? きみなのか? それとも彼自身だったのか?」
「お前たちが殺した、杜月倖造だよ」
吉野はノースを冷たく見据え、吐き捨てるように言った。
「あの理論に続きなんかない。俺とヘンリーが米国のフェイラーを訪ねたことで、また向こうの軍需産業とでも結びつくと思ったんだろうけど、とんだ杞憂だったな」
吉野は手にしたペットボトルをノースの膝に放り投げる。
「これだけ教えろ。どうして飛鳥を殺そうとしたんだ?」
「エリオットの発音だと言われた。気づかれたと、素性がバレたと思ったんだ」
ノースは震える手でペットボトルのキャップを開けながら答えた。
「一応言っておくけど、俺、そのボトルに薬、何錠入れたか覚えてないんだ。でも、一つ、二つじゃないことは確かだよ。もしかしたら、致死量入れたかも知れない。それでも、飲む?」
ノースはぼんやりと吉野を見つめ、頬をひきつらせて微笑んだ。そして、ゆっくりとボトルの口に唇を当てると一気に飲み干した。
「楽しかったよ、きみといることが。きみの淹れてくれるお茶が、本当に楽しみになっていたんだ」
今まで犯してきた罪の一つ一つを溶かしてくれる、それはとても温かくて優しい、至福の時間だったのだ。
ノースは身体を地面に横たえ、目を瞑った。
初めはお茶なんて、ただの口実だったのだ。杜月吉野に近づき、情報を引き出すための手段にすぎなかった。それがいつの頃から、違うものに変わっていったのだろうか――。
本当は気づいていた。このお茶が普通のお茶ではないことに。だけど、止められなかった。この時間を手放したくなかった。例えこのまま目が覚めることがなくても、この悪魔に看取られて地獄に堕ちるのならそれもいいと、思えたのだ。
薄れてゆく意識の下、ノースはもう一度重い瞼を持ち上げて吉野を見あげ、柔らかく微笑んだ。木漏れ日がまるで天からの恵のように、彼を照らしていた。
「もう充分だろう?」
聞き慣れた声に、吉野は顔をしかめて振り返る。
「なんであんたがここにいるんだ?」
低く呟いた吉野にヘンリーは呆れたような笑みを返し、ボタンホールの胡蝶蘭を軽く弾く。
「来賓だよ」
「だからって、なんでここに、」
「きみが何かやらかすなら、今日だろうと思ってね」
ヘンリーはゆっくりと吉野に歩み寄った。にっこりと微笑み、吉野の鳩尾に拳を入れる。ガクンと膝から崩れ落ちるその身体を支え、振り返って「きみ、この子を」と背後に控えていたイスハークを呼んだ。吉野の身体を彼にまかせると、次いで携帯を取り出して電話をかける。
「救急車を」
場所と状況を伝えた後、ヘンリーは、サウードに視線を向けた。
「殿下、この子の頭が冷えるまで、お願いできますか?」
緊張した面持ちで頷くサウードは、一瞬の迷いの後、ヘンリーをまっすぐに見つめて訊ねた。
「今日は――、」
「この子の祖父、コウゾー氏の命日ですよ」
ぎゅっと唇を引きしめてサウードは頷き、吉野をその背に担いだイスハークを誘って林を急ぎ後にした。
次いでヘンリーは、唇を噛みしめたまま地面に転がっているノースを睨めつけているアレンに声をかけた。
「お前は遊歩道の入り口で待機して、救急隊員を誘導して」
「助けることなんかない! 死んでしまえばいいんだ、こんな奴!」
「ヨシノは優しい子だよ。いつかきっと後悔する。赦せなかった自分を責めることになる。それに何よりもアスカが悲しむ。彼の弟を人殺しにする訳にはいかないよ」
「人殺しなんかじゃない! この人は、自分でそれを飲んだんだ!」
自分と同じ青紫の瞳を怒りで燃えたたせる弟にやるせない微笑を向け、ヘンリーは有無を言わせない口調で一言、告げた。
「行きなさい」
アレンは反抗的な瞳で兄を一瞥し、踵を返し入り口へ向かった。
ヘンリーは溜め息をつくと、おもむろに上着を脱ぎ袖を捲る。
「やれやれ、損な役回りだな――、」
倒れているノースの傍らに膝をつくと、パシッパシッと、その頬を張る。
「まだ意識はあるんだろう? 自分だけ楽になろうとするんじゃないよ。きみはこれから、生きてアスカの味わった地獄を見るんだよ。そう簡単に死なれちゃ困るんだ」
そのままノースを持ち上げ、ヘンリーは片膝を腹に当て、その長い指先を彼の喉元深く突っこんだ。身体をひくつかせて嘔吐くノースの腹に更に膝をめり込ませて吐かせ切ったあと、その身体を草むらに転がした。美しい顔を渋らせて、ぐったりと横たわる男を冷たく見下ろし呟いた。
「ああ、やっぱり汚れてしまった。クリーニングの請求先は、英国情報部でいいのかい?」
林の入り口から、ガヤガヤとした人の気配と呼び声が聞こえてきた。
「分からない、僕に分かるはずがない」
乾いた声が、やっとその口から漏れる。
「彼は、ほとんど教えてはくれなかった。公式も、きみのことも――。ただ、ここまで可能だと可能性を示しただけだった。あの特許で明かされている理論は前振りにすぎず、おそらくもう二段階以上のレーザー強化が可能だと。教えてくれ。あの理論を考えだしたのは、本当は誰なんだ? きみなのか? それとも彼自身だったのか?」
「お前たちが殺した、杜月倖造だよ」
吉野はノースを冷たく見据え、吐き捨てるように言った。
「あの理論に続きなんかない。俺とヘンリーが米国のフェイラーを訪ねたことで、また向こうの軍需産業とでも結びつくと思ったんだろうけど、とんだ杞憂だったな」
吉野は手にしたペットボトルをノースの膝に放り投げる。
「これだけ教えろ。どうして飛鳥を殺そうとしたんだ?」
「エリオットの発音だと言われた。気づかれたと、素性がバレたと思ったんだ」
ノースは震える手でペットボトルのキャップを開けながら答えた。
「一応言っておくけど、俺、そのボトルに薬、何錠入れたか覚えてないんだ。でも、一つ、二つじゃないことは確かだよ。もしかしたら、致死量入れたかも知れない。それでも、飲む?」
ノースはぼんやりと吉野を見つめ、頬をひきつらせて微笑んだ。そして、ゆっくりとボトルの口に唇を当てると一気に飲み干した。
「楽しかったよ、きみといることが。きみの淹れてくれるお茶が、本当に楽しみになっていたんだ」
今まで犯してきた罪の一つ一つを溶かしてくれる、それはとても温かくて優しい、至福の時間だったのだ。
ノースは身体を地面に横たえ、目を瞑った。
初めはお茶なんて、ただの口実だったのだ。杜月吉野に近づき、情報を引き出すための手段にすぎなかった。それがいつの頃から、違うものに変わっていったのだろうか――。
本当は気づいていた。このお茶が普通のお茶ではないことに。だけど、止められなかった。この時間を手放したくなかった。例えこのまま目が覚めることがなくても、この悪魔に看取られて地獄に堕ちるのならそれもいいと、思えたのだ。
薄れてゆく意識の下、ノースはもう一度重い瞼を持ち上げて吉野を見あげ、柔らかく微笑んだ。木漏れ日がまるで天からの恵のように、彼を照らしていた。
「もう充分だろう?」
聞き慣れた声に、吉野は顔をしかめて振り返る。
「なんであんたがここにいるんだ?」
低く呟いた吉野にヘンリーは呆れたような笑みを返し、ボタンホールの胡蝶蘭を軽く弾く。
「来賓だよ」
「だからって、なんでここに、」
「きみが何かやらかすなら、今日だろうと思ってね」
ヘンリーはゆっくりと吉野に歩み寄った。にっこりと微笑み、吉野の鳩尾に拳を入れる。ガクンと膝から崩れ落ちるその身体を支え、振り返って「きみ、この子を」と背後に控えていたイスハークを呼んだ。吉野の身体を彼にまかせると、次いで携帯を取り出して電話をかける。
「救急車を」
場所と状況を伝えた後、ヘンリーは、サウードに視線を向けた。
「殿下、この子の頭が冷えるまで、お願いできますか?」
緊張した面持ちで頷くサウードは、一瞬の迷いの後、ヘンリーをまっすぐに見つめて訊ねた。
「今日は――、」
「この子の祖父、コウゾー氏の命日ですよ」
ぎゅっと唇を引きしめてサウードは頷き、吉野をその背に担いだイスハークを誘って林を急ぎ後にした。
次いでヘンリーは、唇を噛みしめたまま地面に転がっているノースを睨めつけているアレンに声をかけた。
「お前は遊歩道の入り口で待機して、救急隊員を誘導して」
「助けることなんかない! 死んでしまえばいいんだ、こんな奴!」
「ヨシノは優しい子だよ。いつかきっと後悔する。赦せなかった自分を責めることになる。それに何よりもアスカが悲しむ。彼の弟を人殺しにする訳にはいかないよ」
「人殺しなんかじゃない! この人は、自分でそれを飲んだんだ!」
自分と同じ青紫の瞳を怒りで燃えたたせる弟にやるせない微笑を向け、ヘンリーは有無を言わせない口調で一言、告げた。
「行きなさい」
アレンは反抗的な瞳で兄を一瞥し、踵を返し入り口へ向かった。
ヘンリーは溜め息をつくと、おもむろに上着を脱ぎ袖を捲る。
「やれやれ、損な役回りだな――、」
倒れているノースの傍らに膝をつくと、パシッパシッと、その頬を張る。
「まだ意識はあるんだろう? 自分だけ楽になろうとするんじゃないよ。きみはこれから、生きてアスカの味わった地獄を見るんだよ。そう簡単に死なれちゃ困るんだ」
そのままノースを持ち上げ、ヘンリーは片膝を腹に当て、その長い指先を彼の喉元深く突っこんだ。身体をひくつかせて嘔吐くノースの腹に更に膝をめり込ませて吐かせ切ったあと、その身体を草むらに転がした。美しい顔を渋らせて、ぐったりと横たわる男を冷たく見下ろし呟いた。
「ああ、やっぱり汚れてしまった。クリーニングの請求先は、英国情報部でいいのかい?」
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