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四章
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「おはよう、ヨシノ」
かすかな衣擦れと、トントン、と皮靴を馴染ませる音で目が覚めた。
柔らかな朝の陽差しの中、「おはよう」と振り返った吉野が、ネクタイを結び終えようとしていることに気づき、クリスは慌てて飛び起きる。
「もうそんな時間なの?」
「いつもより一時間早い、寝てろよ」
キョロキョロと目覚まし時計を探すクリスに、吉野はベッド下に転がり落ちていたそれを拾いあげて渡す。目を擦りながら時間を確かめてほっとすると同時に、クリスは、すでに着替えを終えている吉野に訝しげな視線を向ける。
「ノース先生の朝食を作ってくる。先生、具合が良くないみたいだから」
「そんなの、きみの仕事じゃないじゃないか!」
「いいんだよ。寮母さんにも頼まれているんだ」
吉野は穏やかな優しい笑顔を向けると、「じゃ、またあとでな」と教科書を抱えて部屋を出た。
きっともう、今日は消灯まで会えない――。
創立祭で、彼の母国の友人に会えてあんなに楽しかったのに。吉野の子どもの頃の話が聞けて、ちょっと近づけた気がしたのに。彼が、僕たちのことを大切な友達だ、って話していたことを教えてもらえて、本当に嬉しかったのに――。
お祭りが終わり日常に戻ると、吉野はさらに遠くなっていた。目の前にいるのに、心だけがどこか遠くへ行ってしまっているみたいだ。何がそんなに彼の心を捉えているのか知りたいのに、訊くのが怖い。彼を見ているだけで不安に押しつぶされそうになる。今の彼は、実体のない影法師みたいだ……。
考え始めると、ぐるぐる思考が止まらない。目が冴えてもう寝直せそうにもなくなっていた。クリスは吐息をついて起きあがると、窓を大きく開け、早朝の冷たい空気を室内に招きいれた。
学年末試験も終える頃には、ゆるりとした空気が校内を覆っていた。この週末には、長かったIGCSEの試験期間もようやく終わる。
明日からのハーフタームを控えた全体朝礼の後、石畳の中庭を生徒たちはテールコートをはためかせながら、ガヤガヤといつも以上に浮足立ってそれぞれの学舎に散らばっていく。
そんな中で、寮長のベンジャミンと肩を並べて歩いていた吉野を、クリスは大声で呼び止めた。大勢の顔が、一斉に声の主を盗み見る。
吉野は、瞳に険を含ませて振り返る。
「ヨシノ、ハーフタームは僕の家に遊びにきてくれる?」
吉野は何も答えず、黙ったまま眉根をひそめて、クリスに睨みつけるようなきつい視線を向けた。
噂なんか、どうでもいい――。
クリスがそう言った時、吉野は、『この学校には、ただの噂話を真実に捩じ換えるくらい平気でやってのける、そんな権力を持った奴らがゴロゴロいるんだ』と静かに、諭すように言った。だから『一番に自分の保身を考えろ』と。
誰が吉野を陥れて、誰がその足を引っ張ろうとしているのか、そんなことは知らない。
ただ、もう我慢がならないんだ!
「お父さまも、お祖父さまも、ぜひにとおっしゃっているんだ」
黙ったまま顔を伏せる吉野を真っ直ぐに見つめ、クリスはさらに声を高める。
「きみを連れて帰らないと、お二人ががっかりされてしまう。きみに会うのをとても楽しみにされているんだ。僕が叱られてしまうよ」
答えない吉野に、クリスは声を震わせて叫ぶように続けた。誰もが足を止め、この成行きを固唾を飲んで見守っている。傍らのベンジャミンも心配そうな顔をして、二人を代わる代わる見守っている。
「悪いけど……」
断り文句なんて、聞きたくない!
クリスは、吉野を遮って言葉を続けた。
「きみの悪い噂なら、僕だって知っている。だけど、それがどうしたっていうのさ! その噂にひと欠片でも真実があるのなら、お祖父さまや、お父さまが、きみを招待しろなんて言うはずがないじゃないか! ガストン家は、この英国の金融界を荒らす人間を決して許したりはしない。どんな不正も許さない。この僕の、クリス・ガストンの友人であるきみを貶めるような奴らは、僕が、ガストン家が許さない! きみを愚弄することは、ひいてはこの僕を、ガストン家を愚弄することだと肝に銘じておけ!」
吉野にではなく、空に向かってクリスは叫んだ。
そうだ! きみがどんなに僕の立場を気遣ってくれようと、窮地に陥っている友人に背を向けるなんて、僕にはできない! そんなのガストン家の男じゃない! 僕は、そんな教育は受けてきてはいないんだ!
拳を握りしめ、ブルブルと全身を震わせて、真っ赤になった顔で息を弾ませているクリスを、皆、呆気に取られて見つめていた。当の吉野でさえ、ポカーンと目を丸くしている。シーンと静まり返り、誰もが囚われてしまっていた沈黙を、パンッ、パンッ、パンッと、高らかに掌を打ち合わせる音が破った。
「よく言った! それでこそ、我がカレッジ寮の仲間だ!」
ベンジャミンが、クリスの緊張をほぐすようにその肩を抱いた。ばらばらと周囲から黒いローブを翻して、キングススカラーたちが集まってくる。
「聞いての通りだ、諸君! 僕たちは、彼に向けられた根も葉もない中傷に断固抗議する! 清廉潔白な彼を貶める行為を、金輪際決して許さない!」
よく通る凛とした声音で宣言し、拳を空に向けて突きだしたベンジャミンを取り囲み、スカラー達は雄たけびを上げて皆、一斉に拳を掲げる。
ベンジャミンは一方でクリスの肩を抱き、もう一方で吉野の肩を抱くと、「僕たちはきみを信じている。だから、きみももっと僕たちを信頼してくれ」とにこやかに微笑んで告げた。
面を紅潮させて頷くクリスとは対照的に、吉野はただ困ったように顔を伏せ、苦笑していた。
かすかな衣擦れと、トントン、と皮靴を馴染ませる音で目が覚めた。
柔らかな朝の陽差しの中、「おはよう」と振り返った吉野が、ネクタイを結び終えようとしていることに気づき、クリスは慌てて飛び起きる。
「もうそんな時間なの?」
「いつもより一時間早い、寝てろよ」
キョロキョロと目覚まし時計を探すクリスに、吉野はベッド下に転がり落ちていたそれを拾いあげて渡す。目を擦りながら時間を確かめてほっとすると同時に、クリスは、すでに着替えを終えている吉野に訝しげな視線を向ける。
「ノース先生の朝食を作ってくる。先生、具合が良くないみたいだから」
「そんなの、きみの仕事じゃないじゃないか!」
「いいんだよ。寮母さんにも頼まれているんだ」
吉野は穏やかな優しい笑顔を向けると、「じゃ、またあとでな」と教科書を抱えて部屋を出た。
きっともう、今日は消灯まで会えない――。
創立祭で、彼の母国の友人に会えてあんなに楽しかったのに。吉野の子どもの頃の話が聞けて、ちょっと近づけた気がしたのに。彼が、僕たちのことを大切な友達だ、って話していたことを教えてもらえて、本当に嬉しかったのに――。
お祭りが終わり日常に戻ると、吉野はさらに遠くなっていた。目の前にいるのに、心だけがどこか遠くへ行ってしまっているみたいだ。何がそんなに彼の心を捉えているのか知りたいのに、訊くのが怖い。彼を見ているだけで不安に押しつぶされそうになる。今の彼は、実体のない影法師みたいだ……。
考え始めると、ぐるぐる思考が止まらない。目が冴えてもう寝直せそうにもなくなっていた。クリスは吐息をついて起きあがると、窓を大きく開け、早朝の冷たい空気を室内に招きいれた。
学年末試験も終える頃には、ゆるりとした空気が校内を覆っていた。この週末には、長かったIGCSEの試験期間もようやく終わる。
明日からのハーフタームを控えた全体朝礼の後、石畳の中庭を生徒たちはテールコートをはためかせながら、ガヤガヤといつも以上に浮足立ってそれぞれの学舎に散らばっていく。
そんな中で、寮長のベンジャミンと肩を並べて歩いていた吉野を、クリスは大声で呼び止めた。大勢の顔が、一斉に声の主を盗み見る。
吉野は、瞳に険を含ませて振り返る。
「ヨシノ、ハーフタームは僕の家に遊びにきてくれる?」
吉野は何も答えず、黙ったまま眉根をひそめて、クリスに睨みつけるようなきつい視線を向けた。
噂なんか、どうでもいい――。
クリスがそう言った時、吉野は、『この学校には、ただの噂話を真実に捩じ換えるくらい平気でやってのける、そんな権力を持った奴らがゴロゴロいるんだ』と静かに、諭すように言った。だから『一番に自分の保身を考えろ』と。
誰が吉野を陥れて、誰がその足を引っ張ろうとしているのか、そんなことは知らない。
ただ、もう我慢がならないんだ!
「お父さまも、お祖父さまも、ぜひにとおっしゃっているんだ」
黙ったまま顔を伏せる吉野を真っ直ぐに見つめ、クリスはさらに声を高める。
「きみを連れて帰らないと、お二人ががっかりされてしまう。きみに会うのをとても楽しみにされているんだ。僕が叱られてしまうよ」
答えない吉野に、クリスは声を震わせて叫ぶように続けた。誰もが足を止め、この成行きを固唾を飲んで見守っている。傍らのベンジャミンも心配そうな顔をして、二人を代わる代わる見守っている。
「悪いけど……」
断り文句なんて、聞きたくない!
クリスは、吉野を遮って言葉を続けた。
「きみの悪い噂なら、僕だって知っている。だけど、それがどうしたっていうのさ! その噂にひと欠片でも真実があるのなら、お祖父さまや、お父さまが、きみを招待しろなんて言うはずがないじゃないか! ガストン家は、この英国の金融界を荒らす人間を決して許したりはしない。どんな不正も許さない。この僕の、クリス・ガストンの友人であるきみを貶めるような奴らは、僕が、ガストン家が許さない! きみを愚弄することは、ひいてはこの僕を、ガストン家を愚弄することだと肝に銘じておけ!」
吉野にではなく、空に向かってクリスは叫んだ。
そうだ! きみがどんなに僕の立場を気遣ってくれようと、窮地に陥っている友人に背を向けるなんて、僕にはできない! そんなのガストン家の男じゃない! 僕は、そんな教育は受けてきてはいないんだ!
拳を握りしめ、ブルブルと全身を震わせて、真っ赤になった顔で息を弾ませているクリスを、皆、呆気に取られて見つめていた。当の吉野でさえ、ポカーンと目を丸くしている。シーンと静まり返り、誰もが囚われてしまっていた沈黙を、パンッ、パンッ、パンッと、高らかに掌を打ち合わせる音が破った。
「よく言った! それでこそ、我がカレッジ寮の仲間だ!」
ベンジャミンが、クリスの緊張をほぐすようにその肩を抱いた。ばらばらと周囲から黒いローブを翻して、キングススカラーたちが集まってくる。
「聞いての通りだ、諸君! 僕たちは、彼に向けられた根も葉もない中傷に断固抗議する! 清廉潔白な彼を貶める行為を、金輪際決して許さない!」
よく通る凛とした声音で宣言し、拳を空に向けて突きだしたベンジャミンを取り囲み、スカラー達は雄たけびを上げて皆、一斉に拳を掲げる。
ベンジャミンは一方でクリスの肩を抱き、もう一方で吉野の肩を抱くと、「僕たちはきみを信じている。だから、きみももっと僕たちを信頼してくれ」とにこやかに微笑んで告げた。
面を紅潮させて頷くクリスとは対照的に、吉野はただ困ったように顔を伏せ、苦笑していた。
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