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四章
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「誰にも相手にされなくなったから、今度はチューターにすり寄っているのさ」
芝生を横切る吉野の背後から、吐き捨てるようなそんな言葉が聞こえてきた。傍らのノースは顔をしかめ、ベンジャミンは足を止めて振り返り、上品な眉を吊りあげて怒鳴り声をあげた。
「誰が言ったんだ!」
まばらに散らばるように歩いている上級生たちを、ぐるりとひとりひとり睨めつけていく。誰もがいち様に顔を伏せ、逃げるようにその足を速める。
ベンジャミンの背中に吉野は腕をまわし、先へ進むように促しながら苦笑する。
「大したことじゃないよ、早く行こう。
『体面などというやつは、およそ取るにたらぬ、うわつらだけの被せものに過ぎない。それだけの値打ちがなくても、手に入るときは入るし、身に覚えがなくとも、失うときには失うようにできている』
だろ?」
「第二幕、第三場だね」
ノースは満足そうに頷きながら歩き出す。ベンジャミンも仕方なく軽く息をついて彼らの後に続いた。
「創立祭の劇はきみも出るの?」
興味深そうにノースは吉野の顔を覗きこむ。
「僕は裏方です」
「もったいないよな、きみは台本を全部暗唱できるのに!」
まだ怒りが残っているのか、ベンジャミンの口調は荒い。
「それでオセローを?」
「いいえ、演目はリチャード三世です。
『良心などとは、臆病者の使う言葉だ。
強者を恐れさせるために作りだされた言葉だ。
武器が俺の良心、剣が法だ。
さあ進め、潔く戦おう、ひといくさあばれまわって、
天国にいけなかったら、ともに地獄に落ちよう』」
「『馬をくれ、馬を! 馬のかわりに我が王国をくれてやる!』」
ベンジャミンは大仰な身振りで両腕を掲げ、吉野の後を継いだ。リチャード三世の台詞を暗唱しているうちに先ほどまでの嫌な気分も切り替わり、三人は声を立てて笑いあった。
「昨夜はすみませんでした」
ベンジャミンが他の監督生に呼ばれ席を立ったのを見計らって、吉野はにこやかな笑みを浮かべてノースに謝罪した。夕方の自習時間が始まる前のカフェテラスは、先日と同じように利用している生徒はまばらだ。この場にいるのは試験をすでに受け終わった生徒か、今年度は受けない下級生だけだ。――例外も、いるにはいたが。
「あ、いや僕の方こそ配慮が行き届かなくて……」
どこかぼんやりと視線を漂わせていたノースは、慌てたようにお茶を濁す。
「それで、スコット先生の代理でも兼ねて、この年度が終わるまで僕が下級生組のチューターも務めることになったんだよ」
ノースは急に思い出したように告げた。
「掛け持ちで、ですか? それはまた大変ですね!」
驚いてみせる吉野に、ノースはにこやかな笑みを湛えて額を寄せる。
「それでね、きみと学習指導の打ち合わせをしようと思っていたんだ」
「何、あれ、ヨシノじゃないみたいだ」
吉野から対角線上にある壁際の離れたテーブルで、アレンはクリスに声をひそめて囁いた。べつに声をひそめなくったって、そうそう窓際の二人まで届く位置ではない。判ってはいるが、今は吉野のことを大きな声で話題にはできない、そんな雰囲気が学校全体に広がっている。
チラチラと楽しそうに談笑している二人を眺めながらクリスも、「そうなんだよ。ヨシノ、ノース先生が来てから変なんだ」と、アレンに同意するようにふくれっ面をする。
「変って?」
「変だから、変なんだよ」
上手く説明できなくて、クリスは頭を左右に振って家鴨のように唇を尖らせる。
「あまり喋らなくなった。じっと黙りこんでたり――。そうかと思ったら、いっぱい喋って――。ああ、違う、そうじゃない……。ちっとも、笑わなくなったんだ」
「ちっとも?」
「うん、ちっとも」
クリスはやっと満足な答えを見つけて大きく頷く。
笑わない? 訝し気に、そっと隠れるようにしてアレンは吉野を目で追った。吉野は今まで見たことがないような上品な仕草でお茶を飲み、鷹揚な笑みを浮かべている。その向いに座るノースに観察するような視線を移す。細身だが長身で均整の取れた体躯は、きっと何か特定のスポーツで鍛えているのだろう。その知的な横顔はいかにもエリオットの卒業生で、着々とエリートコースを歩んできた自負が見え隠れしている。ふいに、ぞくりと背筋に寒気が走っていた。
「気持ち悪い……」
アレンは眉を寄せて顔を背けていた。そうだ、彼はこういうタイプの人間をよく知っている。金色の髪をしなやかにかき上げる仕草も、優し気な目許も、柔らかな笑みを浮かべるその口許も、全てが嘘くさい。米国の祖父の屋敷にいた大人たちは、皆が皆こんな雰囲気をしていたのだ。尊大さと媚を同時に含んだような――。
「あの先生、僕は嫌いだ」
汚らしいものでも見るような目つきで、もう一度一瞥すると、アレンはさも嫌そうにその眼を伏せた。
「僕には、写真記憶があるんです」
吉野の言葉に、ノースのカップを持つ手が止まった。
「え?」
「直感像記憶ができるんですよ。目に映ったものはすべて覚えている。そんな子どもに出会ったら、大人は何をさせたがると思いますか?」
吉野はノースではなく窓の外に顔を向けて、自分ではない誰かの噂話でもしているかのように話し始めていた。
「電話帳を覚えさせるかな? それとも百科事典?」
お茶を飲むことも忘れ、ノースは食い入るように吉野を見つめている。吉野はくいっと肩をすくめるとクスクスと笑った。
「入院していた母や、仕事にかかりきりだった父や兄に代わって僕の面倒をみてくれていたひとは、まずポーカーを教えてくれましたよ。二五九八九六十通りの組み合わせと、各役が完成する確率を覚えさせられました。それから、ブラックジャック。彼は、ラスベガスでディーラーをしていたんです。あそこには、僕みたいな人間がごろごろ、とまではいかないけれど何人かはいて、プロのギャンブラーになってゴッソリと店の売り上げを持って行くそうで、彼みたいな人がね、そのプロに対抗するために雇われていたんです。カードカウンティングって聞いたことないですか?」
ノースは好奇心で目をぎらぎらとさせながら、小さく首を振る。
「すでに開けられたカードを全部記憶するんですよ。そして残されたカードを見極めて、掛け金を調節する。僕の師匠もカウンティングが出来たんです。もっとも彼は、カウンティングするプレーヤーを見破って取り締まる方の側でしたがね」
吉野は足を組み換えると、人差し指を顔の前に立ててにっこりと笑う。
「内緒にしておいて下さい。こんなことがバレると、誰も僕と遊んでくれなくなる」
「もちろんだよ」
ノースは緊張した面持ちで用心深く周囲を見渡した。
「ご存知ですか? 優秀なプロポーカープレーヤーはね、ウォール街がスカウトに来るんですよ。僕の師匠にはそんな友人が沢山いた。仕事柄、職場のカジノを荒らされるよりもウォール街に行ってくれた方が助かりますからね。仲介みたいなこともしていたんです。だから僕も、カードの次は株式を、」言いかけて、ついっと視線を上げた吉野を、ノースはイライラした様子で見つめ、「それから?」と、顎をしゃくって先を促す。
「じゃ、僕はこれで。食後の自習時間は打ち合わせ通りに。よろしくお願いします」
にこやかに微笑んで立ち上がると、吉野はテーブルをぬうようにして歩いてくるベンジャミンの許へと急いだ。一言二言、言葉を交わし、直ぐに肩を並べてその場を立ち去った。そして去り際に、誰にも気づかれないように、アレンとクリスにウインクすることも忘れなかった。
その後ろ姿をノースは歯噛みしながら見送っている。不満そうに、眉間に皺を寄せて。
芝生を横切る吉野の背後から、吐き捨てるようなそんな言葉が聞こえてきた。傍らのノースは顔をしかめ、ベンジャミンは足を止めて振り返り、上品な眉を吊りあげて怒鳴り声をあげた。
「誰が言ったんだ!」
まばらに散らばるように歩いている上級生たちを、ぐるりとひとりひとり睨めつけていく。誰もがいち様に顔を伏せ、逃げるようにその足を速める。
ベンジャミンの背中に吉野は腕をまわし、先へ進むように促しながら苦笑する。
「大したことじゃないよ、早く行こう。
『体面などというやつは、およそ取るにたらぬ、うわつらだけの被せものに過ぎない。それだけの値打ちがなくても、手に入るときは入るし、身に覚えがなくとも、失うときには失うようにできている』
だろ?」
「第二幕、第三場だね」
ノースは満足そうに頷きながら歩き出す。ベンジャミンも仕方なく軽く息をついて彼らの後に続いた。
「創立祭の劇はきみも出るの?」
興味深そうにノースは吉野の顔を覗きこむ。
「僕は裏方です」
「もったいないよな、きみは台本を全部暗唱できるのに!」
まだ怒りが残っているのか、ベンジャミンの口調は荒い。
「それでオセローを?」
「いいえ、演目はリチャード三世です。
『良心などとは、臆病者の使う言葉だ。
強者を恐れさせるために作りだされた言葉だ。
武器が俺の良心、剣が法だ。
さあ進め、潔く戦おう、ひといくさあばれまわって、
天国にいけなかったら、ともに地獄に落ちよう』」
「『馬をくれ、馬を! 馬のかわりに我が王国をくれてやる!』」
ベンジャミンは大仰な身振りで両腕を掲げ、吉野の後を継いだ。リチャード三世の台詞を暗唱しているうちに先ほどまでの嫌な気分も切り替わり、三人は声を立てて笑いあった。
「昨夜はすみませんでした」
ベンジャミンが他の監督生に呼ばれ席を立ったのを見計らって、吉野はにこやかな笑みを浮かべてノースに謝罪した。夕方の自習時間が始まる前のカフェテラスは、先日と同じように利用している生徒はまばらだ。この場にいるのは試験をすでに受け終わった生徒か、今年度は受けない下級生だけだ。――例外も、いるにはいたが。
「あ、いや僕の方こそ配慮が行き届かなくて……」
どこかぼんやりと視線を漂わせていたノースは、慌てたようにお茶を濁す。
「それで、スコット先生の代理でも兼ねて、この年度が終わるまで僕が下級生組のチューターも務めることになったんだよ」
ノースは急に思い出したように告げた。
「掛け持ちで、ですか? それはまた大変ですね!」
驚いてみせる吉野に、ノースはにこやかな笑みを湛えて額を寄せる。
「それでね、きみと学習指導の打ち合わせをしようと思っていたんだ」
「何、あれ、ヨシノじゃないみたいだ」
吉野から対角線上にある壁際の離れたテーブルで、アレンはクリスに声をひそめて囁いた。べつに声をひそめなくったって、そうそう窓際の二人まで届く位置ではない。判ってはいるが、今は吉野のことを大きな声で話題にはできない、そんな雰囲気が学校全体に広がっている。
チラチラと楽しそうに談笑している二人を眺めながらクリスも、「そうなんだよ。ヨシノ、ノース先生が来てから変なんだ」と、アレンに同意するようにふくれっ面をする。
「変って?」
「変だから、変なんだよ」
上手く説明できなくて、クリスは頭を左右に振って家鴨のように唇を尖らせる。
「あまり喋らなくなった。じっと黙りこんでたり――。そうかと思ったら、いっぱい喋って――。ああ、違う、そうじゃない……。ちっとも、笑わなくなったんだ」
「ちっとも?」
「うん、ちっとも」
クリスはやっと満足な答えを見つけて大きく頷く。
笑わない? 訝し気に、そっと隠れるようにしてアレンは吉野を目で追った。吉野は今まで見たことがないような上品な仕草でお茶を飲み、鷹揚な笑みを浮かべている。その向いに座るノースに観察するような視線を移す。細身だが長身で均整の取れた体躯は、きっと何か特定のスポーツで鍛えているのだろう。その知的な横顔はいかにもエリオットの卒業生で、着々とエリートコースを歩んできた自負が見え隠れしている。ふいに、ぞくりと背筋に寒気が走っていた。
「気持ち悪い……」
アレンは眉を寄せて顔を背けていた。そうだ、彼はこういうタイプの人間をよく知っている。金色の髪をしなやかにかき上げる仕草も、優し気な目許も、柔らかな笑みを浮かべるその口許も、全てが嘘くさい。米国の祖父の屋敷にいた大人たちは、皆が皆こんな雰囲気をしていたのだ。尊大さと媚を同時に含んだような――。
「あの先生、僕は嫌いだ」
汚らしいものでも見るような目つきで、もう一度一瞥すると、アレンはさも嫌そうにその眼を伏せた。
「僕には、写真記憶があるんです」
吉野の言葉に、ノースのカップを持つ手が止まった。
「え?」
「直感像記憶ができるんですよ。目に映ったものはすべて覚えている。そんな子どもに出会ったら、大人は何をさせたがると思いますか?」
吉野はノースではなく窓の外に顔を向けて、自分ではない誰かの噂話でもしているかのように話し始めていた。
「電話帳を覚えさせるかな? それとも百科事典?」
お茶を飲むことも忘れ、ノースは食い入るように吉野を見つめている。吉野はくいっと肩をすくめるとクスクスと笑った。
「入院していた母や、仕事にかかりきりだった父や兄に代わって僕の面倒をみてくれていたひとは、まずポーカーを教えてくれましたよ。二五九八九六十通りの組み合わせと、各役が完成する確率を覚えさせられました。それから、ブラックジャック。彼は、ラスベガスでディーラーをしていたんです。あそこには、僕みたいな人間がごろごろ、とまではいかないけれど何人かはいて、プロのギャンブラーになってゴッソリと店の売り上げを持って行くそうで、彼みたいな人がね、そのプロに対抗するために雇われていたんです。カードカウンティングって聞いたことないですか?」
ノースは好奇心で目をぎらぎらとさせながら、小さく首を振る。
「すでに開けられたカードを全部記憶するんですよ。そして残されたカードを見極めて、掛け金を調節する。僕の師匠もカウンティングが出来たんです。もっとも彼は、カウンティングするプレーヤーを見破って取り締まる方の側でしたがね」
吉野は足を組み換えると、人差し指を顔の前に立ててにっこりと笑う。
「内緒にしておいて下さい。こんなことがバレると、誰も僕と遊んでくれなくなる」
「もちろんだよ」
ノースは緊張した面持ちで用心深く周囲を見渡した。
「ご存知ですか? 優秀なプロポーカープレーヤーはね、ウォール街がスカウトに来るんですよ。僕の師匠にはそんな友人が沢山いた。仕事柄、職場のカジノを荒らされるよりもウォール街に行ってくれた方が助かりますからね。仲介みたいなこともしていたんです。だから僕も、カードの次は株式を、」言いかけて、ついっと視線を上げた吉野を、ノースはイライラした様子で見つめ、「それから?」と、顎をしゃくって先を促す。
「じゃ、僕はこれで。食後の自習時間は打ち合わせ通りに。よろしくお願いします」
にこやかに微笑んで立ち上がると、吉野はテーブルをぬうようにして歩いてくるベンジャミンの許へと急いだ。一言二言、言葉を交わし、直ぐに肩を並べてその場を立ち去った。そして去り際に、誰にも気づかれないように、アレンとクリスにウインクすることも忘れなかった。
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