胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 アレン・フェイラーが自室に戻ってきたころには日はとっぷりと暮れ、時計の針は夜の十時を廻っていた。ニヤニヤと思い出し笑いに頬を緩めながらピアノの前に腰かけ、鍵盤蓋を開ける。高揚した気分のまま艶やかに光る鍵盤に指を落とそうとしたとき、邪魔するようにノックの音がコツコツと響いた。
 ドアを開けると、祖父の秘書が立っている。緊張で胃がきゅっと引きしまるのが判った。

「会長がお呼びです」
 言葉少なに告げられ、アレンは背筋を伸ばして彼の後に続いた。



 応接室をおおう寒々とした空気の中に、アレンはぎこちなく緊張で震える足を踏みいれた。艶のあるマカボニーの肘かけに腕をかけた祖父の背中に向いあい、つい先ほど別れたばかりの吉野が、青銀灰色のソファーに足を組んで座っている。その横には難しい顔をした兄もいる。
 その兄は彼に目線を向けると、ちょっと唇の端をあげて残念そうに微笑んだ。

「すまない、アレン。交渉決裂だ」

 その言葉に、アレンは一瞬のうちに暗闇に叩き落とされた。だが、顔面蒼白で立ち尽くす彼をちらりと見上げ、「まだだよ、まだ終わってない」と、吉野は薄ら嗤いを浮かべている。そしてすぐに嗤いを引っ込めると、ベンジャミン・フェイラーを見据えて、尊大な態度で言い放った。

「時代の読めない耄碌もうろくしたあんたでも、孫は可愛いんだろ? こいつが最後のカードを切る前に、さっさと条件を飲めよ」
「最後のカード?」
 くぐもった祖父の声からは、何の感情も汲み取れない。
「ヨシノ……」
 驚いているのは、その傍にいるヘンリーの方だ。

「あんたはジョサイア貿易をソールスベリーに返すだけで、フェイラーの名誉を保てるんだ。おまけに株価の下落局面で3%もの自社株を市場から回収できるんだぞ。極めつけに俺の助言まで手に入るっていうのに。損な取引じゃないことくらい判っているはずだ。それとも、ほんとに判んないのかよ?」

 吉野は膝の上に腕を立て、顎を手で支えてくっくと含み嗤った。

「あんたの可愛い孫娘の商品価値が、確実に下がるっていうことだよ」

 アレンには、シャンデリアの灯りを鈍く跳ね返す、光沢のある絹張りの背もたれ越しの祖父の肩が、怒りで振るえているように窺える。

「成金ばかりの米国じゃ問題なくても、欧州じゃ通用しないよ。――これ以上、こいつの前で言わせるのかよ」
 吉野は小さな吐息交じりに顎をしゃくり、アレンを指し示した。


「ヨシノ、やめなさい」
 ヘンリーが露骨に顔をしかめている。
「もっと、効果的に使える時まで待てってか?」
 吉野はポケットから折りたたまれた一枚の紙を取りだし、ヘンリーに突きつけた。
「これが俺の最後のカードだ」
 ヘンリーはその紙を開き読むと、ふっと唇を歪めるようにして微笑んだ。
「きみって子は――。僕は初めて、きみとアスカが確かに兄弟だって認識できたよ」



「お祖父さま、僕を学校に戻して下さい」
 この部屋に入ってから初めて、アレンが口を開いた。

 アレンは、ゆっくりとソファーの脇に置かれていたデザートワゴンに歩みよると、その上に置かれた色取りどりのケーキや果物に目を落とし、そっと艶やかな赤い林檎の表面を指先で撫でる。

「兄はフェイラーを継ぐことはありませんよ。あなたの負けです、お祖父さま。――例え不義の子であろうと、僕が、あなたの後を継ぐたった一人の直系男子なんです。その僕が望んでいるのに、どうして叶わないんです?」

 しーんと静まり返る応接室に、アレンのまだ声変わりしていない高い声だけが響き渡る。

「フェイラーとして生まれてきたのに、たったひとつの望みさえ叶わないのなら生きている意味がない」
 おもむろにワゴンの上に置かれたケーキナイフを取り上げ、自分の首筋に当てた。わずかにその刃先から青白いうなじの表皮に鮮血が浮かんだ。

「この家は、キャルにその辺の馬の骨でもあてがって継がせるといいんだ!」
 ひりっとした痛みに、アレンは我を忘れていた。

「お前がわしを脅すのか!」

 祖父の太い声に、アレンは怒りを込めて睨み返している。

「あなたが本当に僕の祖父なのなら、命に代えても通したい想いがあることを解るはずだ!」

 フェイラーは、ブルブルと震える手でローテーブルに置かれた書類にペンを走らせた。
「わしはお前に屈したわけじゃないぞ。孫の我儘をきいてやっただけだ」顔を上げ、じっと腕組みしてこの成行きを見守っていたヘンリーを睨みつける。

「結構」

 ヘンリーは、ひんやりとした笑みを口の端にのせ、ゆっくりと右手を差しだして交渉成立の握手を交わす。



 吉野はアレンの傍に駆けより、その両肩に手をかけて思いきり深く溜息をついていた。

「お前って、意外に過激なやつだったんだな……。ほら、危ないからナイフを置けよ」

 握りしめたまま緊張し過ぎて強張ってしまったアレンの指を一本一本剥がすようにして、吉野はようやくその手からナイフを取りあげた。カチャン、と音をたてて傍のワゴンに置くと、そのままアレンの頭を掻き抱いて耳許で囁いた。

「お前、本当、馬鹿だな。こんなナイフじゃ死ねないぞ。痛い思いをするだけだ」
 吉野の濃紺のスーツを握りしめて嗚咽するアレンの頭を、苦笑しながらよしよしと撫でてやる。反対の手で、首筋にかかる柔らかな金髪を避けて、わずかに血の滲む傷口を指で抑えた。

「馬鹿な奴……」

 いつの間にか傍らに立つヘンリーに肩を叩かれた。
「帰るよ」
 吉野は頷き、アレンは顔を伏せたまま彼から身体を離して拳で涙を拭っている。

「待って、待っていてね。すぐに戻るから」
 吉野はもう一度、アレンの髪をくしゃっと撫でてやった。


「おい、その躾がなっとらん小僧から非礼の詫びのひとつもないのか?」
 戸口に向かう彼らを、憎々し気なフェイラーの声が呼びとめた。

「詫び? あんた俺に謝って欲しいの?」
 吉野はくっと唇を歪め、肩をすくめる。

「別にいいよ、それであんたの気が済むなら。あんたの自尊心は安くていいね。そんなことで治まるんだから。相手に謝らせて気が済むのは、傷ついてないからだよ。ただ単にちょっと自尊心が貶められただけで、心が傷ついているわけじゃない。そんなものは、頭を下げさせればたちどころに回復だ。――切り刻まれるように傷んだ心には、ごめんなんて言葉は届かないよ。それで、あんたは、こいつにこれからどうやって謝罪するの?」

 静かな鳶色の瞳で吉野はじっとフェイラーを見つめる。返答のないフェイラーに、ふっと小さく哂い、背中を向けるとそのまま踵を返して部屋を出た。




「きみにとって、交渉の席はカードゲームみたいなものなのかい?」
 車寄せでリムジンを待ちながら、ヘンリーは暗く星の視えない夜空を見あげながら訊ねた。
「そうだよ。テーブルに着いたら、後は確率と駆け引きだ。挑発に乗った方が負け。不変の法則だよ」
「それがきみの人生観かい?」
「そんな大したものじゃないよ。しょせん俺たちは、神さまの双六遊びの駒にすぎないんだ。せめて少しでも自分にいい目が出るように祈るだけだよ」

 ヘンリーが肩越しに振り返ると、吉野も同じように空を見上げていた。淡々と、どこか遥か遠くを眺めるような目をして――。





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