胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 逃げる? 僕は決して逃げたわけじゃない――。

 吉野の言葉を反芻しながら、廊下の壁にもたれて腕組みして待つヘンリーのスーツの端が、くいっと引っ張られた。ハッとして、傍に立つサラに今さらながら気づく。

「駄目だよ、サラ。まだ彼には会わない方がいい」
「お願い、どうしても知りたいの」
「そのことは、僕からちゃんと彼に訊いておくから」

 サラは首を振って、強請るようにヘンリーを見つめる。

「サラ、僕を困らせないで」
 優しく微笑んで頭を撫でるヘンリーの手をふいっと避けて、サラは向いの客室に駆け寄るとドアを開けた。


「おい、ノックぐらいしろよ。いるの判ってんだろ?」
 素肌に白いカッターシャツを羽織りながら、吉野は顔をしかめる。真っ赤になって顔を背けたサラは、それでもたどたどしい口調で、「ヨシノ、どうやって、コズモスに侵入したの?」と、この数カ月間ずっと彼女の頭を占領していた疑問を投げかけた。

「判らなかっただろ?」
 吉野の揶揄うような口調に、サラは悔しそうに眉を寄せる。
「お前、あいつの作った世界を信じすぎ」
「えっ?」と、サラは恐る恐る吉野の方に視線を向けた。

「ここにいさえすれば、自分は安全だと思っているだろ? あいつの選んだ人間だけに囲まれていれば、何も心配いらない、って」

 首を反らせてネクタイを結ぶ吉野は、意地悪な笑みを浮かべている。

「悪いな、俺はあいつがお前のために選んだ安全な人間じゃないんだ」


「サラ、おいで」
 守るようにヘンリーがサラの肩を抱いた。

「判ったかい? きみは、彼の目の前でパスワードを打ち込んだんだよ。彼は外部から侵入したんじゃない、アスカが使っているコズモスの端末を通して、全てきみのパスワードで行われていたんだ」

 ヘンリーは茫然と立ち尽くすサラに部屋を出るように促し、濃紺のスーツに袖を通し着替え終わった吉野に、「正面玄関で待っていて。直ぐに行くから」と、声をかけると静かにドアを開けた。




「あまり彼女をいじめないでくれないか」 
「質問に答えただけだ」

 正面玄関前のフォーマルガーデンをぬけ、見渡す限りに広がる芝生の一部に作られたヘリポートから自家用ヘリコプターに乗り込んだ。騒音から耳を守り、大声を上げずに会話するためのヘッドセットを装着して、吉野の耳に最初に聞こえてきたのがこの言葉だった。

 出立直前まで、ヘンリーはサラを気遣い、マーカスに細々とした指示を申しつけていた。吉野は呆れた顔でその様子を眺めていた。

「あんた、過保護すぎだろ」
「きみがそれを言うのかい?」

 肘が触れ合うほどの距離感で座っているのに、まるで遠くにいる誰かと会話しているように、お互いあらぬ方向を眺めている。

「いつまで胡桃の殻に閉じ込めておくつもりなんだ?」
「少しずつ慣らしていくつもりだった」
「無駄だな。あの子にとっちゃ、あんたが世界の全てだろ」
「きみみたいに?」

 吉野はくるりと振り返り、ヘンリーの取り澄ました顔を睨めつける。

「おい、俺のどこが、」
「うるさいよ、怒鳴るな」

 ヘンリーは、眉を寄せてチラリと吉野を見ると、また直ぐに視線を前方に向けた。

「きみたち兄弟のことはよく判らない」
「ほっとけよ、あんたには関係ない」
「きみっていう錬金術師がいるのに、どうして『杜月』は何度も倒産の憂き目に遭っているんだい? きみのその金融工学の知識があれば、資金繰りくらいどうとでもできただろうに」
「おい、飛鳥にバラすなよ」


 吉野はチッと舌打ちしながら、腹立たしげに、灰色の空の下、遠ざかっていく広大な緑の中の領主館を目で追った。単純に顔を背けている理由が欲しかったのだ。

「飛鳥も、親父も、俺が金儲けするのを嫌がるんだ。何よりも祖父ちゃんがそういう人だったんだよ。利潤追求していたら、いいものは作れないって」
「賢い方だったんだね。その知恵は、きみには受け継がれなかったようだけれど」
「あんたが言うのか? サラにあんなシステムを作らせておいて!」
「あれは彼女の趣味だよ。だから、一般には公開していない。それなのにきみのおかげで、会社の電話が鳴りっぱなしだ。Bコインのマイニング専用パソコンを開発しているのか、とか、システム・トレーディングソフトを売ってくれとか――。きみ、最大限にサラを利用してくれたね。今回は、僕の方にも落ち度があったようだから不問にするけれど、次はないからね」
「何が、今回は、だ! あんたは、落ち度だらけだろうが! 飛鳥を不安の中に放りだしておいて、落ち度がないとは言わせないぞ!」


 心外だと言わんばかりに、ヘンリーは眉をひそめて吉野に顔を向けた。

「彼は僕がいなくたって、すべきことをきちんとしてくれているじゃないか。きみと違って、彼は大人だ」
「ふざけるなよ! 薬に頼らなきゃいけないほど不安定な飛鳥に気づきもしないで、あんたは義妹にかかりっきりだったじゃないか! あんたを信じて早期入学を諦めたのに、あんた、大嘘付きの、とんだ唐変木だ!」

 噛みつくように発せられた吉野の言葉に、ヘンリーは不思議そうな顔で首を傾げ、呟いた。

「薬?」
「飛鳥の薬、睡眠薬だよ。普段は俺が管理しているけれど、飛鳥にも最低単位持たせてる。過労や貧血で外で倒れられたら困るからな。副作用も離脱症状もキツイのが判っているから、滅多なことじゃ飛鳥だって飲まないのに、今回は手持ちを全部飲み切ってた。あんたのせいだ」
「薬って、何を? フルニトラゼパム?」
「トリアゾラム」
「英国では禁止薬物だ。――夏にも飲んでいたの? だから幻聴や記憶障害が出ていたの?」

 心配そうに眉根を寄せ、目を細めて記憶の糸を手繰っているヘンリーを、吉野は冷たい瞳で一瞥し、頷いた。

「そうだよ。夏は、仕方がない。あんたのせいじゃない。一年通してお盆の頃が一番酷いからな。――ウイスタンに入学したての頃も、薬、飲んでたんだ。でも、あんたがヴァイオリンを弾いているのを見ていたら、自然と眠れるようになったって、言ってたんだ。本当に奏でられているわけじゃないのに、透明な綺麗な音に包まれているみたいで安心できたって。それからこの夏までほとんど薬を使わなかったから、俺、どこか安心してたんだ」

 吉野はキッとヘンリーを睨みつけ、淡々とした口調で継いだ。

「俺、あんたがケンブリッジに戻らないのなら、エリオットを辞めてケンブリッジの公立校に通うよ。今回のことで奨学金に頼らなくてもいいくらい英国での滞在費を稼げたしな」

 ヘンリーは絶句して、次いでクスクス笑い出した。

「きみって子は、どうしてそう、短絡的なんだい?」
「短絡ってさぁ、原因と結果を一番早く結びつける方法なんだよ」
「それは困るな、今までの彼の苦労が水の泡になってしまう。米国に着くまで時間はたっぷりとある。きみが納得できるまで話し合おうじゃないか」

 お前の顔なんか見たくもないのに――。

 そんな吉野の心の声が聞こえたかのように、ヘンリーは言葉を継いだ。

「なんなら、このヘッドセットを機内に持ち込んで会話を続けるかい? 構わないよ、その方がきみが話し易いのなら」


 装着されたイヤホンからは、吉野の神経を逆なでするクスクス笑いが、またも漏れ聞こえていた。






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