232 / 745
四章
3
しおりを挟む
ケンブリッジにあるフラットのベランダに初夏の涼し気な風が通りぬけ、ガーデンテーブルの上に置かれたクリスタルのペーパーウェイトで押さえられた幾つもの書類をバタつかせている。
「OK」
電話を切りながらガラス戸を開けベランダに戻って来たアーネストは、皮肉な笑みを浮かべて、五月の澄み渡る青空に顔を向けた。
「青って色は、目に染みるねぇ」
しみじみとそう呟いた兄を、デヴィッドは心配そうに見つめている。
「誰から?」
「ヨシノだよ。目標達成したから、学校に外出許可を取ってくれって。明日の朝にはマーシュコートに向かうそうだ」
「目標達成って、まさか……」
「そのまさか。フェイラー社の株式3%集めたってさ」
驚愕するデヴィッドの向かいに、苦笑しながら腰を下ろす。
「ヘンリーのお金、三十倍に増やしたってこと? 」
「いや、実際にはそこまでではないよ。あの時から比べると、フェイラー株がかなり下がっているからね。二十倍くらいかな。それでも驚異的なパフォーマンスだ。あの子の二つ名も伊達じゃないな」
「二つ名って?」
デヴィッドは茫然と呟いた。アーネストは溜息混じりに説明する。
「ああ、お前は知らないんだったね。あの子、潰れかけていたパブを再建させて、黄金の指のミダスって呼ばれているんだよ。それにここ最近、名前は伏せられているけれど、エリオットの錬金術師だとか、預言者だとか言われているリーダーがいる投資サークルがSNSで騒がれているんだ。これ、あの子が校内で立ち上げたんだよ」
「ヨシノって、そんな才能があったの?」
料理が上手くて、ゲームに強くて、いつも弓を引いているか泳いでいるか、お兄ちゃんっ子でクールな見かけよりもずっと甘えん坊の、そんな吉野しか、僕は知らない――。
徐々に青ざめていく弟の様子に、アーネストは訝し気に眉を寄せる。
「数字に関しては、アスカの上をいくって話だからね。お前のいない間にいろいろあったんだよ。ほら、ポーカーの話をしただろ? ――デイヴ、どうしたんだい?」
すっかり色をなくしたデヴィッドの顔を、アーネストは心配そうにのぞき込んだ。
「アーニー、どうしよう――。僕、きっとヘンリーに怒られるよ。……ちょっとだけ、ヨシノを懲らしめようと思ったんだよぉ。すぐに困って泣きついてくると思ってぇ。だからヘンリーから、ヨシノに伝えるように言われたこと、わざと言わなかった……」
ぎゅっと目を瞑り、今にも泣きだしそうに膝の上で小刻みに震える拳を握り締めているデヴィッドの巻き毛に、アーネストは、ふわりと手を当てると慰めるように優しく微笑んだ。
「大丈夫、ヘンリーは怒ったりしないよ。終わり良ければ全て良し、っていうじゃないか」
何日も続いた晴天もとうとう長年の習慣に負けたのか夜半から崩れ始め、朝方には馴染み深いどんよりとした曇天に替わっていた。
吉野は通された応接間の窓から、霧雨の降りそそぐフォーマルガーデンを見おろしながら、晴れている時よりも、小雨や曇り空の方が落ち着くってんだから、俺もいい加減この国に毒されてきているんだな――。と、苦笑する。
「お待たせ」
久しぶりに見るヘンリー・ソールスベリーは、以前よりも少し、やつれているようだった。そのためによりいっそう研ぎ澄まされた鋭角的な印象は、独特の威圧感を増幅させている。だが、変わらない優雅で滑らかな仕草がその威圧を上手く包み隠し、上品でもの柔らかな好青年に彼を形作っていた。
ソファーの横に立ち、座るように促しているヘンリーをぎっと睨めつけ、吉野は押し殺した声で告げた。
「買いつけた株は、あんたの口座に戻したよ。俺は約束を守った。今度は、あんたが約束を守る番だ」
「約束?」
ヘンリーは小首を傾げ、ソファーに腰かけると手ずからお茶を淹れ向いの席に置いた。
「何のこと?」
「お前、ふざけるなよ!」
激昂する吉野を静かな瞳で見据え、くいっと顎をしゃくる。座るように、と有無を言わさぬ目線で命令していた。まずは吉野を従わせ、柔らかく微笑んで訊ねた。
「どんな約束なのか、教えてくれる?」
「なるほどね――。どうやら行き違いがあったようだね。僕は、きみが移動させた金で好きなだけフェイラー株を買うといい、足りなければ資金援助する、そう言ったんだよ。3%云々は、ものの例えだ。もともと僕だって、1%程度は持っているからね。メールでのやり取りのせいで誤解が生じてしまったんだね」
ヘンリーは、憐れむような眼差しで吉野を見ると、くすくすと笑った。
「道理であんな無茶な投資を繰り返して、この短期間にこうも増やしたわけだ。きみがフェイラー株を3%も買いつけた時には、何の冗談かと思ったよ」
眉を寄せ、黙ったまま聞いていた吉野は、吐き捨てるように呟いた。
「じゃ、俺は勝手に誤解して、馬鹿みたいにお前の掌で踊らされただけだって言うのかよ?」
「そんな事、言うわけないじゃないか」
にっこりと笑い、ヘンリーはゆっくりとティーカップを口に運ぶ。
「パスポートは持ってきた?」
学校外に出掛ける時には常に携帯している。吉野はしかめっ面のまま頷いた。
「じゃ、行こうか。ヒースローにフェイラーのプライベートジェットを待たせているんだ」
目を瞠り、ポカンと呆けている吉野に微笑みかけ、「急ぐんだろう? だからわざわざ外出許可を取ってまで平日に来たんだろう? 今日行って、今日連れ帰ることは無理でも、せめて六月の創立祭と学年末試験には間に合わせたい、そんなところかな?」ヘンリーは立ちあがると、優美な仕草で右手を差しだした。
「約束云々は抜きにして、きみが買いつけてくれたフェイラー株は、僕にとって大切な切り札になり得るよ。だから、きみに感謝と敬意を表明するよ、きみの望む通りの行動でもってね」
吉野は嫌々その手を握り返す。だが、すぐに冷ややかな瞳のままヘンリーを真っすぐに見つめて告げた。
「一時休戦だ。だけど俺、あんたのこと、もう信じないし許さないよ。あんたは、飛鳥を放り出して逃げたんだからな」
「OK」
電話を切りながらガラス戸を開けベランダに戻って来たアーネストは、皮肉な笑みを浮かべて、五月の澄み渡る青空に顔を向けた。
「青って色は、目に染みるねぇ」
しみじみとそう呟いた兄を、デヴィッドは心配そうに見つめている。
「誰から?」
「ヨシノだよ。目標達成したから、学校に外出許可を取ってくれって。明日の朝にはマーシュコートに向かうそうだ」
「目標達成って、まさか……」
「そのまさか。フェイラー社の株式3%集めたってさ」
驚愕するデヴィッドの向かいに、苦笑しながら腰を下ろす。
「ヘンリーのお金、三十倍に増やしたってこと? 」
「いや、実際にはそこまでではないよ。あの時から比べると、フェイラー株がかなり下がっているからね。二十倍くらいかな。それでも驚異的なパフォーマンスだ。あの子の二つ名も伊達じゃないな」
「二つ名って?」
デヴィッドは茫然と呟いた。アーネストは溜息混じりに説明する。
「ああ、お前は知らないんだったね。あの子、潰れかけていたパブを再建させて、黄金の指のミダスって呼ばれているんだよ。それにここ最近、名前は伏せられているけれど、エリオットの錬金術師だとか、預言者だとか言われているリーダーがいる投資サークルがSNSで騒がれているんだ。これ、あの子が校内で立ち上げたんだよ」
「ヨシノって、そんな才能があったの?」
料理が上手くて、ゲームに強くて、いつも弓を引いているか泳いでいるか、お兄ちゃんっ子でクールな見かけよりもずっと甘えん坊の、そんな吉野しか、僕は知らない――。
徐々に青ざめていく弟の様子に、アーネストは訝し気に眉を寄せる。
「数字に関しては、アスカの上をいくって話だからね。お前のいない間にいろいろあったんだよ。ほら、ポーカーの話をしただろ? ――デイヴ、どうしたんだい?」
すっかり色をなくしたデヴィッドの顔を、アーネストは心配そうにのぞき込んだ。
「アーニー、どうしよう――。僕、きっとヘンリーに怒られるよ。……ちょっとだけ、ヨシノを懲らしめようと思ったんだよぉ。すぐに困って泣きついてくると思ってぇ。だからヘンリーから、ヨシノに伝えるように言われたこと、わざと言わなかった……」
ぎゅっと目を瞑り、今にも泣きだしそうに膝の上で小刻みに震える拳を握り締めているデヴィッドの巻き毛に、アーネストは、ふわりと手を当てると慰めるように優しく微笑んだ。
「大丈夫、ヘンリーは怒ったりしないよ。終わり良ければ全て良し、っていうじゃないか」
何日も続いた晴天もとうとう長年の習慣に負けたのか夜半から崩れ始め、朝方には馴染み深いどんよりとした曇天に替わっていた。
吉野は通された応接間の窓から、霧雨の降りそそぐフォーマルガーデンを見おろしながら、晴れている時よりも、小雨や曇り空の方が落ち着くってんだから、俺もいい加減この国に毒されてきているんだな――。と、苦笑する。
「お待たせ」
久しぶりに見るヘンリー・ソールスベリーは、以前よりも少し、やつれているようだった。そのためによりいっそう研ぎ澄まされた鋭角的な印象は、独特の威圧感を増幅させている。だが、変わらない優雅で滑らかな仕草がその威圧を上手く包み隠し、上品でもの柔らかな好青年に彼を形作っていた。
ソファーの横に立ち、座るように促しているヘンリーをぎっと睨めつけ、吉野は押し殺した声で告げた。
「買いつけた株は、あんたの口座に戻したよ。俺は約束を守った。今度は、あんたが約束を守る番だ」
「約束?」
ヘンリーは小首を傾げ、ソファーに腰かけると手ずからお茶を淹れ向いの席に置いた。
「何のこと?」
「お前、ふざけるなよ!」
激昂する吉野を静かな瞳で見据え、くいっと顎をしゃくる。座るように、と有無を言わさぬ目線で命令していた。まずは吉野を従わせ、柔らかく微笑んで訊ねた。
「どんな約束なのか、教えてくれる?」
「なるほどね――。どうやら行き違いがあったようだね。僕は、きみが移動させた金で好きなだけフェイラー株を買うといい、足りなければ資金援助する、そう言ったんだよ。3%云々は、ものの例えだ。もともと僕だって、1%程度は持っているからね。メールでのやり取りのせいで誤解が生じてしまったんだね」
ヘンリーは、憐れむような眼差しで吉野を見ると、くすくすと笑った。
「道理であんな無茶な投資を繰り返して、この短期間にこうも増やしたわけだ。きみがフェイラー株を3%も買いつけた時には、何の冗談かと思ったよ」
眉を寄せ、黙ったまま聞いていた吉野は、吐き捨てるように呟いた。
「じゃ、俺は勝手に誤解して、馬鹿みたいにお前の掌で踊らされただけだって言うのかよ?」
「そんな事、言うわけないじゃないか」
にっこりと笑い、ヘンリーはゆっくりとティーカップを口に運ぶ。
「パスポートは持ってきた?」
学校外に出掛ける時には常に携帯している。吉野はしかめっ面のまま頷いた。
「じゃ、行こうか。ヒースローにフェイラーのプライベートジェットを待たせているんだ」
目を瞠り、ポカンと呆けている吉野に微笑みかけ、「急ぐんだろう? だからわざわざ外出許可を取ってまで平日に来たんだろう? 今日行って、今日連れ帰ることは無理でも、せめて六月の創立祭と学年末試験には間に合わせたい、そんなところかな?」ヘンリーは立ちあがると、優美な仕草で右手を差しだした。
「約束云々は抜きにして、きみが買いつけてくれたフェイラー株は、僕にとって大切な切り札になり得るよ。だから、きみに感謝と敬意を表明するよ、きみの望む通りの行動でもってね」
吉野は嫌々その手を握り返す。だが、すぐに冷ややかな瞳のままヘンリーを真っすぐに見つめて告げた。
「一時休戦だ。だけど俺、あんたのこと、もう信じないし許さないよ。あんたは、飛鳥を放り出して逃げたんだからな」
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる