胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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「きみは、あの屋敷から彼を連れだすものだと思っていたよ」
「連れだしてどうするんだ? ファーストフードでコーヒーでも飲みながら、あいつのいない学校の話を聞かせて、じゃ、元気でな、て別れるのか?」

 ソファーの上に胡坐を掻いて座っている吉野は、ふと思い出したように呟かれたサウードの問いに、目まぐるしく指を動かしながら空中に浮かぶTSのページをスクロールさせつつ答えていた。高度一万メートルの上空を飛ぶサウードの国の王室専用機のラウンジ内は、そんな彼のかもしだすピリピリとした空気に覆われている。


「あー、めんどくせぇ……。こいつもまだまだ改良の余地ありだな」
 溜息をついて倒れるように、吉野はソファーにもたれ掛かる。

「少し休んだら?」
「今のうちにできるだけ進めておきたいんだ。学校が始まったらもっと忙しくなる」
「彼には話さなかったの?」
「何を?」
「きみのしようとしている事」
「お前ん家の会社の株、叩き落して俺が買い占めるからな、ってか?」

 ぞんざいな吉野の口調にサウードは苦笑で応え、イスハ―クを呼んでお茶の用意を言いつけた。

「なぁ、少し予定を早めて準備に入りたいんだ。そろそろ日本市場の資金を移動させてフェイラー株に空売りをしかけるよ」
「決算発表までまだ一週間あるよ。当日に、一気に落とすんじゃなかったの?」
「そのつもりだったんだけどな、この一、二週間、株価の動きがおかしいんだ。たぶん、漏れているよ。どこかがすでにフェイラー株を売り始めてるんだ。クリスん家かなぁ……。あの食えなさそうな爺さんに、はやばやと掴まれたかもなぁ」

 溜息まじりにぼやく吉野を、サウードは、今度は声を立てて笑った。

「きみが漏らしたんじゃないの?」
「まさか、俺、まだ売ってないもん」

 唇を尖らせ困り顔の吉野の前にある四角いティーテーブルに、お茶とサンドイッチが運ばれてきた。吉野は早速摘み上げ、かぶりつく。
「だいたいさぁ、今はネイキッド売りショートセリングが出来ないんだからさ、持っているやつか、俺みたいに借りてくるやつしか売れないんだよ。だったらさ、売っているやつって限られてくるだろ?」
「幾ら用意すればいいの?」
「四十億ドル分」
「――凄いね。もう、十倍になっているんだ!」

 感嘆の声を上げるサウードに、「ここからが大変なんだ。小口分散化でちまちま稼ぐ手は使えなくなる。お前んところが頼りなんだよ」と、吉野は、いっぱいに頬張りながら曇りのない瞳をまっすぐに向ける。


 サウードの国の政府系ファンドの持つフェイラー株を借り受け、空売りをする手筈はすでに調えている。同時に、サウードも売り参戦してくれる予定だ。少しでも高い位置で売り、決算日を迎えたい――。そのつもりだったのに、大方のアナリストの増益予想に反してフェイラー株はもうすでに下がり始めているのだ。

「それでね、ヨシノ、フェイラーの大株主になってどうするの? アレンのこと、どう交渉するの?」
「さぁ? それをするのは、俺じゃない。ヘンリーだよ」

 吉野は、ぐびぐびと紅茶を飲みながら気のなさそうな返事をした。

「きみがね、アレンのためにこうやって骨を折ってあげるのって、彼がきみのお兄さんに似ているから?」

 吉野はポカンとサウードを見つめ、「似ているか?」と眉をしかめた。

「クリスがそう言っていた。だから特別親近感が湧くんだろうって」
「飛鳥みたいな人間が、この世に二人といるわけないだろ」

 不愉快そうに顔を歪める吉野の反応に、逆にサウードの方が驚きを隠せない。

「じゃあ、なんで?」
「ひとつは、ヘンリーや、あいつの祖父さんのやり方が気に食わないからだよ。それから単に面白いんだ、あいつを見ていると。だってあいつ、赤ん坊みたいだろ、何も知らなくて」

 意外な言葉にサウードは目が点になる。

「――そんなふうに思ったことは、僕はないな」

 キングススカラーの中でも優秀なアレンは、授業の発表や討論会でも辛辣な物言いをする。気位が高く、初めの頃レイシストと思わせた人を見下した態度も、他人よりも抜きんでた知性と教養に裏打ちされたものだ。同じ授業を取ることが少ないとはいえ、吉野が知らないはずはないのに。ずば抜けて優秀、どころではないヨシノからすると、アレンでも赤ん坊なのだろうか? それなら、自分などは精子レベルかも――。と、あらぬ方向に思考が走り、サウードは膝の上に頬杖をついてずっしりと重い頭を支える羽目に陥っていた。


「なぁ、」
「え?」

 サウードはグルグルと回る思考を断ち切って顔を上げた。

「それにな、俺、あいつと俺は同じだって思うことよくあるよ。親近感っていうなら、飛鳥じゃなくて俺自身と同じところがあるからだと思う。お前なら解ると思うけど――」
「…………」

 解ると言われても、見当もつかない。はたから見ている側からすれば、吉野とアレンは水と油のようだ。考えても解りそうにないので、サウードは素直に訊ね返した。

「何が同じなの? 僕はきみと彼の間に共通点を見いだせないよ」
「そうか?」

 吉野は屈託のない顔でクスクスと笑い、「傷と痛みだよ」とどこか優しい目をして遠くを見つめる。

「俺さぁ、何度も飛鳥を殺されかかったからさ、それ以上に怖いことなんてないんだよ。アレンもな、兄貴中心に世界が回っているだろ。自分を見ているみたいで、痛ましいのかなぁ。俺の幸運は飛鳥が兄貴だったってことだけど、あいつの不幸は兄貴がヘンリー・ソールスベリーだってことだ。だから、ホント、可哀想だな、って思うんだよ」

 吉野はサウードに視線を戻し、その深い闇のような瞳を覗き込むように見つめる。

「飛鳥が俺を何よりも大事に扱ってくれるから、俺は自分に価値を見いだせる。だけどヘンリーは、アレンを価値のないもののように扱っているだろ? それが許せないんだよ」

 何と答えるべきか戸惑っているサウードに、吉野はふっと緊張をほぐすように微笑んだ。

「お前なら解ると思ったんだけどな。だって、お前の玉座だって、他人の犠牲の上に支えられているじゃないか。飛鳥が俺を守ってきてくれたように、お前もずっと大切に守られてきたんだろ? 今、俺たちがこうしてのほほんと生きていられるのって、そういう事だろ?」




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