胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 ヨシノの言っていることは、どこまでが本当でどこからが嘘なんだろう? 

 ガストン家の馬場の果てしなく続く柵に腰かけて、クリスと並んで馬を走らせる吉野を目で追いながら、答えのでない問いを、サウードは何度も繰り返し自問していた。 


「殿下は乗馬はなさらないのですか?」
 背後からかけられた声に、サウードは柵から下りてすっとその横に佇むと、「今はね」と長身の相手を見上げ、上品な仕草で右手を差しだした。
 挨拶を交わし視線を馬場に移したガストン卿は、目を細めて穏やかに頬笑んでいる。

「殿下を初め、クリスは学友に恵まれている。喜ばしいことです」
「そうだね。エリオットでは、彼の傍らに立つことが今やステイタスのひとつだもの。クリスは労せずしてその位置を得ている。これも計算のうちなの?」
「何のことでしょうか、殿下?」

 笑みを絶やさず穏やかに話す初老の紳士に、サウードはニコリともせずに言葉を続けた。

「ヨシノ・トヅキと同室の権利を勝ち取るのは、あなたでも高くついたんじゃないのかな? それはヨシノ自身への評価だったの? それとも、ルベリーニをバックにつけたソールスベリーへの評価?」
「殿下はどちらだと思われますか?」
「僕ならヨシノへ投資するよ」
「ほう、それはなぜでしょう? 教えていただけますでしょうか?」


 サウードは遠く馬を駆る吉野とクリスから、すぐ脇に佇むクリスの父親に視線を戻し、どこかぼんやりとその顔を見つめた。

「あなた方英国人は、金で買えないものは何なのかよくご存じだ。ヨシノは、彼は、何なら金で買えるのかを心得ている。あなた方が買えないと思っているものに、彼が幾らの値段をつけて買いつけるのか知りたいんだ。僕は、投資家だからね」

 言うだけ言うと、もう傍らの紳士には興味をなくしたように顎をしゃくる。「イスハ―ク、馬の用意を」サウードは、ひらりと柵を飛び超えた。そして、少し離れた場所に繋いである自分の馬へと歩き出す。


「殿下、値段のつけられないものにこそ、価値があるのですよ」
 笑いを含んだ声でその背に呼びかけるガストン卿に、サウードは一瞬足を止めて振り返り、鷹揚な視線を向けた。

「それさえ担保にとるのが、あなた方、銀行家だろう?」
 微かに笑みを浮かべ、サウードはイスハ―クの引く馬の鐙に足をかけ、ひらりと跨った。





「お父さまに、お祖父さままでいらしたから、びっくりしてしまったよ!」

 クリスは心底驚いたように片手で自分の胸を押さえて、背後の応接間に続く重厚な扉を振り返りながら小声で囁いた。

「いつもはロンドンの自宅にいらっしゃるから、夏季休暇と、クリスマスくらいしかお目にかかることはないのに――」

 まだ心臓がドキドキするのか、自分を落ち着かせようと何度も浅く深呼吸を繰り返す。

「へぇ、家族って言っても色々あるんだな。て、俺もそうか――。夏に親父がこっちに来てくれた時に一回会ったっきりだ。お前らは?」
「僕も、年に数回かな」と答えるサウードに、「僕は休暇の度に自宅に帰るからもっと多いよ」と、こちらも驚いたように答えるフレデリック。

「ふーん、で、自分の親に会うのにあんなに緊張するもんなの?」
 不思議そうに質問する吉野に、サウードは同意するように頷く。
「そうだね。僕は解るよ。父は、父である以上に、君主だからね」
「まぁ、お前んとこはなぁ」
 吉野の相槌に、皆、頷きあった。
「そう、僕もそう、お祖父さまっていうよりも、ハートコート伯爵だよ。それに、シティの――」

 最後まで口にすることができないクリスを気遣って、しーん、と、申し合わせたかのように皆押し黙り、沈黙と緊張が覆いかぶさる。
 いったん静寂に包まれると、ガストン家の長い廊下に敷かれた深紅の絨毯や、両壁を埋め尽くすほどに延々と続く肖像画が、高い天井から見下ろす煌びやかなシャンデリアや天使の壁画が――、何百年もの歳月を経た歴史の重みでもって、まだ年若い子どもたちを圧迫する。


 その重苦しい緊張を破るように、吉野が口を開いた。
「その爺さんですら、さすがに皇太子殿下には挨拶に来るんだな。ま、当然か」
「僕じゃない、きみに会いにきたんだ。前回ここに来た時は、どちらにも会わなかった」
「へぇー、そりゃ、光栄だな。――ヘンリーに伝えておいてやるよ」
 吉野は、まっすぐ前を向いたまま気の抜けた口調で応えた。サウードはその横を歩きながら、何か問いた気な様子でじっと彼の横顔を見つめる。

「何?」
 いきなり振り向いた吉野にサウードは微かに躊躇して、次いで苦笑して言葉を継いだ。
「きみは、誰に会おうと、気にならないみたいだね」
「そんなことないよ。今、計算中だよ」
「計算? 何の? 出会いの損得計算をしているってこと?」

 不愉快そうに眉をしかめたサウードに、吉野は大真面目な顔をして説明し始める。

「そうじゃないよ。この出会いが、俺の投資に影響する可能性と度合いのパーセンテージを割り出しているんだよ」

 意味が判らない、とサウードたちは、さらに深く眉間に皺を刻んでいるようだ。

「星は好き勝手に動いている訳じゃないだろ? ちゃんと軌道があって、それに沿って動いている。その速さも、位置も、計算で出せる。俺の立てた数式も同じ。答えに向かって動いているんだ。それに不確定性要素を加味して時々軌道修正を入れてやるんだよ」
「余計に判らないよ」

 吉野を挟んでサウードと逆側から、クリスは吉野を覗き込んだ。

「英語で説明するのって、難しいな――。だからな、サウード、お前は英語に堪能だけれどさ、考える時は英語? アラビア語?」
「両方かな、その時による」
「俺は、日本語。でも俺の言語は日本語だけじゃないんだ。俺や飛鳥は、数字でも考える。だから、俺自身の興味関心とは別にさ、脳の別のところで常に考えて、ていうか計算しているんだよ。いろんな、」
「不確定性要素?」
「そう」

 やっと判って貰えた、と吉野はにっこりと笑う。

「えっと、それじゃあ僕の父や祖父はその不確定――、なんとかな訳?」
 ますます判らないといったふうに唇を尖らせるクリスにも、「そうだな、その一部だ」と吉野は楽しそうににっと応えている。

「今回立てた式の中で面白いのって、この不確定性要素の部分だけだからさ」
「それって、ええと、きみは、僕の父や祖父との出会いを喜んでいるって、受け取っていいのかな?」
 小首を傾げて自信なさげに訊ねたクリスを見て吉野はクスクスと笑い出し、「それでいいよ」とその背中をパシっと軽く張った。

 フレデリックは、相変わらず訳が判らないといった素振りで肩をすくめている。呆気に取られているとしかみえなかったサウードが、意外にも、いかにもすっきりした様子で急に笑い出す。

「解った。きみって人は、矛盾の塊なんだ」
「そうか?」
 吉野も笑っている。
「きみの数字は、きみの言葉にうまく翻訳できないんだ。だから意味を取り違える」
「あ、それはあるな」
「理解できたよ」
 堰を切ったように笑うサウードに、「ずるいよ! 何が解ったの? 僕は全然解らないよ!」と、クリスは不思議そうに目を見開いて、彼の着ている白い民族衣装、サウブの袖先を引っ張った。

「ヨシノは、大嘘つきだけど、嘘つきじゃない。これは、彼の式の中で矛盾しない。そういうことだよ」
「ますます解らないよ!」

 つい先ほどまで静寂の支配していた重厚な廊下に、クリスの拗ねたような甲高い声と、賑やかな笑い声が響き渡っていた。





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