胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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「そんなところで何やっているの~?」
 自室の目の前にあるバスルームのドアにもたれてうずくまっている吉野に気づき、デヴィッドは怪訝な顔で立ち止まった。

「飛鳥が、もう一時間になるのに出てこないんだ」
 吉野は、しゃがみこんだまま顔だけを上げて答える。
「声かければいいじゃん」
 言うなり、デヴィッドは吉野越しにドアをドンドンと叩いて、大声で飛鳥を呼んだ。

「アスカちゃーん、生きてる?!」
「おいやめろよ、うるさい」
 吉野は顔をしかめて、ドアとの間に割り込むようにしてデヴィッドの前に立つ。

「考え事してるかもしれないだろ」
「お風呂で溺れているかもしれないでしょ」
 小声で抗議する吉野を無視して、デヴィッドは、ドアノブを捻りドアを開ける。



 がらん、と無駄に広いバスルームの正面にある大理石のバスタブに俯いて座り込んでいた飛鳥は、ぼんやりと、「何?」と小首を傾げる。

「いい加減にしないと、のぼせるぞ」
 先ほどまでとは打って変わって、吉野はすかさず声を低めて、飛鳥を窘めている。
「うん」
 返事をしながらも、飛鳥は湯船の湯をすくい上げては、指の間からこぼれ落ちていく様を繰り返し眺めている。


「デイブ、液体ガラスって知ってる?」
「ガラスは個体でしょ~? 1000℃以上で溶けるんだっけ~?」
「常温で液体のように扱えるガラスがあるんだよ。多くは塗料として使われているんだけれどね。面白いよねぇ。昔は不可能だと思っていたことが、どんどん可能になっていくんだ」


 飽きることなく湯の感触を楽しんでいるその様子に、「飛鳥、もう少ししたら上がるんだぞ」と吉野はデヴィッドの腕を取り、踵を返してパタンとドアを閉めた。

「な、ああいう時は邪魔しちゃ駄目なんだよ」
 ドアにもたれて、吉野はとっくに諦めているように小さく哂った。
「お湯、冷めかけてたな――。中のヒーターの温度、上げとかないと」
 ドア横の壁に設置されたパネルを調節する吉野に、デヴィッドは眉根を寄せて不愉快そうに呟く。

「甘やかしすぎなんじゃないの?」
「どこが?」
「僕に対する態度と違い過ぎない?」
「じゃ、お前もTSの開発をしろよ。尊重してやるから」
 にっと皮肉るように嗤った吉野の頬を、デヴィッドはぐいっと引っ張った。
「僕は、ディレクターなの! 忘れたの~! アレンが戻ってきたら、すぐ次のCM製作に取りかかるよ~」
「――そういえば、アーニーは?」

 吉野は頬を擦りながらふくれっ面をし、だが文句は言わずに話題を変えた。

「帰ってるよ。居間にいる」
 はぁ、と大きくため息をつき、「嫌な事は早めに済ませておくに限る――、だな。アーニーに話があるんだ。後、三十分したら飛鳥に上がるように言ってくれる?」

 真面目な視線でデヴィッドに頼むと、吉野は面倒くさそうに階段を下った。

「やぁ、ヨシノ、来ていたんだね」
 いつも通りにこやかに迎え入れてくれるアーネストに、吉野はちょっと微笑み返し、「なぁ、飛鳥のことなんだけどな、」と向いのソファーに座り単刀直入に切りだした。


 アーネストは待っていたかのように姿勢を正し、組んだ足の上に指を組み合わせて軽く頷く。

「クリスマス明けからこの一カ月あまりで、ジョサイア貿易の株価が暴落しただろ、俺の、短慮のせいで」

 意外な吉野の言葉に、アーネストは表情を改め頭を振った。

 吉野の言う通り、未上場のアーカシャ―HDの販売網を一手に引き受けているジョサイア貿易は、TSのニュースひとつで株価が乱降下している。そして今現在は、一切表との接触を絶っているヘンリーの対応のまずさのせいで、暴落の憂き目に遭っているのだ。ヘンリーの父はCEOを弟に譲り、すでに第一線を退いていた。現CEOは、今のところ株価対策には乗りだしてはいない。


「きみのせいじゃない。浅はかだったのはヘンリーだよ」
「でも、飛鳥は俺のせいだと思っている。飛鳥のスマホの検索履歴を調べたんだ。すごく、ジョサイアの株価を気にしていた」
「そんなこと――」

 顔を曇らせ、組み合わせている指先に力を入れて考え込むようにアーネストは視線を伏せた。

「『杜月うち』は、未上場だけどさ、やっぱり風説の流布で何度も酷い目にあってきたんだ。だからさ、怖いんだよ、こういうの――」

 吉野は言葉を切ってふーと息をつく。

「飛鳥は言わないからな、こういうことは。だって、自分でどうこうできることじゃないって、骨身に染みて判ってるんだ。自分ができることをするしかないって」

 くやしそうに顔を歪め、唇を噛んだ。だがすぐにいつもの吉野らしく、にっ、と挑むような笑みを刷く。

「それでな、サウードが言うにはな、」
「サウード?」
「プリンス・サウード・M・アル=マルズーク。俺のダチ。あいつが言うにはな、どこかが、ジョサイアに空売りを仕掛けているって。恐らくは、米国のフェイラーだろうって」

 きゅっと口許を引きしめたアーネストを見据え、吉野はくっと喉を鳴らす。

「なんだ、やっぱり知ってたんだ。じゃ、これも知っている? アレンがさ、CMのギャラ替わりに、友達にプレゼントするためのTSが欲しいって言ったのは、サウードと、クリス・ガストンの家にジョサイアの株を買わせたかったからだって。そのために、わざわざクリスの実家や、親戚が一同に会する大晦日のパーティーにTSを送りつけたんだって」
「まさか、そんなこと――」
「あいつ、やっぱりヘンリーの弟だよ」

 クスクスと笑う吉野を、アーネストは呆然と眺める。

「サウードの国の政府系ファンドと、クリスん家の銀行の投資セクターがもうごっそり集め始めてる。なぁ、これって、インサイダーになるのかなぁ?」

 アーネストは苦笑して首を横に振った。

「誰も、何も喋っていないだろ? TSの実物を見て投資を決めたのならインサイダーには当たらないよ。でも、それが本当なら――」
「踏み上げだろ?」
「――きみさぁ、どこでそんな事、覚えてくるわけ?」

 呆れたようにため息をつくアーネストに、吉野は屈託のない笑顔で答えた。

「学校だよ。授業で習った」

 アーネストも釣られて笑いだしながら、頭の中ではフル回転で状況分析を始めていた。

 それが本当なら――。

「何かきっかけが欲しいんだよ。あいつはまだ引っ張り出せないの?」

 吉野の真剣な問いかけに、アーネストは申し訳なさそうに首を振るしかない。

「後の事は大人に任せておけばいい。ヨシノ、ジョサイアのことは心配しなくていいから。アスカにもそう言っておくよ」
「うん」

 素直に頷いた吉野は、ちょっと頼りなげに、小首を傾げて呟いた。

「飛鳥なぁ、もう、株価よりも気になること、見つけたみたいなんだよ――」






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