胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 玄関先で到着したばかりの吉野を迎えたデヴィッドは、開口一番顔をしかめていた。
「アスカちゃん、あんな劇薬を使っているの? あれ、依存性も、副作用もめっちゃ強い、英国では販売禁止になった薬品だよ」
 吉野はデヴィッドの横をすり抜けながら頷く。
「知っている。だから俺がいる時は使わせないよ。飛鳥は、部屋?」
 淡々と答え階段を上っていく。
「飛鳥、」
 返事も待たずにドアを開けた。



「お帰り、吉野」
 ティーテーブルに頬杖をつき、入り口を見あげた飛鳥は、いたって普通だ。にっこりと笑って吉野を迎えてくれている。
「ただいま」
 ローテーブルを挟んで腰かけた吉野は、テーブルをトントン、と叩いている飛鳥の指先を見て、小さく眉をしかめた。

「飛鳥、何が問題なの?」

 トントンと、小刻みに指に伝わる振動に全神経を集中させつつ、飛鳥は伏せていた目線をおもむろに上げ、吉野の顔をぼんやりと見つめる。

「空中モニターのタッチパネル操作。指先で画面の大きさを変えたり、ページを捲ったりは問題ないんだけどね、使ってくれている人の八割以上が、文字はタブレット入力なんだ。画面を直接タップするのは、違和感があって使いづらいって」
「俺はそんなに気にならないけどな」
「僕は、空中画面よりタブレット、それよりさらにキーボード派だなぁ」

 テーブルを叩く手を止めて、飛鳥は苦笑を浮かべ小首を傾げる。

「それ、飛鳥が言っちゃ駄目だろ?」

 吉野も、鼻に皺をよせて笑った。

「だからさ、僕が納得するくらいの、使い勝手の良い空中入力画面にしたいんだよ。次に発売するTSネクストは、空中画面だけで操作してもらわなくちゃならないからね」
「TSは静電容量式タッチパネルだよな。指先の動きをセンサーで捉えているんだから、本当は画面に触ってるかどうかなんて、関係ないんだろ? 要は、感覚的な問題だろ?」

 吉野は面白そうに瞳を輝かしている。

「空中画面の文字入力を、フリック入力と、キーボード式と二種類選べるようにしたらいいんじゃないのか? 俺はフリックの方が楽に思うけれど、飛鳥みたいに仕事に使うやつは、やっぱりキーボードだろ? それでさ、どっちにも、実際のキーボードみたいな負荷をかけるんだ」
「負荷? タッチ画面に負荷をかける?」

 飛鳥は怪訝な顔で訊き返す。

「タブレットのタッチパネルは、ガラスだろ? やっぱり叩く時に指先に刺激があるじゃないか。空中のタッチ画面は、その抵抗感が低すぎるんだ、ってアレンが言ってた。あいつ、ああ見えて飛鳥と同じキーボード派なんだよ。使っているパソコンキーボードは、キーの重さを四十七グラムに調節してあるやつで、それだと普段使っているピアノの鍵盤と同じだから、指が疲れにくくて、なおかつ違和感なく使えるんだって」
「ピアノの鍵盤と同じ重さ――」
「だからさ、空中なんだからさ、指先が鍵盤を叩くみたいに沈み込んだっていいじゃないか」
「うん、判るよ――。ピアノ、あったよね?」
「二階の使っていない部屋だな」
「キーを押してみたい」

 言うよりも早く勢いよく立ち上がって、ふらっと、額を押さえる飛鳥の腕を、吉野は掴んで慌てて支えた。


「僕の使っているのはプログラミング専用キーボードだし、キーの重さなんて気にしたこと無かったよ」
「アレンのパソコンを使わせてもらったけれど、確かに軽くて打ちやすかったよ。あ、でも、アレンのピアノは、軽めの鍵盤に調節してあるって言っていたから、ここのピアノとは違うかも」

 飛鳥は驚いたように吉野を見つめ問いかけた。

「わずかなキーの重さの違いに、そんなにこだわりがあるものなの?」
「そりゃ、あるだろ? 飛鳥は痛みにだって鈍いものな――。でも、根詰めて仕事した後は、よく指が痛いって言っていたよ。覚えていないだろうけど。アレンの場合はな、鍵盤の重さでも弾く曲のイメージが変わるんだって」

「繊細なんだねぇ――」
「指先の触覚なんか、飛鳥や、佐藤さんこそ、人間離れして繊細じゃないか」
 クスクスと哂う吉野に、飛鳥も、「僕はともかく、佐藤さんはねぇ……」と笑みを浮かべて頷いた。


『杜月』を祖父の代から支えてきてくれた技術部長の佐藤は、ガラスをサラリと撫でるだけで、数ミクロンの誤差をその指先で感知できる昔気質の職人だ。祖父亡き後、ガタガタだった『杜月』を見捨てずに飛鳥たちを支え、公私に渡って助けてきてくれた家族にも等しいひとでもあった。

「佐藤さんは、何て言うかな――」
 懐かしそうに、小さくため息をついた飛鳥に、「ボン、もっとしっかり食いな! でかくなれねぇぞ!」

 吉野は眉間に皺を寄せて『佐藤のじいちゃん』に似せた、しわがれた声音で叱りつける。

「それから、さっさと寝ろ、ボン! これだから、ちっとも背が伸びねぇんだよ!」

 飛鳥も笑い出しながら、肩をすくめて頷いた。

「判ったよ、吉野、後で何か作って」

 細い指先を吉野の肩にかけ、二人で冗談を言い合いながら、二階の防音室に続く階段を下りていった。






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