胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
213 / 745
四章

追加1

しおりを挟む
 TSトランス・スパークスを所有していることが、一種のステイタスとなった。
 シンボルカラーの青紫のメタリックなボディー以外、取り立てて他のタブレットとの差はないのに、一度、空中画面を立ち上げれば、周囲から感嘆の声が上がる。その瞬間の持ち主の誇らしげな顔といったら、まさしく未来をリードする先駆者にでもなったようだ。
 だが、タブレットとしては高額すぎる値段と少なすぎる生産台数のせいで、オークションでの鰻登りに法外な値段での中古品取引に、TSと偽った詐欺まがいの商品までが出てきて、不満と対応の遅れを糾弾する声も高まっている。
 年末の発売日以降、一ヶ月が過ぎてもCEOであるヘンリー・ソールスベリーは沈黙を守ったままだった。



「アーニー、苦情対応は落ちついてきた?」
 ケンブリッジのフラットで、黙々と日々の事務的な作業をこなしていたアーネストは、申しわけなさそうな色を含んだ飛鳥の声に、「かなりね。やっぱり、空中操作の違和感に馴れるまでが問題だったね」と、眼前に浮かぶTS画面の報告書を目で追いながら答えるた。

「それにしても、開発者のきみが、いつまで経ってもパソコンだとはねえ……」

 呆れたように笑い面を上げる。そして、いつの間にかパソコン画面から離れてソファーに深く身をもたせかけている飛鳥の疲れきった様子に、今さらながら気づいて眉をひそめた。

「アスカ、」ローテーブルの上のティーポットから、上品なアンティークのカップにお茶を注ぎ、ソーサーごと持ち上げて飛鳥の胸元まで届ける。

「ありがとう」
 飛鳥は目を眇めて受けとると、しばらくの間、ティーカップの中でゆらりと揺らぐ金色の紅茶をぼんやりと見つめていた。と、急に何を思ったのか、人差し指をその表面に突っ込んでいた。

「熱っ!」
「大丈夫! 火傷していない?」

 慌てるアーネストの目に、曖昧な苦笑を浮かべる飛鳥が映る。

「ごめん、平気だよ。――空中画面の指先への抵抗感をもう少し、強くしてみようかと思って。もっと指に負担がかかるくらいの方が、かえって触れている実感が持てるんじゃないかな……、サラに言って、」

 言いかけて、飛鳥は押し黙る。

「僕がやるよ」
 虚ろな目で空を見つめたまま呟いていた。
「コンセプトはこうだよ。まるで、水面を叩くような柔らかさ――」

 小さく息をついて、ぐいっと自分自身を励ますように微笑んだ飛鳥を、アーネストは気遣うように見つめた。

「アスカ、無理しないで」
「スイスに行くよ」
 飛鳥はまた、沈み込むようにソファーにもたれていた。
「ヘンリーがいなくても、進められるよ。彼が戻ってくるまでに、できるところまで僕がやる」

 目を瞑って、眠っているかのようにじっと動かない飛鳥に、アーネストは何と声をかけていいか判らないまま、重苦しい沈黙が流れていた。



 いつの間にか居間に入ってきたデヴィッドが、飛鳥の背後から腕を廻してぎゅっと抱きしめていた。

「アレンはいつ帰ってくるの~? ヨシノから連絡は?」

 弟の明るい声に、アーネストはほっとしたように息をつく。飛鳥は頭を反らせてデヴィッドに顔を向けると、首を横に振る。

「TSネクストのポスター、撮りたいんだけれどなぁ……」
 デヴィッドはソファーを乗り越えて座ると、自分でカップに冷めかけたお茶を注いで、一気にごくごくと飲み干す。

「アレンは成長期だからね~、今の中性的な雰囲気でいられるのも、わずかな間だけだもの」
「判らないよ。どうしてアレンは戻ってこないの?」
 飛鳥の問いかけに、「今回は、フェイラーも怒っているだろうからねぇ――」とデヴィッドとアーネストは、困ったように顔を見合わせる。

「いわゆる~、駆け引きだよぉ~。ヘンリーが、TSにアレンを引き込んだから~」
「サラのことは、ヘンリーのお母様も、お祖父様も、知っていたはずなんだ。サラが、サラ・スミスでいる分には問題はなかったんだよ。でも今回、ヘンリーが、って言うよりも、リチャード叔父さんがサラを認知して戸籍に入れたからね。これでサラにも相続権が発生したんだ。フェイラーとしては、困った問題になったってことさ。特にアレンの素性に関してがね」
「フェイラーも、頭を悩ましているってところかなぁ~。だからさぁ、ヘンリーは、まだ動かないのぉ?」

 デヴィッドも困り顔で溜息をつき、口を尖らせて上目遣いで兄を見る。
 眉をひそめて聞いている飛鳥に、アーネストは安心させるように、ふわりと厳しい表情を崩してにっこりと微笑みかけた。

「心配いらないよ。この件に関しては、ヘンリーの持っているカードの方が強い」
「そのカードを切るかどうかは判らないけれどねぇ」

 今まで見たことのないようなデヴィッドの冷たい視線に、飛鳥以上にアーネストが驚き、嗜めるように眉をひそめた。

「お前、アレンに情でも移ったの?」
「判っているよ~」
 デヴィッドはぷいっと膨れっ面をする。
「でも~、アレンはもうTSの顔だよ~」

 気まずい沈黙を破るように飛鳥は顔を上げ、「僕は、僕に出来ることを頑張るよ」と、遠くを見るようだった、ぼんやりとした瞳に力を戻して、奥歯をぎりっと噛みしめた。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おっぱい編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート詰め合わせ♡

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

【R-18】クリしつけ

蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

処理中です...