207 / 739
四章
3
しおりを挟む
コンコン、と、かすかなノックの音がした。アレンは虚ろな顔で立ち上がり、自室のドアを開ける。
「ヨシノ――」
むすっとした仏頂面で部屋に踏み込んできた吉野は、「ごめんな、昼間」とその顔のまま謝った。
「そんな怖い顔をしているから、怒っているのかな、ってドキドキしちゃったよ」
アレンは強張っていた表情を崩して笑い、ほっとしたように窓際に設えられたソファーにすとんと腰を下ろす。
「この部屋から、ロンドンアイが見えるんだな」
吉野は突っ立ったまま、アレンの背後に広がるロンドンの夜景を見下ろした。青い月輪のような大観覧車のネオンが遠くに輝いている。
「うん。新年の花火も良く見えたよ」
アレンも身体を捻って、窓外を見おろす。
「去年の?」
「うん」
「米国に帰ったんじゃなかったのか?」
アレンは吉野に視線を戻すと、情けなさそうに唇を歪め、ふっと瞼を伏せた。
「クリスマスも、新年も、ひとりですごすなんて、恥ずかし過ぎてクリスには言えなかったんだ」
「しばらくここに泊めて」
吉野はどっかりとアレンの向かいのソファーに腰を下ろすとごろりと寝そべって、履いていた革靴を放り出して足を組む。
「え?」
口をポカンと開けて聞き返すアレンに、吉野は頬を膨らませて駄々を捏ねる。
「俺、お前の兄貴に怒っているんだ。だからあいつの家には帰りたくない。しばらく家出する」
アレンは冗談だと思ったのか、クスクスと笑った。
「僕はかまわないけど、きみのお兄さんが心配なさるよ」
「飛鳥なら大丈夫だ。俺のこと、判ってるから」
吉野は至って真剣な眼差しで答えている。
「えっと、じゃぁ、取りあえず、きみのお兄さんに連絡して。それで許可が貰えたら――」
吉野はカーゴパンツの後ろポケットを探り、チッと舌打ちした。
サラに渡したままだ……。
「スマホ、忘れてきた」
アレンは自分のスマートフォンを吉野に差しだした。
「腹が減った」
よほど疲れているのか、しばらくの間ソファーでぼんやりしていた吉野がいきなり目を開けて呟いた。
「じゃ、食べに行こうか。ここのホテルのレストランはシーフードで有名で、」
アレンは言いかけて、あっと言葉を詰まらせ、紺のフリースにカーゴパンツ姿の吉野の服装を気遣い、言い換えた。
「やっぱり、ルームサービスを頼むよ。その方が気楽でいいよね」
「外に食いに行こう。その前に買い物だ。急ごう、店が閉まっちまう。悪いけど、金、貸しといて。俺、飛びだしてきたから何も持ってきてないんだ」
吉野は両手をひらひらと上げてにっと笑う。
「でも、ラザフォード卿も、フレミング先輩も、しばらく外に出るなって……」
「あいつら、本当にひとを閉じ込めておくのが好きだな。かまうもんか! ここは寮の反省室じゃないんだぞ!」
その反省室にいる時でさえ平気で逃げ出す吉野の言うことを聞いていいものやら、とアレンは困って顔をひきつらせている。
吐き捨てるように憤りをぶつけた吉野は、かまわず靴を履いて立ち上がった。
当たり前のように、早くしろ、とばかりに睨みつけられる。そんな吉野に驚かされ、目を見開いて見つめていたアレンは慌てて頷くと、自分のコートを手に取った。
「それ要らない。タクシーで行くから。タイも外していけよ。邪魔になる」
「カムデンタウン」
タクシーに乗り込み行先を告げた吉野は、また黙りこんで、ぼんやりと車窓から流れるネオンを目で追いかけている。アレンは話かけることもできずに、目を伏せたままじっと座っている。
「そこで止めて」
シャッターが閉められた店が多い中で、まだ煌々と明かりの灯る一軒の店の手前でタクシーを降りた。
「来いよ」
くいっと顎をしゃくる。さっさと店に入って行く。アレンは慌ててその背を追った。
所狭しと並べられた、洋服や靴、雑貨や小物にも見向きもせず、吉野は奥のカウンターに向かうと、「この靴、幾らで買ってくれる?」と自分の足元を指さして言った。
靴を脱がせ、念入りにチェックした店員は、「ま、こんなものかな」と電卓を叩いて見せる。
「ちぇっ、もう一声ないのかよ」
吉野はぐるりと店内を見廻して、つかつかと棚にあった履き古したミリタリーブーツを手に取ると、ダンッとカウンターに置いた。
「これ買うからさ、これだけおまけしてくれよ。こんな値段じゃ、ジャケットが買えない。このままじゃ、凍え死んじまう」と唇を尖らせ電卓を弾く。
「ヨシノ! お金なら――」
吉野の背後で唖然とその様子を見守っていたアレンは、我に返って慌てて財布を取り出そうとスーツのポケットに手を入れる。吉野はその手を押さえて、「こいつのスーツも、幾らになる? ブルックスのオーダー品だぜ」と、アレンにポケットに入っている物を取り出させ、ジャケットを脱がせると、もう一度抜き忘れはないか念入りに叩いてから、カウンターに置いた。
「それからこいつに着るもの見繕ってやって。寒がりだから暖かいやつ」
「綺麗な子だねぇ」
金髪を綺麗に刈りこんだひょろりと背の高いその店員は、目を細めてにこっと笑うと、軽くウインクして言った。
「まかせて、サイコーにロックにしてあげるよ!」
「ヨシノ――」
むすっとした仏頂面で部屋に踏み込んできた吉野は、「ごめんな、昼間」とその顔のまま謝った。
「そんな怖い顔をしているから、怒っているのかな、ってドキドキしちゃったよ」
アレンは強張っていた表情を崩して笑い、ほっとしたように窓際に設えられたソファーにすとんと腰を下ろす。
「この部屋から、ロンドンアイが見えるんだな」
吉野は突っ立ったまま、アレンの背後に広がるロンドンの夜景を見下ろした。青い月輪のような大観覧車のネオンが遠くに輝いている。
「うん。新年の花火も良く見えたよ」
アレンも身体を捻って、窓外を見おろす。
「去年の?」
「うん」
「米国に帰ったんじゃなかったのか?」
アレンは吉野に視線を戻すと、情けなさそうに唇を歪め、ふっと瞼を伏せた。
「クリスマスも、新年も、ひとりですごすなんて、恥ずかし過ぎてクリスには言えなかったんだ」
「しばらくここに泊めて」
吉野はどっかりとアレンの向かいのソファーに腰を下ろすとごろりと寝そべって、履いていた革靴を放り出して足を組む。
「え?」
口をポカンと開けて聞き返すアレンに、吉野は頬を膨らませて駄々を捏ねる。
「俺、お前の兄貴に怒っているんだ。だからあいつの家には帰りたくない。しばらく家出する」
アレンは冗談だと思ったのか、クスクスと笑った。
「僕はかまわないけど、きみのお兄さんが心配なさるよ」
「飛鳥なら大丈夫だ。俺のこと、判ってるから」
吉野は至って真剣な眼差しで答えている。
「えっと、じゃぁ、取りあえず、きみのお兄さんに連絡して。それで許可が貰えたら――」
吉野はカーゴパンツの後ろポケットを探り、チッと舌打ちした。
サラに渡したままだ……。
「スマホ、忘れてきた」
アレンは自分のスマートフォンを吉野に差しだした。
「腹が減った」
よほど疲れているのか、しばらくの間ソファーでぼんやりしていた吉野がいきなり目を開けて呟いた。
「じゃ、食べに行こうか。ここのホテルのレストランはシーフードで有名で、」
アレンは言いかけて、あっと言葉を詰まらせ、紺のフリースにカーゴパンツ姿の吉野の服装を気遣い、言い換えた。
「やっぱり、ルームサービスを頼むよ。その方が気楽でいいよね」
「外に食いに行こう。その前に買い物だ。急ごう、店が閉まっちまう。悪いけど、金、貸しといて。俺、飛びだしてきたから何も持ってきてないんだ」
吉野は両手をひらひらと上げてにっと笑う。
「でも、ラザフォード卿も、フレミング先輩も、しばらく外に出るなって……」
「あいつら、本当にひとを閉じ込めておくのが好きだな。かまうもんか! ここは寮の反省室じゃないんだぞ!」
その反省室にいる時でさえ平気で逃げ出す吉野の言うことを聞いていいものやら、とアレンは困って顔をひきつらせている。
吐き捨てるように憤りをぶつけた吉野は、かまわず靴を履いて立ち上がった。
当たり前のように、早くしろ、とばかりに睨みつけられる。そんな吉野に驚かされ、目を見開いて見つめていたアレンは慌てて頷くと、自分のコートを手に取った。
「それ要らない。タクシーで行くから。タイも外していけよ。邪魔になる」
「カムデンタウン」
タクシーに乗り込み行先を告げた吉野は、また黙りこんで、ぼんやりと車窓から流れるネオンを目で追いかけている。アレンは話かけることもできずに、目を伏せたままじっと座っている。
「そこで止めて」
シャッターが閉められた店が多い中で、まだ煌々と明かりの灯る一軒の店の手前でタクシーを降りた。
「来いよ」
くいっと顎をしゃくる。さっさと店に入って行く。アレンは慌ててその背を追った。
所狭しと並べられた、洋服や靴、雑貨や小物にも見向きもせず、吉野は奥のカウンターに向かうと、「この靴、幾らで買ってくれる?」と自分の足元を指さして言った。
靴を脱がせ、念入りにチェックした店員は、「ま、こんなものかな」と電卓を叩いて見せる。
「ちぇっ、もう一声ないのかよ」
吉野はぐるりと店内を見廻して、つかつかと棚にあった履き古したミリタリーブーツを手に取ると、ダンッとカウンターに置いた。
「これ買うからさ、これだけおまけしてくれよ。こんな値段じゃ、ジャケットが買えない。このままじゃ、凍え死んじまう」と唇を尖らせ電卓を弾く。
「ヨシノ! お金なら――」
吉野の背後で唖然とその様子を見守っていたアレンは、我に返って慌てて財布を取り出そうとスーツのポケットに手を入れる。吉野はその手を押さえて、「こいつのスーツも、幾らになる? ブルックスのオーダー品だぜ」と、アレンにポケットに入っている物を取り出させ、ジャケットを脱がせると、もう一度抜き忘れはないか念入りに叩いてから、カウンターに置いた。
「それからこいつに着るもの見繕ってやって。寒がりだから暖かいやつ」
「綺麗な子だねぇ」
金髪を綺麗に刈りこんだひょろりと背の高いその店員は、目を細めてにこっと笑うと、軽くウインクして言った。
「まかせて、サイコーにロックにしてあげるよ!」
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる