胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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「よう、坊主、どうしたんだ? しけた面しやがって」
 カラン、とドアベルを鳴らして『閉店中』の札のかかった店に入った。とたんに響いたジャックのしわがれ声に、吉野はくしゃっと嬉しそうに微笑んで、「久しぶりだな。腰はどう、良くなった?」と先ほどまでのうつうつとした気分を払うように明るい声で訊いた。
「いつも通りさ」
 ジャックは片手をひらひらとさせながらにっと笑い、コーヒーを淹れる準備にかかる。


「ジェイクは?」
 吉野はカウンターに置かれたコーヒーをゆっくりと飲みながら、久しぶりにのんびりとくつろいだ気分で店内を見まわした。ふと、壁に貼られたポスターで目が留まる。

「ああ、今日はストールの方だ」
「おでんの売れ行き聞きたかったのにな――」

 このパブをモデルにして作られたTSトランス・スパークスのコマーシャルが流されるようになって以来、吉野は人目を避けるようにして厨房に通うのが精一杯になった。

 それでも、大学受験準備にロンドンの叔母の家に下宿しているアンを欠いたジャックの店を盛り立てるために、季節ごとのメニューを考え、提案することは続けていた。アンの母と離婚後、生きる気力を失っていたアンの父親のジェイクも、腰が痛いの、足が痛いのと愚痴をこぼし休みがちのジャックの代わりをこなし、今ではすっかりこのパブの主人だ。

「なんだ、あいつ、毎日メールで報告しているんじゃないのか?」
 オーバーに両手を広げて呆れ顔をするジャック。
「いつもお前のメールの返事を嬉し気に語っているぞ。わしも、もっとハイテクになって、メールぐらい使えるようになれってな」
「うん。数字の報告は貰っている。そうじゃなくて、生の声が聴きたかったんだよ。ほら、英国人って、野菜よりも肉好きだろ?」
「昔の話さ! 今は、猫も杓子も健康志向だからな」とジャックは腹を揺すって笑いながら、「お前の大根、人気者だぞ」と片目を瞑ってにっと笑った。
 吉野も、にっと嬉しそうに微笑み返す。



 十二月に入る頃には、学校の土地を借りて育てた大根は見事に育っていた。英国では、大根はほとんど売られていない。たまに見かけるものも、小さくて、干からびたようなものばかりだ。

 日本から輸入した種で、庭師のヘドウィックの助言を得て、土壌改良を試みながら試験的に栽培した大根の全てが成功したわけではなかったが、その多くが日本のものと変わらないくらいに見事に育ってくれた。

 当初の予定通り、和風出汁の味を好まない英国人にあわせた鶏ベースのスープで炊いたおでんを、ジャックの店で出してもらっている。練り物抜きの、大根や、じゃがいも、ブロッコリーなどの野菜に、卵、ウインナー、鶏肉を加えたシンプルなおでんだ。

 今の時期は、店舗だけではなくクリスマス・マーケットのストールでも店を出している。普段はバイトが行っているのに、今日はジェイク自身が店番をしているらしい。

「なんだかさ、収穫が終わると気が抜けちゃってさ――。楽しかったから、よけいにさ」
 言いながら吉野はまた振り返って、古ぼけたピアノの横に貼られたポスターに目をやった。

「あの坊や、元気にしているか? すっかり有名人になっちまったなぁ」
 吉野の視線の先にいる、古びたピアノを弾く、透明の片羽を背に生やしたアレンのポスターに、ジャックは目を細め、少し淋し気に口許を曲げて笑った。
「気楽にピアノを弾きにこいって、言えなくなっちまったな。――なぁ、お前もあれを持っているのか? しょっちゅう客に聞かれるんだ」

 ジャックは、ポスターのピアノの上方に浮かぶ半透明の楽譜が映し出されたTSを指さしている。楽譜の画面からは、音符が躍るように飛び出して空間に浮かんでいる。

「まだだれも持っていないよ。あれはクリスマスが発売日だ」
 吉野は、ぼんやりとした表情に戻って、つまらなそうに呟いた。

 Knock on the future door. (未来の扉を叩け)

 飛鳥、俺には俺の未来が見えないよ――。

 吉野はポスターに書かれているコピーから目を背けると、思い出したように、カップに残っていた冷めたコーヒーを飲み干した。






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