胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 始業時間になっても一向に人数の増えない環境学の教室に、吉野は隣に座るサウードに訝し気な顔を向けた。
「なぁ、なんで今日はこんなに少ないんだ?」
「きみが、それを訊く?」
 サウードは、吉野の反対隣に座るアレンと顔を見合わせて肩をすくめる。吉野はわけが判らないといったふうに、サウードを越えてイスハ―クに呼びかける。
「お前も知っているのか?」
 イスハ―クは相変わらずの無表情で頷く。
「ちぇっ、何だよ。俺だけ仲間はずれかよ」
 拗ねてそっぽを向く吉野に、サウードは揶揄うように言い返した。
「きみが言ったんだよ。TSトランススパークスの話はするな、って」


 そう言えば、そんな事を言ったような気がする。TSの発売日が決まった時だ。また米国での製品発表会の時みたいにもみくちゃにされ、ぶち切れて怒鳴りつけた。
『うるさい! 会社のことを俺に訊くな! 何も知らないし、仮に知ってたって喋らない! もし、俺から僅かにでも何か漏れたと思われるようなことがあったら、俺、日本に強制送還されるんだからな!』
 それ以来、吉野は腫物扱いだ。


「お前らは、別にいいよ。俺にTSをねだったりしないだろ? 今日は自習なのかな、先生まで来ないじゃないか。TSと何か関係あるのか?」
 サウードは呆れたように笑う。アレンすら苦笑している。
「今日の十時が、TSの先行予約開始時間なんだよ」
 真面目な吉野の表情に、冗談を言っているのではないと判ったのか、アレンがやっと口を開いた。
「そんなもの、関係ないだろ? ネット予約なんて別にその時間に合わせてメールを送らなくったって――」
「それがね、TSの先行予約攻略ガイドなんかが出回っていてね、受付は、メールと電話のみ。販売数は、英国と日本のみで限定五万台。一つの住所に一台だけ。十万台分予約を受けつけてそこからまた抽選だから、もう家族総出で申し込みするらしいよ。今頃みんな、電話にかじりついているんだよ」
「へぇー」
 吉野は、気のない相槌を打った。
「きみはあんまり興味がなさそうだね」
 意外そうにアレンが訊ねた。
「うん。興味ない」

 TSあれは、飛鳥と俺の蜃気楼じゃない――。

 吉野は、ぼんやりと顔を背けて窓外に目を向ける。


「お前らは、もう予約したの?」
 思い返して振り向くと、サウードは嬉しそうに笑って答えた。
「僕たちの分は、アレンがキープしてくれているんだ」
「あのヘンリーが、よくそんな特別扱いを許したな」
「兄じゃなくて、ラザフォード卿が便宜を図って下さったんだ」
 アレンは、少し恥ずかしそうに笑った。

「へぇー」意外そうに驚く吉野の反応に、「きみ、本当に何も知らないんだね」とサウードは、今度は本当に怪訝そうに眉を寄せる。
「知らないよ。飛鳥はずっとスイスだし、ハッキング防止にインターネットも、電話も一切遮断されているから連絡も取れない。たまに絵葉書が来るくらいだ」

「絵葉書!」
 サウードが目を丸くして驚いているところに、どやどやと足音が近づいて、ガラリと教室のドアが開く。遅れていた生徒が一斉に入ってきた。 
 皆、口々にがっかりした顔をして文句を言いあい、チラチラと、吉野やアレンの顔を見ては、ぷいっと顔を背けている。

「どうだった?」
 サウードが、後ろに座った一人を振り返って声をかけた。
「全然駄目。電話は繋がらないし、やっと繋がったと思ったら予定台数の受付は終わりましたって」
「数分で予約台数埋まったらしいよ」
 訊かれた生徒も、その横の生徒も不満そうに口を尖らせている。
「ほんと、きみ達が羨ましいよ」
 二人は、チラリと吉野とアレンの背中を眺め、ため息をつく。

「俺だって持っていないぞ。」
 吉野がくるりと振り向いて言った。
「くれるの? って飛鳥に訊いたら、数が全然足りないし、身内だからって特別扱いできないから、欲しいなら自分で申し込めって言われたんだ。面倒くさいから、予約申し込みしなかった。それに高いしな。二千ポンドも自腹切れるかよ」

 えー! と、周囲から驚愕の声が上がる。

「それ、ほんと?」
「本当だよ。生産技術が特殊過ぎて、まだ量産体制が追いついてないんだ。クリスマスまでに五万台なんて、本当に間に合うのか判らないくらいだよ」

 珍しく饒舌な吉野の周りに、いつの間にか人垣ができている。

「でも、春にはスイスの工場を増設して、もっと量産できるようになるって、ヘンリーが言っていた。だから、すぐに第二期の予約が――」

 ガラリ、とドアの開く音に、みんな蜘蛛の子を散らすようにバラバラと席に着く。


 ホワイトボードに背を向けた先生の目を盗むようにして、アレンが吉野の腕をつついた。差し出されたノートには、

 ――大丈夫なの? 会社のこと漏らしたら、強制送還でしょ?

 と、書かれている。

 ――ヘンリーが言っていた、雑誌でな。

 吉野は、その下にさらさらと返事を書いてノートをアレンの方に押しやる。アレンはクスリと笑うと、また真っ直ぐにホワイトボードに視線を戻し、今度は集中して先生の言葉に耳を傾け始めた。




「それじゃあ、僕は音楽だから」と、急いで教室を出て行くアレンを見送って、「お前ら、いつの間にかすっかり仲良くなったんだな」吉野は笑ってサウードに顔を向けた。
「きみを見習うことにしたんだ」
 サウードも、にっこりと微笑んで応じた。

「僕は、彼のことをここで出会う以前から知っていたんだよ」
 訝し気な顔をする吉野に、「米国のパーティーで何回か会ったことがあるんだよ。皆の前で、彼はピアノを弾いていたんだ。招待客に挨拶代わりに一曲弾いて――。それだけ。話をしたこともなかったけどね。でもあんな、絵の中から抜け出てきた天使のような子が本当にいるんだ、って、ずっと記憶に残っていた。それなのにその天使ときたら、あんなやつだし――」サウードは、クスクスと笑い目を細める。

「でも、まぁ、そんなことよりも、彼はフェイラーで、僕の国は石油輸出で成り立っている。そのことの方が大事だって思い出したんだよ。きみのおかげでね。僕らは、いつまでも子どものままでいられるわけではないってこと。彼の方から歩み寄ってくれて助かったよ。手間がはぶけた」
「俺、何かしたか?」
 ますますわけが判らない、といったふうに訊ねる吉野に、サウードは首を横に振って静かに微笑んだ。

「僕が少しだけ、大人になれたんだと思う」







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